2 祝福されない結婚
「フランシスカさま……その、セーヌ王と婚約されたというのは本当なのですか?」
婚約が決まってから数日が経った、ある朝の支度中のことだった。不意に侍女の髪結いの手が止まって、フランシスカは思わず目を瞬かせる。
彼女はどちらかというと大人しく真面目な娘で、いつもは無口な方だった。
「……知っていたのね、エリス」
「申し訳ございません。昨日、王妃さまが話しているのを聞いてしまって……その、差し出がましいこととは思ったのですが」
言いにくそうに、でも何か言いたげな表情のエリスに気づいて、フランシスカは内心またか、と思った。
言いたいことはまぁ、分かっている。婚約のことを知った王妃である母も同じような、いやもっと分かりやすい反応をした。
「結婚を考え直せとかいう話なら、無駄よ。もう決まってしまったことなの」
「でも…セーヌ王はあまりにお歳が離れていらっしゃいますし、こんな、まるで……」
「人質だって言いたいのでしょう、分かっているわ。でもかの国とは長く争い事が続いていたから、友好を謳うならば、それなりの誠意を見せなければならないのよ」
セーヌとは長年国境の領土を巡って緊張が続いてきた。
父王よれば、両国の婚姻が為った暁には、友好関係を結ぶことをセーヌ王と約束したという。
「そもそも、あんな野蛮な国に屈する必要などあるのでしょうか。国王陛下は、少々弱腰でいらっしゃるのでは……?」
「昔はともかく、今は国力が違うわ。全面戦争になれば、フランドルトは間違いなく敗れるでしょうね」
「そんな……でも」
「心配してくれるのは嬉しいわ。けれど、これはわたしが望んだことだから。もう、この話はやめましょう?」
エリスはどこか不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
本来ならばセーヌとの友好か敵対かなど、選ぶべくもないはずなのに。
賢君と言われる父が元気なうちはまだいいだろう。だけどその先のことを、皆考えないようにしている。この国の危うさに、気づかないふりをしている。
その日、王宮では近衛騎士団の模擬試合が催されていた。定期的に開かれるこの催しは、騎士たちの日頃の鍛練の披露の場であり、貴族たちの娯楽の一つでもある。
王族の観戦は恒例になっていて、フランシスカも試合を見守っていた。
「フランシスカ――、兄上は?」
知った声が聞こえたのは、トーナメントも中盤に入った頃だった。
遅れて席にやって来たのは次兄ルシオで、フランシスカはたいそう驚いた。兄がこのような場に顔を出すのは、本当に珍しい。
「オーガスタス兄さまは、ご体調が優れないようです。父さまは、お忙しくて今日はおいでになっていません。母さまはあちらの席にいらっしゃいますけれど――……?」
「いや……いい」
暗に母のところへ挨拶に行くように勧めてみたが、ルシオは歯切れ悪く首を振った。
「……でしょうね。それが賢明ですわ。母さまは今、兄さまにカンカンですもの。どうして勝手にブライトマン家のご令嬢との婚約を破棄してしまったのです? まだ一度も会ったことがなかったのに」
引きこもりの息子をなんとかしようと母が強引に推し進めた公爵令嬢との縁談を、ルシオが勝手に破談にしたのはつい先日のことだった。
まだ公に披露する前であったのが不幸中の幸いだったが、母の怒りは収まらないらしい。何としてもルシオを次の王にしたい母ですら、今度こそ見放すかもしれない――フランシスカがそう感じるほどに。
「その話はやめてくれないか。やり方がまずかったのは承知している……」
いい歳をした大の男が情けなく肩を落としているのを見て、それ以上の追求はしなかった。
ルシオが家族以外の女性の全てを本当に苦手にしているのは知っていたし、そんな兄を責めたいわけではなかった。
「では……ルシオ兄さまがこんな試合にいらっしゃるなんて――一体どんな心境の変化ですの?」
ルシオは王族でありながら、公務には消極的で、薬学研究に精を出す変わり者。幼い頃には共に遊んだ記憶もあるが、近頃では私設研究室を作ってこもりきりになってしまっている。
「あまりにも表に出ていらっしゃらないから、お顔を忘れてしまうところでしたわ」
ルシオはフランシスカの皮肉に一瞬渋い顔をしたが、あえてそれ咎めることはなかった。
「お前が、結婚すると聞いたものだから」
「まあ、それでわざわざ?」
「……本当に、これでよかったのか? セーヌ王は父上とそう変わらぬ歳だろう」
――ああ、まただわ。
「それが何か? わたしは良い方に嫁ぐことができると思っております」
――母さまもエリスも、兄さままで……! ああ、もう……どうして誰も、おめでとうの一言すらないのかしら。
「確かに、家格は十分すぎるほどだろうが……異国に嫁げば、そう簡単に帰ってくることもできない。会いたい者に、会うこともできなくなるのだぞ」
「それくらいのことは分かっております。この国の王女として、覚悟はとうにできておりますわ」
ルシオが何を言いたいのか、フランシスカには分からなかった。
当たり前すぎることをわざわざと。七つ歳が離れているからといって、未だ子供扱いされているのだとしたら心外だ。
「お前自身が望んでの結婚なら、私はもう何も言わない。ただ、もし本意ではないのならと思っただけだ」
「もちろん、わたしが望んだことに決まっています。なぜ、そんなに念を押すようなをおっしゃいますの……?」
「別に、勘違いだったのならいいのだが……」
その時――ちょうど観客席が沸いた。トーナメントの有力選手が登場したのた。
アデル・ダグラス――その若い騎士のことはよく知っていた。元々はルシオの乳兄弟で、フランシスカにとっても幼い頃は共に遊んだ記憶のある幼馴染のような存在の男。
「ああ……今日はあいつも出るのだったな」
ルシオが思い出したように言った直後、アデルは鮮やかな剣技で早々に相手を倒してしまった。
――すごいわ。
瞬間、先程より更に大きな歓声上がってはっとする。ほんの一瞬、完全に――見惚れてしまった。
「そ、それで……勘違いとは、何のことですの? 兄さま」
アデルに見惚れてしまったなどという事実は、到底受け入れられない、受け入れてはいけない。フランシスカは今しがたの出来事を懸命に頭の中で打ち消し、慌ててルシオに話の続きを促した。
すると兄は、何故か気まずそうに口ごもる。
「いや……、私は……てっきり」
「何ですの? どうぞ、はっきり言って下さいませ!」
まどろっこしいのは好きではない。多少のいら立ちを覚えながら、フランシスはルシオに詰め寄る。
しかし、兄の口から渋々と紡がれた言葉は、フランシスカが全く予想しないものだった。
「お前は、アデルのことを好いているのだと思っていた」
「――そっ、そんな大昔の話を持ち出さないでください!」
自分ですら忘れていた、ずっと昔の話。先ほどの動揺と合わせて、当時の記憶がフラッシュバックするように蘇って、フランシスカは顔に熱がのぼるのを感じた。
「もうずっと昔の、子供の時の話です。今でもそんなわけがないでしょう! そのような話は二度としないでくださいませ!」
「そんなに怒らせるとは思わなかった。嫌なことを言ったな……すまない。忘れてくれ」
フランシスカの勢いに気おされ、ルシオは驚きつつ申し訳なそうに言った。
怒ったというつもりはなかった。けれど、ルシオが妙なことをいうものだから、ついムキになってしまった。
悪意のない言葉であったことは分かっている――むしろ心配をしてくれたのだから、感謝しなければ。
「謝っていただくことではございません。こちらこそはしたなく大声を出してしまって、ごめんなさい……」
「構わない。お前が幸せなら私は祝福するよ。おめでとう、フランシスカ」
「……ありがとうございます」
内気で心の優しい兄にようやく言ってもらえた祝福の言葉も、何故か今は素直に喜べなかった。
確かに――アデルはフランシスカの初恋だった。けれど今の今まで忘れていたし、もちろん現在ではそんな気持ちは微塵も持ってはいないと断言できる。
――なのに、どうして。
試合が終わると、兄はそそくさと客席を去ってしまった。
後に残されたのは、いつまでもなりやまない優勝したアデルへの歓声と拍手。
そして観客に応える彼から、フランシスカは不思議と目が離せなくなった。