10 つぶらな瞳の人影
砂浜にでるとモカのほうが俊足になった。かわいた砂が靴裏にまとわりつくような感触があって、不慣れなパティは走るのをやめた。
なんとなく海風が強くなったような気がする。
ふりかえると、バレンツエラたちは口もとに笑みをうかべながら追従してきてくれていた。
「すみません……めずらしくあの仔が急に駆けだしちゃって」
パティがもじもじすると、「問題ないわ。こんなところに危険もないでしょうし」とステファンが応え、浜風であばれるクリーム色の髪をおさえた。バレンツエラも首肯する。
「海をみたら楽しくなって、私も突然はしゃぎたくなっちゃったとかいうほうが、かわいげがあっていいぜ?」とダグラスがにやにやすると、ステファンが「無視していいからね」とあきれ顔をした。
「ほう、モカ氏はこれらをみたから驚いたのかな?」バレンツエラが渚をみつめながらつぶやく。
一帯には白い肌をして風船のような胴体をした大きな動物がたくさん集まっていた。
水辺でなければぶたの群れのようにもみえなくはない。
水深のあるところで泳いでいるものもあれば、浅いところで横たわっているものもある。
モカは浅瀬にいる一頭のまえに立ち、じっとその顔をみつめている。
「なんだいこいつらは? アザラシ?」ダグラスが問うと、「マナティですね」とパティが答えた。「マナティは水草のしげる水温の高いところが好きなんですよ」
「へぇ、そうなの?」ダグラスがきょろきょろすると、ステファンが眉をひそめる。「あなた、何年枢機院に遣えてるのよ。夏場にこの近くの水路にマナティが集まるのって有名じゃない。それ目当ての観光客も多いのよ?」
ダグラスは不敵に笑う。「オレは人間にしか興味がないんだって。しかも女子限定で」
「だが、まだ早いんじゃないか――」バレンツエラがよく通る声でつぶやいたので、全員がそちらをみる。「冬場はここより温暖な外海にいて、真夏に向けて内海にもどってくるのだから、まだ時期が早い気もする。早すぎるほどではないが」
モカがマナティと顔を合わせてじっとしているので、パティはそっと近寄る。
ひざをついて視線をモカとおなじ高さにした。
小ザルの横顔はわりと無表情だったので、そのままマナティをみてみる。
2メートルはあろうかという巨躯は目線が近いとなかなかの迫力だったが、ちょっぴりまのぬけた顔つきと離れた目はどこかほほえましい。
「こんにちは」思わずパティはあいさつする。
マナティはゆっくりとパティをみつめた。
するとその瞬間に、瞳を一線の光が通過したような、ふしぎな感覚におそわれた――。
遠い世界を一瞬で旅してきたような途方もない気持ちになる。
やがてパティは、マナティの脳裏に映っている景色を垣間見た。
マナティたちは海のなかを整然と泳いでいたが、やがてみえない壁のようなものにぶつかって隊列をみだしてしまった。
方向感覚をうしなった蟻の大群のようなまとまりのなさで、群れが統率をなくす。
マナティはしばらくして、このままではどうやら目的地の外海にたどりつけないことを悟った。
水底まで潜っても、その奇妙な不可視の壁にはばまれているような不快感は消えなかった。
つたわってくるのは、行き場をなくした焦燥感だった。
「そうか――あなたたちは外海にでることができずに、去年からずっと内海にいたのね」
パティがつぶやくと、全員が驚きの声をあげた。
「どういうこと?」ダグラスが耳打ちで訊ねるが、「私にわかるわけないじゃない」とステファンがあしらい、「パティはマナティと魔法かなにかで会話しているのじゃないか?」とバレンツエラが応えた。
「――言葉で交流するわけではないんですけど、なんていうか自然につたわってくるような気がするんです」パティは三人をふりかえって微笑する。
「ほう、言葉を超えていると」バレンツエラがうなると、「以心伝心かよ、長年つれそった老夫婦みたいだな」とダグラスも感心した。
「人間同士が会話するよりいいかもしれないわね」ステファンが眉をつりあげる。「うらやましい」
「でも、言葉じゃないから、解釈をまちがえてしまったりすることも多いんです」パティは少し照れる。「動物たちの意図は、独特の刺激だったりするので、心やあたまにダメージを受けてしまうこともありますし――」
パティが説明すればするほど、三人は困惑した。
解説されればされるほど魔法がよくわからなくなるのは世の常だった。
そもそもパティですら魔法たるものの骨格ですら理解しているとはいえない。〈魔導院〉はだからこそ設けられているのである。
「とりあえず、マナティさんたちがみた光景によると、内海の異変は最近になってだいぶ強まってきたみたいですね。少なくとも海のなかにおいては」パティは魔法談義をきりあげる。
「マナティが人をたばかるとも思えないからそうなんだろうな。サルはうそのひとつもつくかもしれんけど」ダグラスがほくそ笑むと、モカが「ムキ」とにらんだ。
「でも、それってどういうことなの?」ステファンが訊ねる。
「内海の問題は徐々に悪化しているということではないか?」バレンツエラが答えると、全員が真顔になった。
「海底なり海中に生じていた異常が、海上にも顕れるようになってきたってこと……?」ステファンが考えこむ。
パティはもう一度マナティの大きな顔をふりかえる。
じんわりぬれたつぶらな瞳と目が合ったところで、ふたたび見知らぬ風景がとびこんできた。
それは一瞬理解できなかったが、海から入り江をみつめている景色のようだった。
海面にいるマナティの視界らしく、目線が水面ぎりぎりでゆれており、ときどき水のなかにもぐったりした。
それでも安定しない視野のなかで、ようやくマナティがパティにみせたいものがわかった。
海岸の突端の岩のうえ――そこに女性らしき人影があったのである。
そしてパティは目をこらしたことで、思わず「あ!」と声をあげてしまった。
その女性には足がなかった。
その代わりに下半身が尾びれ――すなわち魚だったのだ。
「人魚……?」
パティのつぶやきに、一同がけげんそうに眉をしかめる。
パティがマナティと面と向かったままなので、三者は交互に目を合わせる。
「人魚はさすがにオレの守備範囲外だな」ダグラスが冗談めかしたが、だれも反応しなかった。
「人魚っていえば、湾岸沿いに進んだところに、その手の伝説で有名な町があるわね」ステファンが仕切りなおす。
「うむ、水の国の領内になる。急いでも徒歩なら二週間、馬車を利用しても国境をはさむので一週間くらいはかかるだろうか。〈珊瑚礁の町〉といったかな」バレンツエラが鼻息をもらす。「その昔、絶滅するまえには、人魚が入り江につどっていたという伝承のある町だ……」
三人はふたたび沈黙する。
パティとモカとマナティはまだ無言の対話をしていた。
それでもパティの「人魚」という暗示的な一言で、つぎの目的地が決まった。
解決の糸口ではなく、余計に事態を混乱させてしまう可能性もあったが、議論する余地はなかった。
しかし三人はふしぎと、それが不確かで根拠のない道しるべであればあるほど、核心にせまっているような気がした。
遠くからちいさな声で名まえを呼ばれている、そのかすかな響きに耳をすませるような感覚――魔法とはそういうもののことをいうのかもしれない。