9 少女の精神感応
パティたち一行は内海湾岸沿いの王都の築港〈王の桟橋〉まで徒歩でやってきた。
広大な王都の領内を移動しただけなのだが三日もかかった。
まっすぐ直線的に向かったわけではなく、方々で情報収集につとめながらだったので時間を要したのである。
水の国の山岳地帯の田舎町で育ち、王都に招かれてからもずっと〈魔導院〉にこもっていたパティにとっては、慣れない枢機院の使者としての行動は、とても新鮮だがやはり気疲れするものだった。
地域や地区によって毛色のかわる街並みも目新しく、風景もつぎからつぎへと移り変わり、またそこに住む人々も多種多様だった。
パティが瞠目しながらそれらに見入っているさまを、ダグラスやステファンがうしろからこっそりうかがって微笑していたことは知るよしもなかった。
勅命をたずさえての来訪だったこともあり、饗応してくれた貴族にせよ、宿を提供してくれた領主にせよ、たちよった各種商業店の店主にせよ、一般の市民たちにせよ、みなが一様に親切だったことも逆にパティにとってはプレッシャーになった。
だれにも迷惑をかけられないとか、この問題を絶対に解決せねばならないという重圧だ。
しかしだれもがパティに着目しても、バレンツエラが「調査隊に随行してくれている魔法使いです」と紹介したところで、肩にのっている小ザルに関心が移るので、パティは人見知りで過度に緊張せずに済んだ。
もしかしたらマイニエリ師がお守りとしてこの小ザルを用意したのは、そういう意図もあったのかもしれない。
師は鷹揚なようでいて、老練さにもとづいた精緻な判断をいつもする。
このテナガザルは王都で一般的に知られている灰色の毛皮に赤ら顔のオナガザルや、サーカスがつれているような奇抜な面容のメガネザルなどとはちがって、手足が長いかわりにしっぽはなく、毛色も(顔まわりのクリームを除き)全身がブラウンだったのでめずらしかったのである。
パティは小ザルを「モカ」と名づけた。パティの好物である(フリーダ特製の)ホットチョコレートに由来している。
そっと「モカでいい?」と呼びかけたとき、小ザルは嫌がるそぶりもみせず、キキとちいさく鳴いて応えた。なんとなくそれでいいと認めてもらえたような気がした。
モカはほとんどの時間をパティの右肩で過ごし、基本的にはまるまって寝ている。
ダグラスがからかったり、人相のわるい商人が話しかけてきたり、香水のきつい傲慢そうな貴婦人が興味本位で手をのばしてきたときだけ、「ムキ!」と歯をむきだして威嚇したりした。
それに落ち着きのかたまりのようなバレンツエラや、育ちのよさそうなステファンにかぎらず、気まぐれそうでどこか不真面目にもみえたりするダグラスもまた、使命をもった騎士としての役割はしっかりと果たしていた。
パティはステファンのうしろについてまわるのがやっとだったのだが、あいさつまわりや雑談に興じるバレンツエラも、ただすれちがう(魅力的な)女性に声をかけたり、その尻を追いかけまわしているだけにみえるダグラスも、最終的に宿舎に落ち着く頃には、それ相応に内海変事に関する情報収集をしていたのである。
もっとも有益な手がかりは皆無だった。だいたいが航路停止に対する不平だったり、安心できない世の中への不満だったり、伝聞に尾びれ背びれがたくさんついた噂話だったりした。
「内海に魔女の呪いがかけられたのよ」とか「おれはこの目でみたんだよ、でっかい化物をさ」といった根も葉もない怪情報などだった。
そんなこんなで一行は〈王の桟橋〉に到着した。
軍港、商港、漁港などを兼ねた大規模な港街である。
人口も多く、一度すれちがった人と二度は遭遇しないのではないかと思われるほどだった。パティは人間酔いしそうになった。
はずれに運河が設けられており、港湾施設もあった。
湾岸地域に入るための橋げたに立つと、波止場に停泊している巡航船や貿易船の群れを遠巻きにながめることができた。
これらの船のなかには内海で利用されるだけではなく、大海峡経由で外海へでて(火の国の西部海域である)多島海といった遠洋にまで向かうものもあった。
見晴台もあり、その中央では(信仰の対象でもある)女神像が胸に手をあわせていた。
女神像のまわりにはイルカや子どもたちのオブジェがあり、それをとりまくように複数の恋人たちがいた。
昼間からみょうに仲むつまじい雰囲気をかもしだしている。
「オレたちもあそこにまざってみるかい?」ダグラスがにやにやしたが、パティがあわてて頚を横にふると、右肩の小ザルがキキと笑った。
「――しかし、まったくもって手がかりなしね」ステファンがきれいな髪を手ですきながらつぶやく。
髪が潮風になびいて画になっている。
「深刻にはちがいなく、その被害も広範囲におよんでいるのだが、だれも問題の中核をつかんでいないというのもめずらしいかもしれない」バレンツエラがぼんやりした表情で海をみる。
「まさに難航だな――」ダグラスが冗談めかして笑ったが、だれも(モカでさえも)反応しなかった。
パティは内海をみつめながら意識をなるべく遠くに集中させてみる。
陽光きらめく海面がまぶしくなったのでゆっくりと目を閉じた。
その表面だけではなく、海底まで凝視するぐらいの気持ちで、精神活動を潮流にゆだねる。
なにか異質なものだったり、不自然な兆候のようなものが感じられやしないかこころみたのである。
動物の毛皮を手のひらでくりかえしなでるように。
――すると、まぶたのなかに茫漠とした闇がひろがったのち、海の幻影が現れた。
これも内海だろうか?
しかし暗い。どうやら曇りの日の海のようだ。
空は灰色で海は黒い。音もなく大きく波がうねっている。
しばらくして、小雨が降っていることに気づいた。
雨粒で頬がぬれる感覚が思いのほかリアルで――パティは思わず目を開ける。
すると、モカがパティの右頬にふれていた。
そして腕のふさふさの毛で首筋をくすぐってくる。
「あ、ん、どうしたの?」
面食らったパティが訊ねると、モカはキキと鳴きながら南の浜辺のほうをゆびさした。
そちらを見やると、どうやら見慣れない無数の動物が波打ちぎわにかたまるようにして集まっているようだ。
「なんだろうね?」パティが問いかけると、小ザルは突然肩からとびおりてタタタと駆けだした。
「あ、待って――!」
パティがあわてて手をのばすも届かず、モカはぴょんぴょんと跳ねるように走り去る。
しかたがないのでパティはあとを追った。
パティが急に三人から離れたので、ダグラスが「なんだなんだ!?」とけげんそうな顔をしたが、すぐに事情が飲めたらしく「おい、追いかけっこらしいぞ」と笑った。
バレンツエラとステファンは顔を見合わせたが、結局言葉はかわさず一人と一匹のあとについていくことにした。