18 絵本の表紙と謎かけ
町長宅を退出したのち、パティたちは広場沿いの食堂で遅めの昼食をとることにした。
店内はお世辞にも掃除がいきとどいているわけではなかったが、それゆえに味があるともいえた。燻製えびや塩漬いわし、アジのひものといった海産物がでた。
派手さはないが、洗練された味だった。
「これからその人魚の資料館のお手伝いさんに逢いにいく感じかね?」
ひとしきり食べ終えたダグラスがアジのしっぽをくわえながら話す。
声のトーンは低く、ふざけているわけではなさそうだ。
しかし、となりのモカがおなじように、アジのしっぽを口から尖らせていたので、パティは思わずふくみ笑いをしてしまった。
「資料館は明日にして、しばし町内をめぐってみようかと思うがどうだろう?」バレンツエラが食器をかさねながら全員をみる。「人魚もそうだが、土地勘を養うことも肝要ではないか」
「それもそうね――」ステファンが両手を合わせる。「観光も大切よね」
完全に目的が変わっている気がしたが、パティがみるとステファンはうれしそうに両目を大きくした。
要するに息抜きがしたいのだろう。
「ようし、それじゃ全員、自由行動ってことだな!?」ダグラスがなぜか張り切る。
バレンツエラが了承して、うなずく。「この店の二軒隣に簡易宿泊施設があるようだから、そこを予約しておく。なるべく日暮れまでにはもどるように。町はそれほど広くないし、安寧を画に描いたような町だが、注意は怠らないように――」
食堂をでると、太陽が目にしみた。
まるで粘土がひきのばされていくかのように意識がひらたく薄くなっていってしまいそうな強い陽射しだった。
午後に入り、町の時間がよりゆるやかに流れるようになった気がする。
休暇を過ごしにきたのであれば、どんなにかよかっただろう。
パティは自由時間になっても、どうしたいという希望がなかったので、誘われるがままステファンに同行することになった。
「私には妹がいるのよ。ちょうどあなたぐらい年齢が離れているの。あなたほどおっとりはしてないし、生真面目だったりするんだけど、雰囲気は似てるかもしれないわ」とのステファンの弁にパティは微笑する。
バレンツエラとダグラスは個々にでかけていった。
バレンツエラは「要人たちにあいさつがてら、調べものをしてくる。そのあとは任務報告書を仕上げるために、早めに宿にひきあげるよ」と予定を言い残していった。「みんなはゆっくりするといい」
悠然と去っていくひろい背中を見送ったあと、ステファンが「あなたはどうするの?」とダグラスをみると、「オレは一匹狼――」などと目的も告げず、そそくさとでかけていった。
「孤独と自由はよく似ているのさ」
うしろすがたは忍び足で猫からのがれようとするねずみのようだった。
「どうせ、ろくなこと考えてないのよ」ステファンが獰猛な猫のように目を細める。「問題を起こさなきゃいいけど」
苦笑するパティの代わりに、モカが「キィ」と相槌をうった。
そのあと、海中をただようくらげのように、パティとステファンはふらふらと広場沿いを散策した。
王都の繁華街のようなステファンの食指が動く商店はまずなかったが、天気がよいこともあり二人は上機嫌だった。
だんだんと任務にともなう警戒心などうすれ、状況を凝望することは忘れてしまったが、そもそもパティの勘を頼ってきただけだったので、それもやむをえないところだった。
広場のはずれに土産物屋があり、二人は店さきの陳列棚をながめる。
やはり人魚伝説の町だけあって、人魚に関する品物が多かった。
珊瑚のかんざしやイヤリングといった装飾品はまだしも、うろこ柄の腰巻ストールや貝殻のブラジャーまであり、ステファンがそれらをひろげながら露骨に眉をしかめ、「これで人魚に変身ってわけ?」と幻滅し、パティは思わず笑ってしまった。
「でもステファンさんは髪もきれいだし、身体つきもととのっているから、そんな恰好も似合うかもしれないですよ」パティがおべっかではなく本気で指摘してみたが、ステファンは苦いものを舐めたかのように舌をだした。
棚のはじっこに小冊子が乱雑にかさねられているのをみつけて、パティは手をのばす。
ずいぶん色褪せた観光ガイドのようなものから、男性目線のずいぶん艶かしい人魚の絵画集もあり、パティは精査したうえ〈最後の人魚〉という児童向け絵本を取りあげた。
だいぶほこりをかぶっており、吹いてきれいにしようとしたら、逆に吸いこんでしまい、むせてしまった。
今度はステファンが笑う。
パティは照れながら表紙をみる。
上空は満点の星、遠景は暗い海、そして岸の岩塊のうえに人魚のうしろ姿――どことなく既視感覚があり、パティは静止する。
似たようなものをみたことがあるような気がしてしまう。
「それが気に入ったの?」ステファンの声にわれにかえり、パティはふりむく。
「あ、え、ええ――」唐突だったので挙動不審になってしまう。
「じゃあ、買ってあげるわ」ステファンがほほえむ。
「そんな、もうしわけないですよ」パティが絵本をふりふりしながら拒否したが、ステファンはささっとそれを取りあげ、店の奥に向かう。
パティがあわあわと言葉を発せないでいるうちに購入してきてしまった。「はい、プレゼント」
「あ、ありがとうございます」パティは本を受けとりながらあたふたする。
その動揺のせいで、ずり落ちそうになったモカがキィィと非難の声をあげる。
「いいのよ、それくらいで喜んでもらえるならなによりだわ」ステファンが手をひらひらふる。「私の妹なんか絵本一冊くらいじゃ笑顔のひとつもないわよ。あなたとは似ているようで、似てないかな、やっぱり」
ステファンはそのあと、女神信仰教会で修道女をしているという妹の話をいくらかした。「いつもむっつりしてて笑わないのよ、私に似て美人なのにもったいないの、それにね――」
パティはどう応えていいものかわからず、うなずいていたが、聞いているかぎり自分と類似点はないように思えた。
「ああ、妹にはこれでいいわ」ステファンがおしゃべりしながら、星の砂が詰まった小ビンを手にとった。
「いいですね、かわいいと思います」中身をまじまじとみながらパティは同意する。
「まぁ、あの子の場合、どう、きれいでしょうってあげたところで、星の砂ってどうせ有孔虫の殻でしょとか、夢のない感想をいうのが落ちだろうけどね」ステファンはそうこぼしながらも、ふたたび店奥に向かった。
もどってくると、「さて、お土産も買ったことだし、浜辺にいってみようか?」とステファンが楽しそうに提案してきた。
どうやら本格的に調査や任務の一環ではなくなってきたが、パティもだんだんその調子に慣れてきて笑顔でうなずいた。
ステファンは胸当ての徽章がある部分をハンカチでかくし、パティも〈魔導院〉から支給されるローブを脱いだ。
そうして歩いていれば、場合によっては観光客にみえるかもしれない。休暇をのんびり過ごすために海辺の町をおとずれた姉妹――そんなふうに。
それが功を奏したのか、町人たちの風あたりが急にゆるくなった気がした。
買いものかごをさげた主婦には景気動向を教えてもらうことができたし、男性は老若問わず親切にしてくれた。
砂浜がみえる丘まできたところで子どもの群れに接触したときは、モカの存在も手伝って、とても好意的な関係を築くことができた。
陽気な太陽のもとで、はしゃぎながら波打ちぎわをうろうろしているだけで、ずいぶんと心が晴れたような気がした。
陽が少しかたむいた頃、二人は水辺からあがり、勾配の草べりに腰かけた。
海の波が静かに音をたて、潮風が心地よい。
パティがのどの渇きをおぼえたら、ステファンがほぼ同時に荷物から水筒をだしてくれた。
パティはほほえみながらそれを受けとる。「すごい、魔法みたい」
「ふふ――魔法っていえばさ」ステファンが両膝を抱える。「ほんと、ふしぎよね」
「ふしぎ?」
「ええ、魔法そのものの構造とかさ、そういうのは私にはわからないけど……」
「きっと、私もわかってないですよ?」パティが苦笑する。
「そうなの? まァいいのよ。それでもあなたがみた一瞬の残像をもとに、この町まできちゃったじゃない。それってすごくない?」
「むむ」パティはうめく。
痛いところをつかれた気分だ。
「いや、責めてるんじゃないのよ。ふしぎなのはそこでね」ステファンが笑う。「バレンツエラ隊長が初対面のあなたに全幅の信頼をよせるっていうのもめずらしいことだし、私もたとえばダグラスも、無根拠なその案に意見する気にならなかったのよ。なんていうの、奇妙な説得力? それがなんだかふしぎだなと思ってね」
パティはふたたび白波がたつ海をみる。
パティがみたイメージは、おそらくマナティの記憶だが、それが内海の事件に因縁をもっているかどうかまではわからない。
手持ちぶさたになってしまったので、パティはくちびるをかみながら、さっき買ってもらった絵本をとりだす。〈最後の人魚〉。
表紙の人魚の背中をみつめながら思いだした。「あ、そうか――」
「ん?」ステファンが目を細める。
「私、この画をみたことがあるんですよ、以前」パティは表紙をステファンにみせる。
「おなじ絵本をもってたの?」
「いえ、マイニエリ師の――〈魔導院〉のお部屋に、たくさんの風景画が飾ってあって」パティは目を閉じてそれらを思い返す。「そのなかにあったんです。確か、タイトルもおなじでした」
マイニエリ師は「くつろぎ部屋」という自室にたくさんの風景画を飾っている。
うす暗い部屋に大陸じゅうの印象的な風景を、まるで美術館のように保管していたのだ。
師がどうして絵画を飾っているのかは聞かなかったが、それらの収集画をまえにしても、知らない土地を観光しているというような昂揚感はなく、どちらかといえばすでに失くなってしまった土地をなつかしんでいるかのような厳粛な気持ちになったことを憶えている。
ステファンが鼻をすする。「マイニエリ師か――私も何度か見かけたことがあるけど、年齢不詳なのよね。何百年も生きてるなんて噂もあるけれど。でもそうしたら、人魚がまだこの海岸にいた頃を知ってるかもしれないわね」
(師に問い合わせればなにかわかるだろうか……)パティはふたたび沈思する。
ふと右肩のモカがもぞもぞ動き、パティは重みでかたむく。
小ザルはパティの近くに生えたスナビキソウにとまっているテントウムシをつかまえようと手をのばしているらしい。
仕方ないので、パティは身体をかたむけたままにしておく。
ステファンはモカの邪魔をしようと手をだして遊ぶ。
「そういえばパティがこの任務に参加したのってマイニエリ師の采配だよね。お師匠さんはなにか助言とかはくれなかったの?」
「うーん……」パティは師の不敵なような、それでいて無表情ともいえそうな顔を思いだしてみる。「師がおっしゃってたのは……解決があるかどうかわからないとか――」
「え?」ステファンが驚いて手をとめ、パティをみる。
その隙に小ザルがテントウムシを捕らえようとしたが、土壇場で虫は葉っぱから離れ、とんでいってしまった。ムキ!
「あとは……成功も失敗もない事案だと思うとか――」(あとはなんだったっけ?)パティは姿勢をただしながら、ひとさし指を口のはじに添える。
「すごいわね、謎かけみたい」ステファンは両手をうしろについて空を仰いだ。
パティもうなずく。それについては同意するしかない。
額面どおりに受けとることさえ難しい言葉だった。
真顔のパティにステファンが笑いかける。「でもまぁ要約すると、気負う必要はないって解釈はできるじゃない」
しばらくすると、夕陽が強く射して、目前の海を赤くきらめかせた。さきほど遭遇した子どもの群れがパティたちに手をふりながら帰っていった。
「そろそろ私たちももどりましょうか」
ステファンがゆっくりたちあがり、尻についた砂をはらう。
クリーム色の長い髪が朱色にかがやき、パティはその魅了の魔法に囚われてしまった。