25 敵も味方もない消失
危険が身にせまっている悪寒で背筋が凍り、ルイはつっぱり棒を背中にいれられたように直立してしまう。
その恐怖は濁流のように心を侵食した。
ディレンツァの警告が聞こえたものの、ルイは身動きがとれずにいたが、そのとき偶然船が大きくかたむき、体勢をくずして、となりの椅子につまずいてつんのめった。
ルイは横坐りにころびそうになったが、なんとか椅子に手をついてふんばる。
べつの椅子がたおれる音が響く。
となりの席にのっていたクラリネットも、その衝撃でころげ落ちた。
周辺の演者席がぐちゃぐちゃになったが、ルイはちらりとみて、身に切迫した危険物が鋭利なナイフだったことを視認した。
どうやら、ぶざまにころびかけたことで、敵の攻撃を偶然回避できたようだ。
「惜しい! もうちょっとでねずみちゃん狩りができたのに!」
忘れもしない女の声が聞こえて、ルイはにらむ。
〈鹿の角団〉の刺客の女である。
獲物をみつけた猫のように婉然とほほえんでいる。
「ふん、どっちがねずみよ!」ルイが鼻息をふくと、賊の男が「頚ではなく心臓を狙えばよかったか」とにやりと笑った。「良いコーダを迎えられたのにな」
なんだか悔しい。
「やられたらやりかえしたいタイプなのよね、私は!」ルイはベルトからナイフをとりだし、舌なめずりをする。
そもそも向こうは二人しかいない。
数的には有利なのだ。
いかに相手の女が奇妙な魔法使いだったとしても、こちらにはディレンツァがいる。
男が辣腕なのか知らないが、自分とレナードで組めば戦力的に劣勢ではないだろう。
とくに接近戦なら負けないはずだ。
そう思い、レナードとアイコンタクトをとるべく目を向けた瞬間――ルイは愕然とした。
「あれ!?」
レナードがいなかった。
フルートの演者席にどっかり腰かけていたはずなのだが、もぬけの殻だ。
まばたきをくりかえしても、そこに坐っていた形跡すらない。
周辺が荒れているわけでもないから、ルイのように取り乱して、あわててたちあがったわけでもないだろう。
ルイは混乱する。助けをもとめてディレンツァをみると、あまり表情は変わっていないが、ディレンツァさえも驚いている(ようにみえた)。
盗賊たちがなにかしたのか――!?
ルイは入口をふりかえる。
男のほうがルイに刃物を放ってきたわけだから、同時に攻撃されたのだとしたらやはりマジックハットの女のほうがあやしい。
忽然とすがたを消すという超常現象が起きているあたりもそれに符合する。
ルイの鋭利な視線に、女が「こわいこわーい」と泣きまねする。
ルイのあたまに血がのぼる。
「いいかげんにしなさいよっ!!」
そして、手をかけていた椅子をうしろに投げとばし、そのまま床を蹴る。
ナイフをかまえて、二人の賊にとびかかろうとしたのだ。
「ルイ、待て!!」とディレンツァの制止が聞こえたが、逆上したルイはふりかえることさえしない。
「わぁ、きたよきたよっ!? たすけてぇ!?」と盗賊の女がはしゃぐ。瞳は笑っていない。
男は口もとに嘲笑をうかべると、さっと移動してルイの視界から消えた。
にっこりしたのち、女もそれにつづく。
廊下に逃げたのだ。
しかし、追いかけて廊下までとびだしたルイは面食らった。
10メートルほど離れたところに賊の女がいるだけで、男がいなかったのだ。
一瞬、女がルイの注意をひきつけて、男が入口扉のうしろで待ちぶせする作戦かと思った(じっさいそうだったらルイはやられていたはずだ)が男の気配はない。
しかも、女はルイに背中を向けていた。
ただ、女のうしろすがたが、あまりに無気力な感じだったので、ルイは罵声を浴びせるつもりだったが、思わず口ごもってしまった。
女がゆっくりふりかえる。
真顔だった。
表情には憤怒と焦燥がいりまじっているようにもみえる。
「なにをした――」女が低い声でうなった。
どうやら相当あたまにきているようだ。
意味がわからない。
「それはこっちのせりふでしょうが」ルイは気圧されながらもにらむ。
すると女が突然、ルイが身構えるより早く、まるで繁殖期の猫のような奇声をあげて突進してきた。
しかもそのままぶつかってくる。
まさか魔法使いが体当たりをしかけてくるとは思わなかったので、ルイは両腕でふせごうとしたけれど、勢いのままうしろに押しとばされてしまった。
受身をとろうとしたが、わりとしたたかに、右肩とわき腹を床に打ちつける。
腕の神経が振動の伝達みたいにしびれた。
絨毯がなかったら、あばら骨の一本も折れていたかもしれない。
(まったく――なんなのよ、このヒステリー女……)しかしルイがそう思い、目を開けたところで、ふたたび不測の事態が起こった。
今度は女が消えたのだ。
「え――!?」ルイは肘をついて上半身を起こした体勢で呆然とする。
馬乗りになってくるなり、足蹴にしてくるなりの連続攻撃がくるものと思っていたので拍子抜けした。
逃走したというのか?
廊下を一瞥したが、どこかの物陰にひそんだり、部屋に入りこんだりした様子もない。
そもそも男はどこへいったのだ?
ルイはゆっくりたちあがって耳をすませたが、トドのうなり声のような船体のきしみが聞こえるだけだった。
ふたたび沈黙が通路を支配する。
とりあえず演奏会場にもどるべきだろうか――そういえば、ディレンツァもついてきていない。
ルイは混乱するあたまをなでながら部屋にもどる。
しかし、そこでさらなる衝撃をうけた。「なんでよ――!?」
ピアノのまえにいたはずのディレンツァもまた、すがたを消していたのだ。
まるで最初からだれもいなかったかのように。
動悸がはげしくなる。
会場の照明装置がぶきみで恐怖心をそそる。
ルイはあわてて廊下にひきかえした。
しかし通路を見渡してもだれもいない。
まるで荒廃したゴーストタウンのような沈黙がただよっている。
のどが鳴る。焦りがつのり、両足の裏が熱くなってきた。
敵も味方も消えてしまうなんて……前後不覚のまぼろしの森にさまよいこんでしまったみたいだ。
どうしよう――ルイはびくっとして首を手ではらう。
首筋に寒いものが走ったのだが、ただの気のせいだった。
思いのほか狼狽している。
一人になると異常なほど心細く、うす暗い通路に、幽霊やおばけの幻影さえみえてしまう。
ルイはふいに駆けだす。
このままだと気が狂ってしまいそうだ。
なんとかしなくてはならない。
とりあえずラウンジにもどるのだ。
仲間がいないのがこんなに心苦しいとは――。
途中で自分の足音が、背後から追いかけてくるちがうだれかのものに聞こえて、ルイは悲鳴をあげそうになったりした。
階段をあがっているときも、いきなりうしろから伸びてきた悪魔の手が、ルイの足首をつかむ妄想がふりはらえず、何度もつまずきそうになった。
しかし――期待もむなしく、ラウンジの両開きの扉を開け放っても、ルイはまぼろしの森からぬけだすことはできなかった。
ジェラルドやベリシア、ウェルニックだけではなく、ソファで寝ているはずのアルバートですらいなくなっている。
高鳴る胸をおさえながら、ルイは大きく息をつく。
腕がぴくぴく痙攣して、思わず涙目になった。
これは想像を絶している。
いったいなにがどうなっているのか……?
たくさんの淡い光をたたえる豪華なシャンデリアがにじんでみえる。
無数の光虫の群れが遠くで飛んでいるみたいだった。
ルイがぼんやりみつめていると、ただでさえ涙でぼやけた視界が、さらに淡い光のうずを巻いてゆがんだ――。