17 もういない人魚の町
のほほんとしたマナティの顔から読みとった人魚らしきイメージから、目的地を人魚にまつわる伝承をもっている〈珊瑚礁の町〉に定めてから、パティたちは内海湾を沿って進んでいた。
街道がとぎれて、砂浜や岩礁地帯、草原が何キロにもわたってつづいているような地形は徒歩で移動せざるをえなかったが、それ以外はだいたい公営馬車にのることができた。
そもそもバレンツエラがたずさえた枢機院の使者であることを証する書面をみせると、それらの交通機関は無料になったのだ。
そういった社会システムに面喰らっているパティに「必要経費ってやつだよ」とダグラスがにやりとし、「内海の不通を解消することは公共の利益につながるしね」とステファンが補った。
パティは故郷の村落にいた頃も、〈魔導院〉にきてからも、そういった社会のしくみといったものについて強い関心をいだいたことがなかったので、みずからのあずかり知らないところに、まだまだたくさんの約束ごとがあるという事実が、なぜかとても大きなことのような気がして、善悪はもとより、脳内で処理できずにいた。
セルウェイが聞けば「いまさらかい?」と笑うだろうし、ストックデイルが聞けば「ふん、パティは甘ちゃんだからな」と皮肉めかしてあきれただろう。
パティはふとフリーダの顔を思いかえし、院を離れてから一週間近く経つことに気づいた。
(そろそろ手紙でも書いてみようかしら)
マイニエリ師はパティの中間報告にどう返事をするだろうか?
パティが内心そう自問したところで、右肩でまるまっていたモカが「キキ」とちいさく鳴いた。
「ずいぶん遠くまできた気がするね」パティは小ザルに話しかける。
しかし、じっさいの問いかけには反応をしなかった。
つい二時間ほどまえ、王都と水の国の境界線を越えた。
〈王の桟橋〉を離れてから四日が経過している。馬車を利用できていることもあり、予想よりもずっと早いペースだった。
前述の人の手が入っていない地域では、赤い三角帽子の小鬼の集団や、獰猛な草原オオカミの群れ、緑色の髪をした長い腕の水の妖精や、旅人を迷わせる鬼火などに遭遇したりしたが、それも遠巻きなもので、直接接触があったり、ましてや剣をまじえるといったようなことは起こらなかった。
しかし仮にそのようなことがあっても、パティにはでる幕がなさそうだった。
大柄で剛腕のバレンツエラだけでなく、ダグラスやステファンもそれ相応に枢機院の騎士として高い戦闘技術も備えているようだった。
それは危険を察知したときの二人の目つきや俊敏な対応でわかった。
へらへらしているときのダグラスや、まるで実姉のように接してくれているステファンとはまるで別人だったのだ。
「ここからしばらく丘をのぼりおりするが、二時間も歩けば〈珊瑚礁の町〉に到着すると思う」
バレンツエラが急にパティをふりかえる。
ダグラスとステファンもそれにならったので、パティは思わず赤面してしまった。
「あ、は、はい……」照れかくしに目をそらすと、左手には内海があった。海景はおだやかだった。
全員の視線が「そのあとどうする?」という質問だということはパティにも理解できたが、残念ながら回答をもちあわせていない。
マナティがみせてくれた残像はあまりに断片的なものだったので、それからさきがピンとこないのだ。
「――とりあえず、町を調査してみるしかなさそうね」ステファンが両手を腰に添える。
「大規模な港町ではないが、漁業は盛んだろうし、内海での禁漁が発布されて影響はでているだろう。事情は聞いてみたほうがいいな」バレンツエラがつづける。
「人魚の伝説だって、少なくともオレはよく知らないから調べてみたい気もするぜ」ダグラスも同意する。「下半身が魚でも、あるいはオレの守備範囲にもちこめるかもしれないし」
その得意げな笑みに、パティは苦笑で応える。
モカも「ケッ」と失笑した。
ほぼ二時間後の正午をまわった頃に、一行は〈珊瑚礁の町〉に到着した。
バレンツエラを先頭に、まず町長宅にあいさつに向かった。
その間、すれちがう住人たちにも全員で愛想よく接した。
しかし、バレンツエラの巨漢ゆえか、みょうに垢ぬけたダグラスとステファンの都会的な雰囲気のせいか、あるいは肩にふしぎな小ザルをのせたパティのおどおどした態度のせいか、好奇の目を向けてくる住人が多かった。
笑顔で会釈をかえしてきていても、警戒心は怠らない雰囲気である。
子どもたちは一行を遠巻きにながめてわいわい騒いだり、ひとさし指をくわえてじっと凝視してきたりした。
中央広場の噴水に人魚のオブジェがあった。上半身が人間で下半身が魚の女性が壷をかかえており、そこから水が噴出する構造だ。
水はとまっていたし、人魚は色褪せてよごれて、ところどころに苔など生えていたが、やはり人魚が売りの町のようで、広場沿いの商店には人魚にまつわる土産物をあつかっているところもあるようだ。
内海沿いの砂浜を遠目にみると、鯉の群れのように漁船がひしめいている。
典型的な漁場といった様子だ。
バレンツエラは通りかかる住人たちにていねいに自己紹介しながら話しかけ、町長宅を教えてもらった。
隊長のまなじりをさげながらあたまもさげるさまは、恰好からすると若干不釣合いだったが、礼儀正しいのはやはり良いことだろう。
パティは他者に視線を向けられるだけで(それが男性のものならなおさら)どきどきし、ついていくのがやっとだった。
「――それはそれは、遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」
町長は長い白髪をひとつに結った老女だった。
肉も落ち、痩せていたが、背筋はしっかり伸び、こざっぱりした身なりだが清潔感があり、全員なぜか安心した。
町長宅に到着し、来意を告げると、応接間に通された。
間色の家具で統一されており、地味だがパティには心地よかった。長旅で神経がつかれているのかもしれない。
町長はモカをみても、眉ひとつ動かさず、むしろ「めずらしいお客様ですね」とほほえんだ。
「わたくしも一時期、王都に身を寄せていたことがあります。それに町内にも、かつて王都にてお勤めを果たしていた者もおりますよ」
老女はなつかしそうに目を細めた。
そこからしばらく、王都をめぐる雑談がつづいた。
パティは黙って相槌をうっているだけだった。
魔法使いとして紹介されたときは、たちあがってあいさつしたが、町長は落ち着いたものだった。
〈魔導院〉についていくらか質問などされたが、知っていることを確認するような問いかけばかりだった。
モカはずっと右肩でまるまっていた。
「内海での事故の波紋はこちらにもおよんでいるかと思います」バレンツエラがだされた茶をひとくち飲んでから本題に入る。
「当町所属の船で、内海において被害にあったものはいまのところありません。漁師たちは主に引き網漁をしていますが、この時期はあまり遠出をしなかったのが幸いだったのでしょう。みな一様に困惑していますが、通達にしたがって禁漁に同意してくれています。漁業組合が機能しているおかげでしょう。無論長引くようなことがあれば、町民全員に影響があることなので対策を講じなくてはならないと思っていますが……」
町長は両手を組みながら答える。
「そうなるまえにわれわれがなんとかしたいところです」
ダグラスがこぶしをにぎると、町長は微笑してうなずく。
ダグラスがステファンとパティにだけわかるようにウィンクをした。
そのあからさまな自己陶酔に、二人であきれた。
「――問題解決のきっかけもない状況でしたが、先日このパティが王都湾岸で魔力によって、一種の天恵のようなものとして、人魚のイメージを得たのです。私たちはそれを頼りにこの町をめざすことにしました」
バレンツエラが突然名まえをだしたので、パティは緊張して向きなおる。
町長はパティをみつめながら「人魚ですか……?」とつぶやく。
懐疑的というよりふしぎそうな顔だったので、パティは返事ができなかった。
「それが内海の変事に直截関係しているかどうかはわかりませんが」バレンツエラがうなずく。
「わたくしにもそれはわかりかねます。人魚は不死だと口伝されておりましたが、それでも何十年も昔に絶滅しているというのが通説ですし――」町長は考えこむ。
全員が黙りこむ。
人魚は絶滅しているというのが目下定説だった。
最後の人魚が目撃されなくなってから50年以上経過しているため、絶滅が宣言されているのである。
理由は不死の妙薬の材料として乱獲されたとか、環境開発で住処を追われたとか諸説あるが、じっさいはよくわかっていないらしい。
パティはふと窓のそとを見やる。陽光はやさしく、湿気をふくんだ白い大きな雲が空に浮かんでおり、窓からみるかぎり世界は平穏だった。
「人魚については、町のはずれの崖に資料館もありますし、そこに研究者もいます。比較的遠いですが、若いかたたちなら徒歩でも問題ないでしょう」町長は口角をあげる。「そこから内海がひろく見渡せるので、観光がてら行ってみるのもいいかもしれません。今日は晴れていますし――」
「その研究者というのは女性ですか?」ダグラスが真摯なトーンで訊ねる。
ステファンが嫌悪感をあらわにする。
「女性? いえ、男性ですよ」町長は意図を察してほほえむ。「しかも高齢です。わたくし以上に」
ダグラスがこの世の終わりといった表情でパティとステファンをみる。
反応しづらい。
「でも、資料館には助手をつとめているお手伝いさんもおります。その方は若い女性ですよ」町長の追加したひと言に、ダグラスは背筋を伸ばした。「ほんとうですか? 神さまってちゃんといますね!」
パティとステファンは無視することにした。
そこからしばらく雑談をしたのち、頃合を見計らって一行は席を立った。
「みなさんが内海を平和にしてくれることを切望します。そのためには協力を惜しみませんのでよろしくお願いします」町長は深々とあたまをさげた。
バレンツエラが「お望みに添えるよう尽力いたします」とおじぎをしたり、ダグラスが「オレは全世界の女性の味方ですから!」と胸を張ったりしたが、パティにとってはより重圧が増した気がした。
顔色のよくないパティを察して、ステファンがほほえむ。「気負うことないのよ。もともと大がかりな事件なんだから、うまくいかなくても私たちのせいじゃないわ。でたとこ勝負でいいんだから、私たちの任務はね」
それについて考えているパティの右肩で、キキと小ザルが寝言のように鳴いた。