6 兄の友人
誕生日の朝、十八歳になったばかりのフランシスカの気分はいまいち優れなかった。
「お誕生日おめでとうございます、フランシスカさま。昨晩はよくお休みになれましたか?」
「ええ、ありがとう」
爽やかなエリスの笑顔に、寝ぼけ眼で返事をする。昨晩はなかなか寝付けなかったせいで、気分が悪い、とはあえて言わなかった。
侍女に朝の支度をしてもらいながら鏡に映った自分の顔を見れば、随分と酷い顔をしている。無意識に軽く息を吐きながら、今日の予定を頭の中で改めて整理した。
まずは昨日から滞在している隣国セーヌの使節を招いた昼食会に王や王妃と共に出席する。その場は簡単な顔見せのようなもので、フランシスカには大して出番がないだろう。それからは夕刻より開かれるパーティの段取りをもう一度確認し、準備に取り掛かることになる。いろいろと忙しい一日になるのは間違いがないだろう。
今日の招待客には隣国セーヌの要人もいると聞いている。主役であるフランシスカは当然賓客をもてなさなければならないし、決して何か粗相をするようなことがあってはならない。
何かあればセーヌ王との婚約にも影響してしまう可能性があるのだ。フランドルトという国のためにそれだけはあってはならないと思いながら、懸命に自分に喝を入れた。
フランシスカの予想通り、セーヌ使節との昼食会は父や母などが中心となって会話を進め、つつがなく終了した。
一旦部屋に戻って次の支度をしながら、フランシスカは先程紹介されたセーヌ使節団の面々の名と顔を思い出しながら必死に頭に入れる。
しかし慌ただしく過ごしているのは、却って好都合だった。忙しくしていれば、余計なことは考えずに済んだのだ。
だからその日、初めてアデルのことを思い出したのは、パーティが始まる間際、すべての支度がすんで少しだけ息をついた時のこと。
控室で時間を待っている間、ルシオがフランシスカの元を訪れた。
「まぁ、本当にパーティに出席くださるのね、兄さま。これは夢じゃないかしら?」
いつになく身なりを整えた兄は供も連れずにやってきて、妹の言葉に居心地が悪そうにしながらも微笑んだ。
「私のことはいい。パーティが始まるまでにお祝いを言っておきたくて。お前は主役で忙しいし、万一ということもあるから一応」
「それでは、これまで放っておかれた数年分も祝いのお言葉を頂戴しなければなりませんね」
何しろ、兄が誕生日を祝ってくれるのは本当に久しぶりのことなのだ。フランシスカが悪戯っぽく言うと、ルシオは苦笑した。
「お前には長々心配をかけているのは承知している。至らぬ兄ですまないな」
「あら、謝って下さるの? お祝いをして下さるんじゃなくて?」
「いいや――そうだった。おめでとう、フランシスカ。あまり見ない間に、とても奇麗になった」
ルシオとこんな会話ができる日が来るとは、正直思っていなかった。目を細めて優しく笑う兄は、幸せだった昔の記憶を思い出させて、フランシスカの心を温かくさせる。
「ありがとうございます、兄さま。今夜はお友達をお呼びだとか。ご紹介頂けるのを楽しみにしておりますわ」
内気で繊細だけれども優しかった兄が、ある時を境に人前に全く出れなくなってしまったのは、おそらく長兄オーガスタスとの跡目争いが関係しているとフランシスカは思っている。
兄は自分のことを語らないので推測するしかなかったが、少しでも大好きだった兄の心が癒えつつあるのなら、本当に嬉しい。そう思えば自然と頬がほころんでしまう。
どうかこのまま良い方に事が運びますように――心の中でフランシスカが願った時、ふと、どんな時も兄の近くに仕え続けてきた男がいないことに気づいた。
「今日はアデルは、一緒じゃありませんのね……」
「別に常に一緒にいるわけではないが……たぶん、後から来るんじゃないか?」
言葉を濁しがちなルシオの様子に、フランシスカは心当たりがあった。
口論になったあの日から、アデルとは一度も会っていない。顔を見かけることもない。一方で、聞きたくない噂話は変わらず耳に入ってくるけれど。
もちろんこれくらいの期間全く会わないことは今までにもいくらでもあった。それでもフランシスカは、アデルが自分に会いたくないのだろうと思った。
あんなことがあった後では、それも仕方のないことと思う。あんな女は、自分だって嫌だ。
「ここしばらく、あいつはずっと機嫌が悪いんだ。お前が仲直りしてやってくれると助かるよ」
ルシオはそんな意味深な言葉を残して控室を去った。まるで、アデルの機嫌がフランシスカと仲直りすることによって直るとでも言いたげだった。
そんなはずはない――と思う。彼の感情をそれほど自分が占めているだなんて思えない。子供の時からずっと、彼はフランシスカを見てくれたことなんてなかった。
アデルはいつだって違う方――フランシスカ以外の女たちを見ていたのだから。
「フランシスカさま、お時間でございます」
エリスの言葉に頷いて、フランシスカはパーティ会場に向かうために立ち上がった。
どうして今更こんなことを思い出してしまうのか、分からなかった。叶わなかった恋の記憶なんて、とっくに忘れてしまったと思っていたのに。
久しぶりの社交の場は、フランシスカを疲れさせるには十分だった。
今日の主役は自分ということもあって、ここまで着飾ったのも久しぶりだった。王家の名に恥じぬような豪勢なドレスは、重いし、肩がこるし、歩きにくい。
加えて次々に挨拶にやってくる招待客たちには、常に微笑みを絶やさずにいなければいけない。少しも息が抜けない自分の誕生パーティは、本当に面白くないものだな、と改めて思った。
どの招待客からも同じようにかけられる祝いの言葉に飽き飽きしていたころ、フランドルトではあまり見かけない雰囲気の男がフランシスカに近づいてくる。昼の記憶を辿ったフランシスカは、それがセーヌの人間だとすぐに思い当たった。
「ご挨拶が遅くなり失礼を致しましたこと、どうかお許しください。私はセーヌ王国にて外務大臣を務めるファンベルトと申します。王女殿下におかれましては、この度は十八歳のお誕生日、そして我が陛下とのご婚約の内定、誠におめでとうございます」
「いいえ、こちらこそ。こちらから伺うべきでしたのに申し訳ございません。フランドルトが第一王女、フランシスカと申します。本日は遠方よりご足労頂き、大変感謝しております」
「とんでもございません。本当なら我が陛下本人が伺いたいとのことだったのですが、あいにく都合がつかず私などで失礼いたします」
「そんな……」
セーヌの外務大臣と名乗った男は、抜け目ない雰囲気を漂わせつつこちらの様子をうかがってくる。年齢で言えば四十を少し過ぎたくらいだろうか。フランドルトで要職に就いている面々を思い浮かべれば、十分に若い部類に入る。
きっと優秀なのだろう。国王の代わりにやってきたというならなおさらだ。セーヌがフランドルトを決して軽視していない、という前提だが。
「殿下が我が国にお輿入れなさる日を、陛下も大変楽しみにされているのですよ」
「わたくしも楽しみにしております。後ほどゆっくりセーヌのお話などお聞かせいただけると嬉しく思いますわ」
「よろしければ、是非に」
後ろにフランシスカへの挨拶を待っている者たちを気にしてか、セーヌの大臣を名乗った男が長々と話し続けることはなかった。
セーヌの人間とのやり取りは特に神経を使うから、それはありがたいことではあったのだが、その後もフランシスカへの挨拶を望む者はひっきりなしにやってきた。
何十人目かの同じような口上を微笑みながら聞いていた時、不意に人の切れ間にルシオを見かけた。
思えばまだ兄の友人を紹介してもらっていない。早くしないと、機会がつかめないままパーティが終わってしまうかもしれないではないか。
相手の口上もちょうどキリがよさそうだったので、フランシスカは会話の相手に丁寧に別れを告げて兄の元へ駆け寄る。
「兄さま! 遅いわ、ずっと待っていましたのに」
「ああ、すまない。ちょっと彼女を探していて」
瞬間、フランシスカは自らの耳を疑った。彼女というのは、普通、女性を指す言葉だ。
「彼女って――? あっ」
聞き間違いだろうと兄に確かめようとした時、フランシスカは兄の隣に戸惑いの表情を浮かべた女性がいるのに気づいた。
女性――しかもそれはどう見ても、年頃の若い貴族の令嬢だった。
フランシスカは信じられない思いがしながらも、その令嬢に向き直って微笑んでみせる。
「――失礼を致しました。まさか兄さまが、女性を連れていらっしゃるなんて思わなくて」
「前に話しておいただろう?」
「だって、まさか女の方だなんて思わないわ。ね、早く紹介してちょうだい!」
一体全体これはどういうことなのか? フランシスカは早く彼女のことが知りたくなって、兄を急かした。
そしてフランシスカの勢いに苦笑する兄がフランシスカのことを紹介し――また、彼女のこともフランシスカに紹介する。
「フランシスカ、こちらはレディ・モニカ。ブライトマン公爵家のご令嬢だ」
それが、フランシスカとモニカ・ブライトマンの出会いだった。