2 導かれる者たち
「――今日呼んだのはほかでもない」マイニエリ師がゆっくり話しだす。「そなたに頼みたいことがある」
「はい」パティは姿勢をただす。
もともと、師より召されるときは、師の代行をするなんらかの依頼だと相場が決まっていた。
パティにはいままで一度もお呼びがかかったことはなかったが、先輩の何人かは経験していた。
直近では、薬師となるべく研鑽を積んでいる姉弟子が、原因不明の熱病患者を診るため、医師とともに草原の国の田舎町に赴いていた。
適性などももちろん関係しているだろうが、師より任務の代行依頼をうけることは、それなりに能力や人間性が評価された証拠でもある。
ただし重責の課せられた仕事には、師あるいは院の教師たちが就くことになっているので、院生に声がかかるのは一種の実技試験のようなものともいえた。
「いまからここに枢機院の使いがやってくる」
マイニエリ師はみずからの長いもみあげをいじる。うねうねちぢれた白髪はまるでクモの糸みたいに絡んだ。
「枢機院の使い? 王さまの使者ということですか」パティは口をぽかんとあける。
「ああ、要するに王都の議会にまた厄介な問題がもちこまれたらしい」
「はぁ」
「その厄介さがあまりにも厄介なので私のところにもっていけと、国王なりなんなりがのたまったのだろう」
師のもみあげから数本の毛の束がごっそりぬけた。
「……ひどいですね」パティは唖然とする。毛束についての感想でもある。
師はもみあげの束を「ふぅ」と吹いてとばした。
「まぁいつものことさ。それにその難題はパティにまる投げしようと考えているので、私はいたって平気なのだよ」
「えええっ!?」パティは背骨の神経がしびれるぐらい驚いた。
当然といえば当然の流れだが、なぜか突き放されたみたいにショックだった。
両のこぶしをにぎりしめて顔を赤くするパティに、師はくすくす笑う。
パティはむくれた。
「世の中なんてそんなものだよ。それに今回の話はそもそも解決があるのかどうか私にもわからんのでね……」
しかし、師が真剣な顔つきになったので、パティも自然と真顔にもどる。
師はぽつりぽつりと朗読するみたいに説明をはじめた。
枢機院に陳情書を提出したのは、内海の対岸――草原の国の入口にある〈はずれの港町〉をはじめとする内海に隣接する三国(王都、草原の国、水の国)に属したいくつかの湾岸都市だった。
その陳情書の主題である「内海における船舶失踪および沈没事件」については、パティも概要だけは聞き及んでいた。院でもいくらか話題にのぼったことがある――。
「――内海で船が沈むらしいんだよ」昼食時の食堂で、情報通の先輩セルウェイが(パティをふくめた)仲間たちに得意げな顔で話して聞かせた。「漁船にせよ、商船にせよ、軍船にせよ、郵便船にせよ、天候が大荒れしたわけでもなければ、なにかに襲われた形跡があるわけでもないのに、だれも知らないうちに沈没してしまうんだって!」
「へぇ」とみんなが感慨をもらしたが、ストックデイルというべつの先輩が喰ってかかる。
「ふん、海でのピンポイントの天候の変化なんて風読みたちだって容易にはわからないし、なにかに襲われたかどうかだって、だれも知らないうちに沈んでしまったんだったら未確認情報じゃないか」
セルウェイがむっとする。
ストックデイルは皮肉屋なので、この流れはいつものことだった。
「内海全域の天候については風読みたちだけじゃなく、湾岸都市郡の漁師や保安員たちも管理している。目視だってしているのさ」セルウェイはあからさまにストックデイルをにらむ。「それになにかに襲われた可能性がゼロって言ったんじゃない。浜辺にうちあげられた残骸にその形跡がないってことだよ」
そして、ふたたびみんなをみまわす。
「とにかく、船の難破が絶えないから、しばらく航路停止の勅命がでるかもしれないんだって!」
「ふん」ストックデイルが鼻を鳴らす。
セルウェイが露骨にいやな顔をする。
一触即発の空気にみんながしばらく黙りこんだ。
「――でも、そうなるとたいへんね」するとパティの同輩のフリーダが沈黙をやぶる。「漁業にも影響がでるし、それこそ海路では草原の国が隔離されちゃう」
フリーダはパティとおなじ歳でいちばんの友だちだったが、性格は積極的で度胸もあり、まるで姉のようでもあった。
「そう、それだよ」セルウェイがにこやかにフリーダをみる。「いまや内海の安全の確保は、諸国にとって重要なのさ」
「そんなことおまえに指摘されなくてもわかるよ」
ストックデイルはそれだけ言い放つと、背を向けてつまらなそうに食堂からでていった。
今度はセルウェイが「ふん」と鼻息を噴いた。
フリーダがパティをそっとふりかえり、やれやれ、またか、というふうにウインクしたので、パティは微笑した。
パティはそのときのことを回想しながらマイニエリ師の説明に相槌をうった。
「――というわけで、その問題を解決せねばならんと国王は考えたわけだが、枢機院の調査員たちだけではこころもとないと」
師はそう言ってパティをみる。
「え、それで、私がその調査隊に参加するんですか?」パティは両目を二倍くらいに大きくする。「わ、私にはそんな……」
なにを根拠に自分が選ばれたのかわからなかったが、パティはひたすら動揺した。
能力や経験も足りないかもしれないが、なにより自信がなかった。
自分がそんな重大な任務でへまをしでかすことで、〈魔導院〉はてはマイニエリ師までがあらぬ中傷をうけたりしてしまうかもしれない。
パティはどきどきする胸を手でおさえる。耳が熱い。
しかし、「だいじょうぶ、そんなに気にすることはない。パティは調査隊の補佐をすればいいのだよ」と師は柔和にほほえんだ。
「補佐……?」
「ああ、要するについてまわればいいんだな。そして意見をもとめられたら率直に答える。わからないことはわからない、できないことはできない、でいい。そもそも本来だれもがそうやって素直に生きるべきなのだ」
「はぁ」パティは複雑な表情をうかべるが、老師があまりにもにこやかなので断りづらくなってくる。「そうおっしゃっていただけるなら――でも、なんで私なんでしょう?」
適任はほかにもいるような気がするし、なにより師本人が動いたほうが効率よく解決の糸口がみつかるのではないか。
「ん? 私はほら、来月の建国記念祭のうちあわせもあるし、沙漠の国問題なんかもあるからね――なにかと手が離せないんだよ」と、まるでパティの疑問を察しているかのようにマイニエリ師は返事をした。「ほかの院生よりパティが向いていると思うのは、ただの勘」
パティは黙りこむ。このまま辞退したい旨を延々くりかえしても、堂々めぐりでなんの意味もないだろう。
「まぁ、成功も失敗もない事案だと思う。それに、なにごともなにが成功か失敗かなんて、なかなかわからないものだ」
パティはまぶたを閉じて師の言葉を脳裏で反芻する。
風に吹かれて枝の木の葉がこすりあわさる音がなんだかはっきり聞こえた。
「――そんなに思いつめることないのに。しかたない。私からパティの補佐を手配するとしよう。補佐の補佐として」
マイニエリ師がふと高い声をだしたので、パティははっとして顔をあげる。
すると、知らないうちに師の肩に小動物が乗っていた。
小ザルのようだった。
全身は基本うすい茶色の毛でおおわれているが顔周辺だけは白毛で、胴の長さは20センチほどだが手脚をのばすとその倍はありそうだった。
サルだがしっぽがなく、まるい鼻とキラキラした瞳が印象的だ。
パティの目が点になる。
師の服のなか(えりもとやそでぐち)か、あるいは白髪のなかにでもかくれていたのだろうか。
それともパティが目をふせたわずかな時間に召喚魔法でも唱えたのだろうか――。
「びっくりするのも無理はない。なかなかみたことがないだろうね。ちょっとめずらしいテナガザルだ」マイニエリ師はふたたびにっこりする。「ただ野生のそれとはちがって魔力に感応しやすい」
「はぁ――」パティは感嘆する。
小ザルはパティをふしぎそうな目でみていた。
「というと、使い魔のようなものでしょうか?」
「まぁ、なんとでも呼んでくれ。昔これみたいのを連れた魔法使いがいてね、それの真似をしてみたのだ。ちなみに名まえはまだない」
小ザルは師にうながされて地面に降りると、そのままスタスタ歩いてパティの足もとまできた。
見あげてきたのでパティがほほえむと、小ザルはパティのソックス、スカート、上着の順につかんで肩までよじのぼってきた。
パティは「うっ」と面食らったが、されるがまま抵抗しないでいた。
小ザルはやがてパティの右肩におさまると、ゆっくりそこでまるまった。
落ち着いたようだ。
パティはおそるおそる毛なみをなでてみる。ふわふわだった。
「ちいさくてかわいいですね。まだ子どもなのかな。成長するんでしょうか?」
「ん? えっと――わからん」マイニエリ師は若干目を見開いたのち、咳払いをしてたちあがる。「よし、それじゃ準備はととのった。あとは任せたよ」
「あ、あの――」パティはあわてて喰いさがる。「さっき、これから私が着手する任務には解決があるかどうかわからないとおっしゃいましたが、それは具体的にどういうことでしょうか?」
「ん?」師はきょとんとしたのち、パティから目をそらして木洩れ陽をみつめた。「まぁ、それも気にしないでいい」
「はぁ……」
「ゆるされない罪もある。それでも、よほどのことがないかぎり、罪というのはゆるされるものだよ」葉と葉の隙間から射す光線がゆらいで、一瞬だけまぶしさで師がみえなくなった。「上には上がいるし、なにが正しいかを判断するのはとても難しい……」
「それは……どういうことですか?」パティは訊ねる。
うん、マイニエリ師はちいさくうなずいた。
そして、つぶやくように話す。「どうということでもないよ。教えてわかることでもない。いずれわかるかもしれないし、ずっとわからないかもしれない。わからないならそれでいい、わからなくていいこともあるからな。思うがまま、あるがままでいなさい――」
すると、背の高い樹のうえのほうで、突然鳥がとびたった。
羽音を響かせ、あっという間にいなくなってしまったためよく確認できなかったが、ここではあまりみないハヤブサだったのではないかとパティは思った。
そして、ふと視線をもどすと、噴水のへりはもう無人になっていた。
(あれ――? いなくなった?)
パティは目をしばたたかせながら師の坐っていたへりまで近づく。
湛然と水をたたえた噴水の水面をのぞきこんでも、パイプの燃え殻すらもうみつからなかった。
パティが眉をひそめると、右肩で小ザルがキキとちいさく鳴いた。
まさかさっきのハヤブサが師だったのだろうか?
パティは頭上からこぼれてくる陽光に照らされながら考える。しかし、そう簡単には結論などでない。
もしかしたら、師は最初からここにはいなかったのかもしれない。
しばらくして、パティはその可能性について思索した。それも充分ありうることだ。