14 夢の境界線
「いやぁ、まいっちゃったわ……」ルイがぼやきながら船倉からでてきた。
ディレンツァがちらりとみると、ルイは頚のうしろで両手を組んでおり、ディレンツァの視線に気づくと鼻の穴をふくらませた。「王子ならベッドで寝たわよ。ていうか、おとなしく寝ててもらわないとこまるわ。これ以上粗相をされたら、王族の名折れとかいう次元じゃなくなっちゃうもの」
アルバートが船酔いでがまんしきれず嘔吐してから、船上はちょっとした恐慌状態になった。
とにかくウェルニックが、神に懺悔でもするみたいにひざをおって、かがみこんでしまったアルバートをかかえて、ふたたび船倉までかついでいき、簡易ベッドに横にして、ルイとベリシアは介抱を手伝うべくついていった。
ジェラルドは甲板の掃除を号令し、レナードとモレロがしぶしぶ処理にあたった。「うげぇ、勘弁だぜ」「もらっちまいそうだぁ」などと文句をたれながらも、二人は黙々とモップを使った。
口でいうほど拒絶感もなく、むしろ淡々と作業している印象だった。
王族的気品に関する醜聞としては、嘔吐の時点ですでに大問題だったが、幸いそれについて今後も騒ぎたてそうなゴシップ好きな人種はこの船にはいない。
ここは各国の来賓が集まるパーティ会場ではないのだ。
(唯一の部外者たる)マッコーネル船長でさえ、みずからの船をよごされたわけだが、まるきり無頓着に前方をみつめている。
そんななかディレンツァは全員の一連の行動を静かにながめていただけだったが、じっさいは漁船後方に意識を集中させていた。
後方の海にかすかな魔力の存在を感じとったのである。
(だれかがあとをつけてきているのか――?)
船尾のさきをみつめても、暗い海がひろがるだけでなにもみえない。
陽が沈んだことも大きな要因だが、なにより霧が視野をせばめてしまっている。
目を細めてもおなじだった。
濃霧という状況は、みょうに不安をそそる。
しかし、つぎの瞬間にディレンツァの予想を大きくうわまわる事態が起きた。
マッコーネルが凝視していた前方に、突然たちこめる霧をまきちらすようにして――巨大な帆船がすがたをみせたのである。
「ほう!?」マッコーネルが奇声を発したので、ディレンツァは前方をふりかえる。
「うそぉ? なにこれ!?」ルイが大声をあげたので、ジェラルドもにらむようにふりかえった。
レナードとモレロも掃除の手をとめて、あんぐりと口を開けたまま、謎の巨大帆船の出現に圧倒された。
「ねぇ! なんなの!?」ルイが恐怖に顔をひきつらせてディレンツァをみる。
巨大帆船はその趣きから、かつてたちよった〈月の城〉を連想させられる勇壮さがあった。
古くて、いかめしくて、そして冷たい。
しかしディレンツァも返事ができなかった。
ディレンツァ自身もその登場を、少しも察知することができなかったからだ。
船尾のさきに感じたわずかな魔力に気をとられていたせいもあるのだろうが、目前の帆船はずっと重量感もあり、ある種、霊的な存在だった。
それをなぜ感知できなかったのだろうか――。
ジェラルドもまた口をかたく閉ざしていた。みんなとおなじく展開が読めていないのだろう。
ルイの心中でいやな予感が加速する。
なにか途方もないことがはじまっていて、知らないうちにそれに巻きこまれてしまったかのような胸さわぎがした。
「まさか――これって幽霊船か!?」モレロが高い声で叫ぶ。
マッコーネルを除く全員が思わずモレロをみる。
全員がその不吉さゆえに、内心感じていたが、吐露できなかった言葉だったからだ。
ルイは思わず両腕を抱える。
「そ、そういうのは苦手なんだけど……」すでに二の腕に鳥肌が立っていた。
全員が息を呑むようにして黙りこむと、海流に乗ってしまっていたことで制御のききづらい漁船は、ゆっくりと巨大帆船に惹きつけられるように移動した。
サテンの生地をひとさし指でなでるような、なめらかな動きだった。
どことなく誘導されているような感覚を全員が感じとっていたせいもあってか、芝居が山場にさしかかったような高揚感が全身を支配していた。
しかしふしぎと、あるいはそのせいか、漁船と帆船の距離がちぢまっても、衝突しそうな気配は感じなかった。
凝視すると、あらためて帆船の大きさに閉口する。
三本の図太いマストが尖塔のように屹立し、全長100メートル、幅40メートル、高さ30メートルはあるだろうか。
もはや貴族の大邸宅である。
客室らしきところに設置された無数の窓はすべて閉じられ、カーテンがかかっている。
王都湾口や外海でもめったにお目にかからない重量級だった。
おんぼろの小型漁船で寄り添っていると、巨人の国にやってきた小人になった気分がした。
漁船はゆっくりと帆船の左舷にまわり、やがて中央まできたところで動きがとまった。
まるでコモリザメに付着しているコバンザメのようである。
みえざる透明な大きな手によって大水槽のなかで弄ばれているような気さえした。
しかもその場所にみちびかれた理由は、その位置から帆船を仰いだらすぐにわかった。
甲板の手すりから縄ばしごがおりていたのである。
はしごを昇ったさき――甲板の様子は高すぎて角度的にうかがえないが、だれかが待ちかまえているような気配はない。
そもそも客船なのに、人の気配がいっさいしなかった。
全員がしばらく細い縄のはしごをみつめていたが、やがてそれぞれが思い思いにまわりの人と視線をかわす。
ルイはディレンツァやレナードと目が合ったが、二人ともなにも話さなかった。
推測は口にしたがらないディレンツァはともかく、レナードはおそらくいろいろ思索しすぎてまとまった言葉にならないのだろう。
「とりあえず全員甲板に集まろう。アルバート王子には酷だが」ジェラルドがルイをみる。
「そうね、おだやかじゃないものね」ルイはうなずいて船倉に向かう。
ルイがはねあげ戸から呼ぶと、ベリシアが「なになに?」と顔をだし、つづいて昏倒状態のアルバートを背負ったウェルニックが「問題ですか?」とでてきた。
しかしベリシアとウェルニックは、ルイが返事をするよりさきに、帆船をみて息をのむ。
「おそらく問題なんだけど、その本質も規模も概要も、残念ながら解決策もよくわからないの」ルイはウェルニックにかつがれてうなっているアルバートを情けない思いでながめながら説明する。「突然この帆船がでてきて、われわれの船がそれにひき寄せられて停止したってわけ」
甲板にそろった船長を除く全員が、円陣を組むかたちで集合した。
ルイにとってはトラブルに対して会議形式で相談ができるというのが新鮮だった。
ディレンツァの横顔はいつもと変わらないが、ジェラルドたちがいることはやはり頼もしく感じられる。
「なァ、もしかしてオレたち夢でもみてるんじゃないか?」モレロがつぶやく。
「ほう、大胆な仮説だな」レナードがわざとらしく感心する。「オレたち全員、ひとつの夢の住人ってわけか?」
「よし、いっちょ、オレの頬をつねってみてくれよ!」モレロが右頬をつきだす。
すると、レナードは勢いよくその頬をなぐった。
打音が響き、モレロが悲鳴をあげる。「あいてっ!?」
「あれ、痛いのか? じゃあ、夢じゃないな」レナードが微笑する。
「バカ二人がバカしても、おもしろくないのよ」ベリシアが流し目で男二人をみる。「てか、そもそも夢に痛みがないなんて、どうしていえるのよ?」
深刻な会議になるかと思いきや、おどけていられるというのもやはり余裕なのだろうか。
ルイはわいわいする三人にきょとんとなる。
「気配は感じなかった」ジェラルドの声にルイはふりむく。「霧がでていたとはいえ、前方は意識して監視していたつもりだったんだが……」
「そういう問題でもないのかもしれない」
すると、ディレンツァが応える。独り言のようでもある。
ジェラルドが手のひらであごをなでる。「私は魔法使いではないから、もちろん物理的な観察という意味だが――」
ディレンツァはジェラルドをみて、「私も感知しなかった」とつぶやいた。
しかし、会話はつづかなかった。
思い思いに視線を交わしたあと、ゆっくりと全員が巨大帆船の横腹を見上げる。
なまあたたかく湿気のある風がつるりと頬をなで、縄ばしごがゆらゆらゆれた。
ルイは不快な風が髪にまとわりつくような鬱陶しさを味わう。
いままで内海において遭難してきた各種の船とその船員たちがすべて、この幻惑的な歓迎を受けていたのかどうかはわからないが、仮にそうだとしたら全員がその後、この縄ばしごを昇っていったのだろうか?
……それ以外の選択肢が見当たらない。
しかし、もしそうだとすると、そうしてもなお、あるいはそれによって、漂流者たちは消息不明になってしまっていることになる。
いずれにせよ剣呑な状況である。
「行くしかないな――」ジェラルドが全員の気持ちを代弁する。
全員がうなずき合っていると、マッコーネル船長がさきんじて縄ばしごに手をかけて、ぶらさがった。
「あ、じいさん!?」モレロが叫ぶ。
「オレたちのために船をだしてくれたのに、あのじいさん、オレたちの存在をまったく気にしてないな」レナードがあきれた。
「あのくじら野郎と戦ったときの船によく似てるぞ!」マッコーネルが頚だけふりかえり、よくわからない返事をした。
そしてわりと器用に、それこそ老獪なサルのようにするすると縄ばしごをのぼっていく。
「やっぱり、ちょっとボケてるよな?」モレロがふりかえると、ウェルニックが「そういうことは口にだすものじゃありませんよ」と戒めた。
するとウェルニックにおんぶされたアルバートが、「うたが……うたが……」とむにゃむにゃうめいた。ベリシアはふふっとほほえんだが、ルイはイラっとした。
「とりあえずこちらの船を、もやい綱で帆船に固定してから船長につづこう」
ジェラルドが決断する。
だれも異論はとなえなかった。
しかしだれもが、すでにもうなんらかの境界線は越えてしまった気がしていた――。