9 まさかの人選
誕生パーティから少し時が経った頃、フランシスカをセーヌに招待したいという内容の手紙がセーヌ王から正式に届いた。
父である国王からそれを直接伝えられてはただ嫌と言うわけにはいかない。しかし断る理由はとうとう思いつかず、フランシスカは貼り付けたような笑顔でセーヌ行きを了承した。
「あまり身構えずともよい。お前の訪問は公には発表しない、非公式なものとすることで向こうとも話がついている」
「……はい」
――本当に招待を寄越すとは。
正直なところ、驚きと困惑は深まるばかりだった。この話がセーヌの大臣の戯言ではなかったことは、王の名で届いた手紙が示している客観的な事実で、疑いようがない。
フランシスカが不安なく嫁げるように、というのが招待の理由らしいが、そんなのは全く腑に落ちない。なぜなら、この結婚はフランドルトにとっては人質を差し出すようなもの。それくらい、セーヌとの間には国力の差がある。
対等な結婚話ならともかく、格下の国から来る人質のために、それほど気を遣ってもらえるとは思っていなかった。
「非公式な訪問でもあるし、あまり人数をつけるわけにはいかないが、近衛から人をやろう。腕も立つし、信用できる者を選んでおく」
父にはフランシスカが不安げに見えたのだろうか。大丈夫だと、励ますように言われている気がした。
やはりなんとなく気は進まないままだったが、嫁ぎ先の機嫌を損ねず、良い関係を築いておくことも自分の役目には違いない。
「お心遣い、ありがとうございます。立派に役目を果たして参りますわ」
セーヌへの出発は約ひと月後と決まった。
セーヌまでの道は少なく見積もっても馬車で五日はかかり、さらに向こうで一週間ほど滞在する。
これほど王宮を離れるのは初めてのことで、それなりの支度が必要である。さらにこの間も、輿入れに向けての準備もしなければならない。正直に言ってそちらの進捗状況はあまりよくなかった。
誕生パーティやその他「色々な」こともあり、集中して取り組む時間があまり取れなかったからだが、こう期限が迫ってきてはそんなことも言ってはいられなくなる。この先はセーヌ訪問のための支度を確実に済ませつつ、輿入れの準備に邁進しようとフランシスカはそう心に決めた。
そうして忙しい日々を過ごしていた時、フランシスカは風の噂で兄ルシオの周囲に起こり始めたちょっとした変化を耳にした。
「そう言えばご存知でした? 今、薬室ではブライトマン家のモニカ様が働いておられるそうですよ」
その日、エリスはセーヌへの同行のために長めの休みを取っていて、代わりに控えていた侍女はたいそうおしゃべり好きな娘だった。
「え――? いいえ、知らなかったわ」
「なんでも、ご実家が事業に失敗されてお金が大変とかで。自ら志願されたそうですよ。でも珍しいですよね――薬室なんて、公爵家の姫が働くようなところではないでしょうに」
王宮薬室は主に王族のために薬師が薬を調合するところ――確かに、王族などに行儀見習いとして仕えることはあっても、貴族の娘が薬室で働くという話は今までに聞いたことがない。
「よほどなりふり構っていられない、ということなんでしょうね……」
侍女は勝手に納得したように独り言ちたが、フランシスカは本当にそうだろうか、と思った。
王宮薬室はルシオの施設研究室がある場所でもあり、モニカの採用にはルシオの何らかの関わりがあったと考える方が自然だ。一体兄が何を考えているのかは分からないが、友人――モニカを側に置くことしたともとれるような配置である。
結局パーティの日から個人的に兄と会うことはなく、モニカとのことを聞き出せてはいないフランシスカだったが、何か兄に変化が起きているのだろうか――と思う。
モニカのことだけではない、長年公の場に出ようとせず、ほとんど全ての公務を拒否して王族の義務を果たそうとしていなかった兄が、少しずつではあるが表に顔を出すようになったと母がたいそう喜んでいた。ずっと兄の行く末を心配していたフランシスカも喜んではいたが、これを機に母王妃の野望が復活してしまわないかが少し気がかりだった。
兄に一体どんな心境の変化があったにせよ、今更もう一人の兄オーガスタスの王太子の椅子を狙うなどという気はないとは思うけれども。
そしてフランドルトが本格的な冬を迎え、セーヌへ発つ日が直前に迫った頃のこと。フランシスカは父が選んでおくと言ってくれた同行する騎士の素性を、不意に知ることになった。
きっかけは、おしゃべり好きな例の侍女。セーヌ行きの話しをしていた時、「何事もなければいいけれど」と漏らしたフランシスカに彼女は思いもよらない言葉を放つ。
「あのダグラスさまが護衛についてくださるそうですから、必ずフランシスカさまをお守りくださいますわ。ダグラスさまといえば、先日の模擬試合もまた優勝されたそうですし」
思わず叫びそうになったのを、フランシスカはすんでのところで堪えた。確かにアデル・ダグラスは優秀な騎士だ。だけど、そういうことじゃない――
人選は父に任せていた。きっとふさわしい者を選んでくれると思っていたし、特に気に留めてもいなかった。
確かに近衛騎士の中から選ぶ――とは言っていたけど、それがまさかアデルだなんて考えもしなかった。アデルがそれを了承したことも、信じられない。
――もしかして。
ふと思い浮かんだのは、一つの可能性。あのアデルが、兄の了解なくこんな仕事を受けるとは考えにくい。
長旅をアデルと共に過ごすだなんて、とんでもない。絶対に取り下げて貰わなければ。
「急ぎ、兄さまに用事を思い出したわ。お話をしておかなければ」
「えっ?」
脈絡のない言葉にぽかんとする侍女を放って、フランシスカは急いで兄ルシオのところに向かった。
おそらく午後の今の時間なら、薬室――自分の研究室にこもっているはずだ。
薬室へ向かうと、前の廊下に見知った顔見つけて声をかける。
「ごきげんよう、モニカさん。パーティの日以来ですわね」
「お、王女殿下……!?」
どうやら薬室前の掃除をしていたらしいモニカは、飛び上がりそうなほどに驚いてフランシスカを見つめた。
「ここで働いているという話は本当の話でしたのね」
「は、はい。ルシオ殿下のお計らいで……」
「本当ならまたゆっくりお話しでもしていきたいところですけれど、あいにく今日は急いでおりますの。兄さまは――いらっしゃるわね?」
「え――?」
まだ混乱気味のモニカの返答を聞く前に、薬室の更に奥にあるルシオの研究室へと入っていこうとする。
しかし、モニカの慌てた声がフランシスカの足を止めた。
「ルシオ殿下なら本日はお見えになっていません。本日というか、ここ数日ですが」
数日もの間兄が研究室に姿を見せない? それほど兄が忙しそうには思えなくて、フランシスカは疑問を覚える。
「……そうでしたか。どこにいらっしゃるかは?」
「いいえ――あの、殿下に何かあったのですか?」
フランシスカがモニカに向き直ると、彼女は不安げにたずねてくる。モニカもおかしいと思っているのだろう、それくらい兄の研究に対する熱意は異常だったから。
「そういうわけではありません。わたしが個人的に用があって……」
「そう……ですか」
「教えてくださってありがとう、モニカさん。別の場所を探してみますわ」
フランシスカは頭をよぎる記憶を打ち消すようにモニカに笑いかけた。
もう随分昔のことだが、前にも似たようなことがあった。ルシオが突然姿を現さなくなって、フランシスカですら長い期間兄に会うことができなくなった。
そんなはずはない、と思う。あの時とは違う。最近の兄は公務だってするようになった――
言いようのない不安に襲われながら、フランシスカはルシオの部屋を訪ねることにした。