平とブルジョワ
「目次」
第一章 龍との出会い
第二章 取り引き
第三章 回想のミッド・ナイト・フォッグ
第四章 復讐のローカル・トレイン
第五章 心眼
第六章 奇襲警報
第七章 戦士達の休息
第八章 真夜中のティームワーク
第九章 月明かりのロード
「主要登場人物」
オレ(平一)……主人公。元私立探偵
ブルジョワ……氷のような鋭い目を持つ、オレの宿敵
「平とブルジョワ」
第一章 龍との出会い
私立探偵ってやつは酷な稼業だ。オレは自分の席で茶をすすりながら思った。この茶はコクがあってうまい。
ここは社員たちが机をつなげて向かい合って座っている古びたオフィス。社員たちはパソコンを見たり、書類の整理に追われていた……薄汚れた壁に、鳴り響くケータイの音に、電話に出て早口に何か言っている係長……。
都内の探偵会社の一室は雑然と一日の朝を迎えていた。よくある仕事場の風景と言えばそうである。
オレはそのモノトーンに映る景色を眺め回していた。そろそろこの風景も見納めだからだ。紺のスーツに、無造作ヘアをワックスできめたオレの両眼は、オフィスの奥にいる社長をとらえた。社長は今、昨日の社員の報告書に目を通している。
オレは立ち上がり、奥のデスクに向かった。三十前半の人生をこれからもここで送る気はさらさらないということだ。オレは社長の前まで来ると、内ポケに入っている「辞表」と書かれたしわくちゃの茶色い封筒を取り出し、机上にたたきつけて置いた。
社長がオレを見上げる。平社員のオレはかたい表情を崩さず、社長の目を見据えた。
オレは黒いカバンを左手に持って、朝の陽光の中へ出た。あそこはセコい職場だった。あの社長の性格が反映されている。きっぱり辞めたので、さっぱりだ。
しばらくして女房と五歳になる息子の姿が脳裏に浮かんだ。問題は家に帰って何て言い訳するか、だ。サラリーマンは辞めた後がつらい。
オレは「ハァ~」とため息をつくと、近くの本屋に入店した。今日発売のビジネス雑誌「癒しのサファイヤ経済」を買うためだ。それでも読んで心を落ち着けたい。
オレが雑誌コーナーに行くと、下の棚にちょうど一冊だけ残っていた。
オレはそれを取ろうと手を伸ばす。手が雑誌に触れかけた――そのときだった。
オレの後ろからカッ、カッと速足で店のタイルを蹴る音が。
振り返ると、俺の眼前にウェーブのかかった黒髪があった。スパイシーな香りが鼻先をかすめる。
俺と同じ年ぐらいの、白地に銀の縦ストライプのスーツを着た男だ。
冷たい銀縁眼鏡をかけており、氷のような鋭い目をしていた。右手にはグッチのマークの入った黒いカバンを持ち、いかにも金を持っていそうだった。
そいつがオレの前に入って言う――「ああ。ここにあったか」
そしてオレが取ろうとしていた雑誌を0.0三秒早く取り去った。
間違いない、このずうずうしさ。こいつは「ブルジョワジー」の出だ。オレは闇の権力者の手先となる社会活動家も嫌いだが、ブルジョワも好かない。昔、相棒の桑田が体を張って、ホシから守ろうとしたのがブルジョワだった。桑田はホシにナイフで刺され、その傷がもとで死んだ。
オレは言った。
「あの、すいません…私が今、この雑誌を取ろうとしたんですが…」
ストライプは振り返った。
「何を言ってる。早い者勝ちだろう」
ムっとした表情の奥の目は冷たく、そして鋭かった。
オレは「ブルジョワ」の前に一歩足を踏み出して言った。
「待ってください。それなら「すいません」とか言うのが普通でしょう?困りますよ、割り込んで取るのは~」
ブルジョワは吠えた。
「これは割り込みじゃない!正当な理由があるだろうが」
「え…それは何です?」
「さっき言ったはずだ。「早い者勝ち」という理由じゃないか。ここは弱肉強食の競争社会だろうが」
ブルジョワはにやりと右の口元を引き上げた。頬の肉が吊って、透き通るような奴の白い素肌にしわが寄る。
ブルジョワはひるむオレを尻目に、強引にレジに行こうとする。
オレは即座にブルジョワの右肩をおさえた。
「やめろよぉ~、もう、ずるいぞ~。強奪は~!」
ブルジョワは言い放つ。
「だから強奪じゃない!」
その言葉はオレの心に深く刺さり、底で響いて共鳴し、そして疑問を掘り起こした。
――強奪じゃない…強奪じゃない…強奪じゃない…強奪じゃない……――
果たして本当にそうだろうか。資本主義はブルジョワの社会である。今まで人をかき分け、割り込んで勝利したブルジョワの腐臭にまみれた邪悪な手口で幾多の犯罪がこの街で行われてきたのだろう――俺は知っている、犯罪の背後に見え隠れする奴らはいつもこう言うのだ。「知らない」と。「強奪じゃない」と。オレはどちらかというと法の側の人間だ。
こいつが強奪してないわけがないだろう。いや、むしろ確信犯だ。
こんなギラギラした成金ストライプを着こんだ奴が、秋の終わりの昼間っから書店の雑誌コーナーを出てどこかへ行こうというのだ。しかもこいつはネクタイをしていない。その姿はまさに仕事の奴隷と化した、この腐敗社会の行きつく先だ。
第二章 取り引き
オレは天井へ向かって雄たけびを上げた。
「あんたの言うことは、う、嘘だぁー!」
ブルジョワはびくっとして及び腰になり、
「な、何だ。こいつは!?」
と動揺を見せ始めた。そして雑誌を持ってレジへ逃走。
ホシは奥へ逃げた――オレは後を追う。
すぐに捕らえた。そしてホシのブツをおさえる。
店内でブルジョワと雑誌「癒しのサファイヤ経済」の取り合いになる――オレとブルジョワはサファイヤを引っ張り合った。
近くで、ハットを被った紳士風のじいさんが振り返って言った。
「ちょっと、ちょっと~、あんたら。もう~何やってるんだよ、あん?仲良く分ければいいじゃーん。な?」
オレは叫んだ。
「いや、これはオレのだ!」
ブルジョワも叫ぶ。
「オレが先に取っただろ!!」
じいさんはやれやれといった感じで「ちょっとその雑誌貸してみなよ」と言う。
オレは思わず手の力を緩めた。ブルジョワも緩める。
じいさんは雑誌を手に取り「いい考えがあるんだよ。半分こだ」と言った。
ブルジョワが言う。
「どういう意味だ」
じいさんはブルジョワの目を見て、静かに言った。
「民主的な方法でいこうよ。あんたはこの雑誌のどこが読みたいんだ?」
ブルジョワは言った。
「どこって…どこも読むよ」
じいさんは言った。
「ざっくりでいい。どこが読みたい?」
ブルジョワは少し考えた後、じいさんの目を見据えて言った。
「オレは前半のインタビュー記事が一番読みたいかな」
「じゃあ、あんたは?」
オレは少し首を傾げて言った。
「真ん中の漫画と後ろの読者コーナーかな」
じいさんはオレ達の方にウインクして言った。
「じゃあ、裂くぞ」
店の中で雑誌の「ビリビリビリビリ」という音が鳴り響いた。どう見ても半分こではなく、四対一ぐらいになっていた。
その後、オレとブルジョワは店員に怒られて雑誌を買うことになり、金額を折半して払わせられた。オレは雑誌の厚い方を取った。
じじいは店員が駆けつけたとき、早々に姿を消していた。
店を出ながらオレはブルジョワに言った。
「お前ほんと、ふざけるなよ!」
「それはこっちのセリフだ!」
オレは駅へ行くために右の道へ、ブルジョワは左の道へ進み、そこで別れた。
オレの手には六十二ページから裂かれた雑誌が握られていた。
第三章 回想のミッド・ナイト・フォッグ
二十分後、俺は電車の中にいた。あんなことがあったので雑誌を読む気は起きなかった。
プルルルル!と電子音のベルがホームに鳴り響き、駅員のアナウンスと笛の音がこだまする。
この時間にしてはずいぶん混んでいた。
オレは座らず、立つことにした。目の前でドアが閉まる。
ドアのそばに寄りかかるようにして立って、外を眺める…。
外は突風が吹き、たまった枯れ落ち葉がまとまって散った…。
電車が動き出す。
女房のところへ帰宅するつもりだったが、しばらく乗って時間を潰すことにした…。
窓外の秋の終わりの風景はどこか清々しく、そして物憂いものだ。
落ち葉が空で舞い、慌ただしくトラックが走り、うつむきながら歩くサラリーマンがいて、強風でスカートを気にするOLがいた。そのうちに高いビル群がオレの目の前を流れ、景色が草地に変わり、森が現れた。そこを越えると畑が現れ、農作業をする老夫婦がいた。
様々な景色がオレの目の前を流れては消えていく…夕方になってからは霧が出てきていた。
オレは相棒のロンと組んでいたときに遭遇した事件を思い出した。その日は霧の濃い夜だった。オレは街灯の明かりの下、ある男を尾行していた。男の名は飯塚と言った。オレとロンはその頃、戸坂組が抱える殺し屋で、水陸両用スナイパーの「ズゴックE」のヤマを追っていた。前日、ロンが「ズゴックE」はダウンタウンに潜んでいるという情報をつかんできた。それはなじみの情報屋から寄せられたものだった。「ズゴックE」は陸でも水でもライフルを持ったまま百時間は同じ姿勢を維持できると言われていた凄腕のスナイパーだ。
ロンの情報屋の話では、その「ズゴックE」の正体が割れたと言う。それがダウンタウンに住む飯塚という男だった。聞いたことのない名だった。
オレはロンと交代で飯塚のアジトの前で張り込みを開始した。飯塚が「ズゴックE」であるという証拠をつかむためだった。オレは夕方から朝の張り込み、朝から夕方まではロンの担当だった。オレの朝食は定番のあんパンと牛乳だ。毎日毎日あんパンと牛乳が続いた。ロンが買ってくるのだ。オレはかなりあんパンと牛乳が好きだったが、さすがに一年もそればかり食べてくると飽きてきた。だが、あいつは買ってくるのをやめない。
ロンがある朝「ワタシワ!アンパン!ミルク!買ッテ!キマシタ!」と、笑顔でオレに向かって言ったとき、キレた。それは三百六十一回目の朝のことだった。
「何でお前はいつもいつも同じ物ばっか買ってくるんだよ!!!たまにはカレーパンとか、ウグイスパンとか、クリームパンを買って来いよ!」
すると、アジトの窓がガラッと開いて、飯塚が顔をのぞかせた。飯塚はライフルをかまえていた。
「貴様らサツだろ!いつもいつもうるせーんだよ!」
奴のライフルの口径が火を噴いた。銃声が街に鋭く響く。ロンが倒れた。
オレはとっさにコルト・ガバメントを抜いて反撃した。次の瞬間、飯塚はうつぶせになり、窓から落ちて行った。遠くで、どうっと音がした。
「ロン!大丈夫か!」
「平一サン、アリガト。タノシカッタ…」
「何で…何でウグイスパンにしなかったんだよ…バカヤロウ…」
「フフ…ワタシノ工場作ル。バイトシマス。毎日アンパン、食堂ニ トテモ イッパイ 置イテ アリマス。ダカラ、アンパンタダ!」
「あー。だからかー。いつもそこの持ってきてたのか。じゃあお前、あんパン買ってなかったのかー。ほんとにバカヤロウだ。ケチりやがって…あ、じゃあ、オレがお前に朝食買わせるために渡してた金はどうしてたんだ」
「全部国ノ家族二仕送リシテマシタ」
「お前ぶっ殺すぞ…」
「アリガト。出稼ギデキテ、ホント二幸セデシタ」
「あ、待てよ…よく考えたら……お前、勝手にバイトしてんじゃねーよ!!うちの探偵社は掛け持ち禁止なんだよ!ローーーーン!」
そして、ロンは死んだ。
飯塚の正体は「ズゴックE」だった。裏社会では「Eづかさん」と呼ばれていたらしい。ロンが情報屋から聞いた話ではいつも「トテモ Eヒト」だそうだ。
後で来日した奥さんから、実はロンは留学生で、昼間は学校に通っていたことを後で知った。昼間、ロンは学校に通っていたので張り込みはしていなかったのだ。最悪だった。
オレは当時を思い出して涙していた。感傷に浸るのはよくない。それは分かっている。オレは回想はしない主義だ。
霧だ。目の前のこの霧がオレを感傷に浸らせていた。霧はオレのロンリーな心にひっそりと忍び込んで、過去の傷を見つけて、優しく癒すのだ。
私立探偵という職業に過剰な思い入れは禁物だ。特に相棒に対しては。ドライでないとやっていけない。いつ死ぬともしれない世界でオレは非情に生きることを学んだ。
今日辞めるまでオレは十五人の相棒と組んだ、桑田、ロン、マイケル、アム、マリリン、大下、アムロ、異常、寿限無、リュウ、フリーター、貧乏、どん底、ボブ、ホームレス。みんないい奴だった。
いつの間にか、明るさも昼のものから夜のものへと変わっていた。次に就く職業でオレも変わっていくだろう。優しく、しなやかに、そして切なく…。
第四章 復讐のローカルトレイン
オレは終点まで行き、そして別の電車で元の駅まで戻って来た。
オレはその間、ただ黙って秋の終わりを眺めていた…。
乗客は降りて、新しい客が入って来る。この電車は折り返しだ。
しばらくしてプルルルル!とベルの音がした。笛の音が夜のホームに響き渡り、目の前でドアが閉まった。
発車だ。ゴトッと動き出す。
次は通り過ぎず、家のある駅で降りねばならない。
何駅か通り過ぎた…三十分ほど経ったろうか。
いい加減、立ちっぱなしで腰も疲れてきたので座ることにした。
後ろを振り返れば、奥の八人掛けの座席の左端に、人が「半分」くらい座れる空間があるのに気づいた。
よく見れば、座っている人は六人なのだが、座り方が悪いのか、座れるスペースは狭くなっているのだ。
他に空いている席はなさそうだ。
電車内の人は仕事帰りが多いせいか、寝ている人が多かった。
特に六人で座っている、その乗客達は右端の男が新聞を広げて読んでいる以外は全員寝ていた。
股を開いている者、首を傾けている者、体が傾いていびきをかいている者…ここまで寝相が悪い奴らが集まっているのもめずらしい。
おかげで八人掛けが六人掛けになっているのだった。
座れるかは微妙な感じだ。
その向かい席も八人が座り、全員寝ている…。
ぐーぐーしてるが、ぴくりともしない。
オレはドアの窓に視線を戻した。
しかし、窓の景色はもう見飽きていた…。
再び、八人掛けの席に視線を戻した――まず、今オレのいる位置から見て、一番左に阪神の野球帽を真横に被った青年が座っていた。
その隣りにはワインレッド色をしたチョッキを着た初老の男。
そしてその隣りには茶色のハーフコートを着た中年女。
その隣りには緑のコートを着た額の禿げ上った中年男。
さらにその隣りにはくちゃくちゃの長髪ヘアーの女が座っていた。
そして一番右に新聞を読んでいる男がいた。
一番左に座っている阪神の野球キャップのツバを真横にして被った青年。そいつはぐったりと下を向いて寝ていた。
オレは歩いて行き、キャップ男に近づくと脇から声をかけた。
「あの…すいませんが…」
…キャップの男はぴくりともしない。
「あのー…すいませーんっ」
…キャップの男はぴくりともしない。
「あのー…隣り、いいですかっ!」
…【返事がない。ただのしかばねのようだ……。】
そのとき、新聞のバサッ!という音がした。
一番、奥の男が新聞をたたんでこっちを見ていた。うるさそうにしている顔つきだった。
オレはハッとなった。
向こうもハッとする。
白に、銀のストライプ、ネクタイのないワイシャツ、氷のようにドライな銀ブチ眼鏡、冷たく、人を射抜くような鋭い眼の光…。
奴だ、奴がいる、奴がそこに再び現れたのだ。昼に会った、あの、資本主義社会の手先、薄汚い資本権力者であろうインテリだ。
オレとブルジョワはしばらく睨み合っていたが、オレはバカバカしくなり、目をそらした。
ブルジョワも床に置いた黒光りする権力ゴキブリようなカバンに新聞を入れている。
オレはキャップの男に再び話しかけた。
「すいません、あの…」
起きない。
オレは座ることにした。
上の網棚にカバンを置いた。
青年の前に来て、後ろを向くと、端の手すりと青年の座る間の空間に自分の尻を強引に押し込み、ぐいっと左に押しのける。
スペースは広がった。
しかし、その後がまずかった。
押しのけた青年の体が左に倒れてしまったのだ。
隣りの初老の男も倒し、隣りの女を倒し、その隣の男も…。
ドミノは続き、目をつむっていたブルジョワの頭の横に、隣りで寝ていた女のくちゃくちゃの髪がふりかかった。
「…ぷわっぷっ!」
目を開けたブルジョワの悲鳴が聞こえた。
わざとではないのだ!しょうがない、しょうがない、しょうがない、しょうがない……。
オレはもう疲れた。少し眠ろう…。
…しばらくして。左の肩にビシッと突き刺さるような衝撃を感じた。
目を開いて横を見ると、キャップの頭が目の前にある。
刃物のように鋭利なツバがオレの左肩に突き刺さっていた。
脇から身を乗り出して向こうをのぞくと、ブルジョワ以外のすべての人がオレのいる方へ体を傾けているのが見えた。
ブルジョワは目を閉じて静かにしていた。
汚いやり口に、怒りの炎がオレの体を覆っていった…。
「…あの、大丈夫ですかね…」
キャップの男に声をかけたものの、返事はない。
実際、大丈夫かどうかなんて、実はどうでもいい、これでいける。
スペースシャトルで打ち上げられたときの宇宙飛行士は重力加速(G)で体を椅子に押しつけらる。その力は増え続け、最大で三.0Gになるという(旅客機の十倍)。
オレはまず、両手でキャップ頭を起こしてから、ツバを正面に向けると、その肩に静かにタックルを浴びせた。
五人分の体重がかかっていたので、ぐっと重く、倒すのに時間がかかった。
青年の上半身が倒れ、初老のチョッキの上半身が動き始めた。
初老の男がゆっくり傾き、茶色のハーフコートの中年女の上半身が何とか傾き、倒れ始め…。
…ああ、だが、その隣りの額の禿げ上った、緑のコートの男の倒れ方は微妙だ。
やはりGが足りなかったか…あれではブルジョワまで届かないかもしれない。
気配を感じたのか、ブルジョワの目がカッと開いた。
今、奴の隣りのくちゃくちゃの髪の女の上半身がゆっくりと左へカーブしようとしていた。
ブルジョワは気づいた!
奴は素早く両手でくちゃくちゃの髪の女の肩をおさえた。
五人分のGがブルジョワの両手にかかる…!!
両手から波動でも発射するかのごとき態勢で、奴が踏みとどまる。
このままでは、押し返される…!!
危惧は現実になろうとしていた。
すぐにオレは、左に傾いているキャップ男に己の体をのせ、体重をかけた。
「ぐはっ」
ブルジョワの微かな叫びが奥で聞こえた。
その後、どさささっという鈍い音が続く。
オレが上体を起こして、そっとのぞくと、ブルジョワは奥の手すりに背を打ちつけて倒れていた。その胸には、女の体が五人分のGをかけて、のっている。
機転の勝利だった。
ブルジョワは歯噛みすると、右手で眼鏡を取ってオレを見た。ぞっとするような冷たい目の奥で青い炎がチラチラ揺れている。
「このオレを本気にさせるとは」
ブルジョワは眼鏡を背広の懐にしまうと、身を起こした。
そして、女の体を両手で右へ押して、何とか五人の上体を元に戻した。
そのままブルジョワが右へドミノの計を謀るなら、オレはその前にキャップの肩を押すつもりだった。
――そのときだった。
「え~、もうすぐ~太田町、太田町。太田町を出ますと~次は千木に停車します」
停車になれば、客が目覚めて降りるかもしれない。客が乗り込んで来るかもしれない。
ブルジョワは言った。
「貴様…一時休戦だ!」
そのとき、オレは腕組みをして寝たふりをしていた。
駅に停車するとき、クラッと少し大きい揺れがあった。
「くっ!」
という声が奥から聞こえた。
薄目を開けて奥を見ると、くちゃくちゃの髪の女の頭が再びブルジョワに寄っていた。
電車が太田町に停車した。鉄の自動扉が左右に開く。
誰も動かない。ブルジョワもくちゃくちゃの髪の女の頭を右胸に載せて、顔を左にそむけたまま動かない。
駅のホームにベルの音が鳴り響く。
そして扉が閉まり、電車がゆっくり滑り出した。
オレは目を閉じて、敵の繰り出す左サイドの動きに注意していた。
一分、二分、三分……
どのくらいの時間が経ったろう。五分だろうか、十分だろうか…
微かな空気の震動を左側から感じて、オレは目を開けた。そして左を見る――今まさにブルジョワがくちゃくちゃの髪の女の肩に手をかけており、くちゃくちゃの髪の女の体は右へ傾斜していた。
くちゃくちゃの髪の女の体重で、隣りの男が倒れる。隣りの男の体重で、真ん中の中年女が倒れる…。
ブルジョワがドミノの成功を確信し、くちゃくちゃの髪の女から体を離した。
オレは左のキャップ男に体重をかけた。隣りの初老の男の体が倒れ、ハーフコートの中年女の体の傾きを右から左へと修正する。
そして、中年女の隣りの額の禿げた男の体も左へ傾いた………。
勝負あった。
「ぐはぁ」
奥でまたしてもブルジョワのうめき声が聞こえた。
第五章 心眼
その後、電車は次の駅に停車し、その次の駅でも停車していた。
そして今、列車はまた静かに動き出す。
オレは闇の中、心が無になるよう徹していた。
それは長年、探偵をしている者にしか分からぬ、研ぎ澄まされた自身のプロの勘にゆるぎない自信があったからだ。
……だが一向に攻撃はなかった。
静まり返った車内では、いつ起きるかもしれぬ開戦前の差し迫った空気に満ちていた。その中でオレは奴の微かな息づかいを正確にとらえていた。
……それでも一向に攻撃はなかった。
オレは今、暗い無音の世界にいた。目を閉じて何もない闇の果てに集中すればするほど、奴の動きが自ずと手に取るようにわかる気がしたからだ。
……いつ来るんだ、今か?
オレは目を開けた。だが左サイドに動きはない。ブルジョワの体の上にくちゃくちゃの髪の女の頭はのったままだ。ブルジョワもオレを油断させるためにタヌキ寝入りを続けていた。アホだ。さぞ苦しかろうに。
オレは再び目を閉じる。
しばらくして気配を感じた。目を開けると、ブルジョワがくちゃくちゃの髪の女の体を中立の状態に戻しているところだった。つられて他の客の姿勢もニュートラルな状態に戻った。それ以上傾くようなら押し返さなくてはならない。オレはまっすぐになったキャップ男の右肩に自分の左肩をそっと当てた。
ブルジョワがそんなオレを見て、舌打ちをした。そして奴は腕組みをして目を閉じた。
オレも目を閉じる。
暗黒の中、三分…六分…九分が経過した……。
左サイドからの動きはない。
だが今、奴は迷っている…なぜなら微かに荒くなった奴の息遣いを間近で感じるからだ…いつ終わるとも知れない闇の果てで感じる、この荒ぶる気配。奴はこの後すぐに動くだろう。
オレがそう思ったそのときだった――奴の気配が消えた!
どこだ…どこにいる…感じろ…………
「おい……目を開けろ」
これは奴の声か。こんな近くで!?
「おい」
…いったいどういうことだ。
オレは目を開けた。
目の前ではブルジョワが二本の吊り革に両手でぶら下がり、体を宙に浮かせてオレを見下ろしていた。
何っ、吊り革を使ってこっちまで来たのか。不覚!
どうりで左から気配が消えていたわけだ。
オレは心の動揺を気取られまいと、静かにゆっくりと応じた。
「…何の用だ」
ブルジョワは悠々と高みの見物をしながら言った。でもいやに声が小さかった。
「このオレを本気で怒らせるとはな。貴様のような奴は初めてだ。オレが龍なら貴様は虎よ。そう、オレは今日、貴様という虎に出会った気がする。クックックッ、よかろう。オレと第一ラウンドを戦った度胸は誉めてやる。だが、これ以上オレを怒らせない方がいい」
「き、貴様。何が言いたい…いったい、何しに来たんだ」
すると、ふてぶてしい笑みを浮かべたブルジョワはなぜかいやに小さい声でこう言った。
「お前に果たし状を渡しに来たんだよ…今すぐオレに詫びを入れろ。そうすれば許してやろうという話よ」
「バカなっ。誰が貴様などに」
ブルジョワはいやに小さい声で
「いいんだな。今謝らないと後悔することになるぜ。今度はマジでいくぞ。フッフッフッ」
「かまわんっ」
「いいだろう。では、オレはこの場で貴様にデスマッチを申し込む」
オレの体に雷で撃たれたような衝撃が走り抜けた。
デスマッチ――この意味をオレはたちどころに理解した!それはどちらかがシートの上に起き上がれなくなるまで戦い続ける地獄の死闘ドミノ!それをやるというのか。こ、こいつ正気か。他の乗客の迷惑というものを考えないのか!?
オレは思わず叫んだ。
「な、なんだとうっ!!!」
するとブルジョワは狼狽し始めた。
「う、うわっ。バカ!でかい声出すな、他の奴が目を覚ますじゃんか!」
するとオレの隣りのキャップ青年が眉間にしわを寄せながら「う、う~ん…」とうなった。
「ひいっ!」――ブルジョワは両足を前に折った状態でストライプのスーツの裾をひらめかせながら、トリッキーな動きで吊り革をつたって自分の席へ戻って行った。
キャップ青年の様子がヤバイので、とりあえずオレは寝たふりをする。
しばらくして、脇からすーすーとキャップ男の寝息が聞こえてきた。
オレは目を開けてキャップ男がまた深い眠りに落ちたのを確認すると、体を前にかがめて左奥のブルジョワの様子をうかがった。
ブルジョワは腕組みをして下を向き、タヌキ寝入りをしていた。戦いは膠着状態に陥り、長期戦の様相を呈してきた。
第六章 奇襲警報
さっき電車は駅を一つ通過した。前の座席から客が一人起きて降りて行った。
薄目で様子をうかがうと、ブルジョワはまだタヌキ寝入りをしていた。
オレは気を張ったまま、薄目で正面を見た。外では街灯の下、照らされた住宅地の夜景が流れて行っている。
オレはふと思った。もしここでオレが隣りのキャップ男の肩を押したらどうなるんだろう。そういえば昔、何かのビジネス書で読んだことがある。そこには【リスクを冒した者だけが勝者になれるのです。】という文が載っていた。
オレが会社で負け組人生を送って来たのも組織を変えるような大きなリスクを冒さなかったからではないのか?社長の言いなりになっていたからではないのか?相棒の心に踏み込まなかったオレの消極性ではないのか?
あと一歩、踏み出す勇気。その勇気がないからではないのか。今、オレに必要なのは才能を眠らせている隣りのキャップ男の肩をそっと押してやれるような勇気ではないのか。
オレはキャップ男の右肩に手をかけた。だが、その手が はた と止まる。
だめだ。やっぱりオレには先制攻撃をするなんていう大それた危ない橋は渡れない。オレは法の男だ。
オレは隣りの男の肩にかけていた手を下ろした。
これでいいんだ、これで……。
左奥のブルジョワは安らかに眠ったままだった。
しばらくは何も起こらなそうだな――オレはそう判断した。
ガコォンッ――左側から列車の連結部分にある扉が開く、重たい音がした。
薄目で見ると、入って来たのは古びた灰色の鳥打帽を被ったクマ髭の大男だった。ガタイのいい体の上によれよれの黒のジャンパーを着て、足は汚れたサンダル履きで、どうもホームレスの様だった。
男は扉を閉めると、辺りをうかがうようにキョロキョロしていた。そしてこちらへ歩いて来る。そしてオレの前まで来ると、足を止めた。
ホームレスの男はオレの真向かいに座っているサラリーマンをじっと見つめている。そのサラリーマンは青い紙袋を両手で抱えたまま寝ていた。
男はサラリーマンに近づき、青い紙袋を右手でそっとつかんだ。青い紙袋が徐々に上へと引っ張られていく。袋のしわが伸びて「カサカサッ」という小さい音がした。
泥棒だ…どうにかしなくては……。
だがオレはもう探偵じゃない。それに辞表を出した後、愛用のコルト・ガバメントと三十八式歩兵銃は返却している。今は丸腰だ。
あ…そうだ。いい手を思いついたぞ。
寝相が悪いふりをして、キャップ青年の肩を左へ押し、ブルジョワの方へドミノの波を起こせばいいのだ――オレ、頭いいわ。
このホームレスは物音を立てないように慎重に、慎重に、紙袋を持ち上げている。ならばドミノの倒れる音とブルジョワの悲鳴を聞けば、それに驚き、盗みをあきらめるだろう。
オレはキャップ男の肩に手をかけた。
迷うな!これは目の前の泥棒を撃退するための警報の役割を果たすんだ。言わばこれは人助けのためのドミノ。その動機と結果から考えれば、ブルジョワのやりたがっているエゴ丸出しのデスマッチなどとは雲泥の差。先ほどはリスクを恐れるあまり攻撃のタイミングを失ったオレだが、今度なら殺れそうだ。
だが、オレの手はなぜか震えていた。
まだ迷うか、臆病者め!――オレは自らを叱咤激励し、葛藤を乗り越えようとした。
目の前にいるサラリーマンを救えるのはオレしかいない!!オレのやるのは他人のために行う、人に優しいドミノ倒しなんだーーーー!!
オレはカッと目を見開き、キャップ男の肩を押した――キャップ野郎の体が左へ倒れる。オレは薄目に戻した。
ドサッ、ドサッ、ドサッとドミノは続いて行く。
ホームレスの男はぎょっとして、こっちを見た。だが、予想に反して、男はまたサラリーマンの方へ向き直り、そのまま紙袋を一気に持ち上げた。「ガサササササッ!!」という音がした。
男はそのまま足早に右側へ走り去ろうとした。
だがオレは探偵だった――オレは考えるより早く立ち上がっていた。
そして、男に背中から飛びかかった。
「ドウッ」と音がして、オレと男は車内の床にうつ伏せになって倒れ込んだ。
オレは奴の耳元で小声で言った
「紙袋を離すんだ」
「わ、わかったよ」
オレは男の手から紙袋を受け取ると、素早く辺りを見回す――大丈夫。電車内の人々は眠っており、この出来事には気づいていない。
「行け」
「兄ちゃん、すまねえ、すまねえ。サツに言わないでくれ、なっ」
そう言って男はそそくさと車内右奥へと小走りで走り去った。そして右の連結扉を開けてフェードアウトした。
オレは例のサラリーマンに歩み寄ると、青い紙袋をその膝の上にそっと置いた。
気配がして後ろを振り返ると、いつの間にかドミノ倒しが戻ってきており、今、ハーフコートの中年女の体が初老の男の体を倒そうとしているではないか!――ブルジョワの反撃だ。
だが残念だったなぁ、ブルジョワよ。今オレはそこにはいないんだ。反撃したつもりだろうが、とんだくたびれ損だったな。反撃するなら相手の位置を把握しておけよ。ふふふ、やるだけ無駄のことをして、ホントにご苦労様。
今、初老のチョッキ男の体が倒れ、キャップ青年にぶつかろうとしていた。
待てよ――危ない!
今、このキャップ青年の体が最後まで倒れたら、彼の頭が、横にある銀の手すりにぶつかってしまうのだ。
キャップ青年の体の傾きは四十度くらいになっていた――間に合ってくれ!
オレは青年と手すりの間に両手を広げてダイブした。
オレは乗客たちの下敷きになった。
「ぶごおっ!」
オレは青年を守った。そして銀の手すりを左手でつかみながら徐々に体を押し戻していく。未来ある若い命をここで消させるわけにはいかない。
オレは力を振り絞り、手すりをつかんだまま、素早く青年と手すりの間で体を反転させ、着座した。そして、踏ん張りながら自分の体を左側へ傾け、乗客たちを次々、倒していった。
自分の中にまだこれほどの力があったとは……。
でも、何だかもう疲れた…。
オレは目を閉じた。
よかった……青年が無事で。
「ぐはぁ~」
奥でブルジョワの悲鳴が聞こえた。
―っていうか、ブルジョワ弱っ。何が「オレが龍なら貴様は虎よ」だよ。
第七章 戦士達の休息
ブルジョワがドミノを戻そうとして、汗水たらしながら乗客たちを垂直に立て直し始めた。
オレはその光景を奥で悠々と見物していた。
ドミノは再建された。
車内にアナウンスが響き、電車は荒砂駅に停車した。
オレもブルジョワも戦闘モードから省エネ・タヌキ寝入りモードに切り替わった。
鉄の扉が開く。
オレの向かいの八人席に寝ていたOLが発車ベルで目を覚まし、慌てて降りて行った。そのあと中学生ぐらいの二人の少女が列車に飛び込んで来た。
ベルの音は鳴り続ける。
キャップの青年の隣りに座っていた初老の男とその隣りのハーフコートの女が目覚め、急いで降りて行った。
真ん中の二人が抜けた……つまり、ブルジョワがオレを攻撃しようとドミノを仕掛けても真ん中が抜けているので、不可能ということになったのだ。
鋼の扉は閉まり、電車が動き出した。
「あっ、そこ空いてるよ。座ろ」
「うん」
さっきの中学生二人がこっちへ歩いて来た。
この二人が座ることで、再び席は埋まる。だが、寝さえしなければドミノを起こせない…これで平和が訪れる。
中学生はキャップの青年とその左隣りの、額の禿げ上った、緑のコートを着た中年男の間に座った。
一人はナップザックをしょって、ロングヘアー。服は黒を基としたシックな女子で、もう一人は青いお下げカバンにアクセサリーをたくさんつけ、短い髪を切りそろえた子供っぽい女の子だ。
子供っぽい方はコーンのソフトクリームを持っていた。少しうつむいていた様だ。
シックな方が言った。
「で、何が原因なのー?」
子供っぽい方の声が響く。
「それがね、ひろ子がゲーセンでUFOキャッチャーやってたら、山川が後ろで見てたんだって」
シックな方が訊く。
「それでー?」
「ウサギのぬいぐるみがもう少しで取れそうだったんだけど、そこでコインがつきちゃったんだって。それで、ひろ子は千円札を両替えしようと思って、両替え機に行ったのね」
「うん」
「そうしたら山川がひろ子がいない間にUFOキャッチャーやって、ぬいぐるみ取っちゃったんだってー」
「それでぇー?ひろ子はどうしたのー?」
「それで、ひろ子は最初にゲームやってたのはあたしなんだから、ぬいぐるみを返しなさいって主張したのね」
「山川は?」
「私が先にゲットしたんだから、このぬいぐるみは私の物でしょ、だって」
その山川って奴はとんでもないガキだ。ロクな大人になるまい。
子供っぽい方の声がした。
「ねえ、どっちが正しいと思う?」
シックな方が言った。
「うーん、あたしはひろ子が正しいと思うけどなー。だって先にやってたんでしょー?」
その通りだった。シックはなかなか賢い奴だ。そして見どころのあるガキ。だいたい、ぬいぐるみを先に見つけて手が触れる距離まで近づけたのだから、その雑誌を買えるのは当然オレだ――いや、その雑誌を買えるのはひろ子だ。いや、違う、そのぬいぐるみを手に入れられるのはひろ子だ。変なじじいの邪魔が入らなければの話だが。
「キャー」
子供っぽい方の悲鳴がした。
「な、何。どうしての!?その人…」とシックな方が訊く。
「分からない。いきなり倒れてきた…アイス、ついちゃったよ」
「あっ…やばいよ、それー!」
「と…取れない!何でー?あ、取れた」
オレは寝たふりをつづけた。
「やだ!隣りの人も倒れてる。どうりで重たいよ」と子供っぽい方の声。
「でも、端の人は倒れてないね…」
それじゃあブルジョワが犯人だ。
「ああ…どうしよう。重たぁー」
「誰も見てないね…みんな寝てるよ」
「謝らなくていいかな…」
「ダメだよ、どんな人か分からないよ!寝かせとこ!」
「でもぉ…」
子供っぽい方は弱気である。
「じゃあ…何かお詫びしとこう。それでいいよ」
「そうだね」
二人が立ち上がり、力を合わせて客を元に戻す様な音。ガサゴソと何かをいじるような音…何かビニールをぐしゃぐしゃと丸めて突っ込んだ様な音…。
たっぷり三分はかかって。子供っぽい方の声がした。
「ごめんなさい…」
続いて、シックな方の声。
「さっ、行こっ」
タッタッと前を通る足音がして、ガコンと隣接車両への扉を開ける音、閉める音…。
行った様だ。
オレは薄目を開けて周囲を確認すると、脇から身を乗り出して、中学生が座っていた辺りを見た。
緑のコートの男が両手を下に垂らしてぐったり寝ている………。
目を覆いたくなる様な光景がそこにあった。
男の胸や腰のポケットの中にはアメやガムなどがたくさん詰まってはみ出しており、パンパンに膨らんでキラキラしていた。拭き取らなかったのか、禿げ気味の額の真ん中にはソフトクリームの付着した白い跡が残されていた。
そして、その光景を真犯人が向こうから見ていることにも気づいた――向こうの端からブルジョワが見ていたのだ。
自分のやった行為がこのような犯罪を招いたことに良心の呵責も感じぬのか、驚いた顔はしていたが、オレの咎める視線に気づくと眉間にシワを寄せて顔を引っ込めた。
被害者は目を覚ましたら、さぞ驚くことだろう。
そこで、停車のアナウンスが響いた。
「もうすぐ、双間、双間…双間を出ますと次は厳島に停車します」
電車が徐々にスピードを落としていく…。
ちなみに双間の次の厳島。オレの降りる駅だ!!
微弱な速度になり、電車は停まった。
ガラッと鋼鉄の門扉が二つに割れた。
この辺りはみんな小さい駅なのであまり降りる人も乗る人もいないのが特徴だ。
案の定、OLが一人乗り込んで来ただけだった。遠くの席からは数人降りた様だ。
OLはケータイを操作しながら入って来た。
そして、中学生が座っていた辺りに腰を下ろした様だった。隣りの男がどういう状態で寝ているのかは気づいていない様だ。
ピーッとホームのどこかで笛の音…。
二枚の鉄の扉が閉まる。
列車は動き出し、スピードを上げて行った。
第八章 真夜中のティーム・ワーク
左でパチンッとバッグの口を開け、閉める様な音がする。あのOLがケータイでもしまったのかもしれない。
三分ぐらい経ったろうか…。
スー、スーと左から寝息――これはキャップ男のものではない!
オレはカッと目を開き、左を見た。
OLが眠っている。
さといブルジョワも遠くから顔をのぞかせていた。
オレは前の席を素早く確認した――前の七人は全員寝ている。
ブルジョワはオレを見て、ニヤリと笑った。そして、隣りの髪のクチャクチャの女の肩に手をかけるのが見えた。
オレもキャップ帽の男の肩に左手を置く。
先に仕掛けたのはブルジョワだった――クチャクチャの髪の女が倒れ、隣りの緑のコートの男が倒れかけ始めた。
オレも左手を押した。少し強めに。
キャップ、新参のOL…そこまでだった。
向こうも倒れて来たので、菓子まみれ男と新兵器の女がぶつかることになった。
二人は肩をぶつけ、揺れ、男の方は止まった。
OLの頭は左へ傾斜していく…。
菓子の男の緑のコートと背広は度重なる災難で、グチャグチャに乱れていた。右の胸元は平らにつぶれ、対照的に左の胸元が背広の襟の辺りから穴が開いたようにぽっかり膨らんでいる。
OLの頭はその膨らみの中にすっと、入ってしまった。
林の中で風がやんだようにドミノもそこで止まった…。
オレは頭の中が真っ白になった。
「ひいっ!」
という悲鳴がした。
遠くを見やれば、ブルジョワが両手で口をおさえている。
見知らぬ男と女同士がこんな状態でいるのはまずかろう。
特に男はポケットから菓子があふれそうになっているだけでなく、額に付いたアイスクリームが垂れてきているのであった。
気づいたら大変なことになる。
オレは何とか心を落ち着かせると、立ち上がり、音を立てない速足で、もつれた二人の前へ進んだ。心臓が早鐘のように打っていた。
オレは息を殺して、二人の前に立った。ブルジョワがこちらの様子をうかがっていた。オレは二人の重なる方へ手を伸ばした。
「ウーン…」
菓子まみれの男が苦しそうにうめいた。
オレはあたふたと自分の席まで逃げ戻り、寝たふりをした。
………時が流れた。
オレは目を開き、横を向く。
しばらくしてブルジョワが顔を出し、それと目が合った――ブルジョワはびびったままの顔をしていた。もっともオレもそうだったかもしれない。
さっきのうめき声で、オレにはもう、再び足を踏み出す勇気がなくなっていた。
オレはワラをもつかむ状態だったのかもしれない。
ブルジョワに、そっちからクチャクチャの髪の女の肩を、もう一度押すように身振り手振りで伝えようとした。
まず、くっついた男女を指さし、両手で左右にかき分ける動作を送り(くっついた男女を離したい)、左手の人差し指でブルジョワを指してから(お前が)、両手でキャップ男の肩を押す真似をしたのだ(ドミノで倒せ)。
すると、ブルジョワはぎょっとした顔になり、右手を顔の前でバタバタ振って否定してきた。そして、オレを指さして、両手で押すように伝えてくる。
OLの頭が左に座る男の背広に入っているのだから、左から押さねば取れぬはずなのだが。
オレは、そっちから押すように強い調子で(自らの顔の筋肉の動きを交えて)手振りで伝えた。
すると、ブルジョワは奥へ顔を引っ込めてしまった。
オレは軽く舌打ちして、上半身を引っ込めることにした。そのとき、お菓子の男のネクタイにOLの口紅の跡が付いているのを見つけてしまい、思わず「ひぃ!」と悲鳴を上げてしまった。おそらく傾いたときに付いたのだ――家に帰って、追及されなきゃいいが――いや、その前に気づいて落とすか…。
オレは目を閉じて寝たふりを決め込んだ。
………しばらくして、ドシャッという音がしてオレは起きた。
そっと横を見ると、背広の中にあったOLの頭が抜けて、キャップの男のひざの上にのり、その上にお菓子の男の体が覆いかぶさっていた…。
端を見ると、ブルジョワは寝たふりをしている。
しかし、その隣りの二人はさっき見たときより明らかに大きく右に傾いていた。
オレは小声で
「おい!おい!」
とブルジョワに呼びかけた。
ブルジョワは目を開けた。そして、ワザとらしく首をキョロキョロさせて、周囲を見回し、また寝たふりを決め込む。
所詮、悪辣な資本家の性根はこんなものだ。
末端の者が苦しんでいても見ぬふりである。
そして失敗の尻ぬぐいは部下がやるのだ。
オレはそんな組織が嫌になったのだ…。
次は厳島。オレの降りる駅だ。
何とかこのまま、ごまかせないこともない…。
ごまかす…それは会社での、オレの得意技でもあった…。
オレはそっと立ち上がった。
そして、二人のそばまで行き、緑のコートの男の肩を両手でつかんで、上体を起こし始めた。
重たかった。冷や汗が背筋をつたった。
なかなか持ち上がらない。
強引にやれば起きてしまうかもしれないので、静かにゆっくりやるしかなかった。
しばらく苦闘が続いた…。
隣りで気配がして、急に軽くなった。
ハッとして横を見ると、ブルジョワが緑のコートの上腕を持っていた。
ブルジョワはオレの顔を見て、ニヤリとして言った。
「よう。行くぞ」
「…そっちは任せたぞ」
オレとブルジョワは二人でコートの男の体を元の位置に戻した。
続いてOLの体も。
オレは言った。
「目を覚まさないように気をつけろ」
「分かってる」
何とか大丈夫だった…。
OLの服にアイスのシミが付いていたが、胸の微妙な位置にあったので拭き取ることはスルーされた。
男のおでこをオレがハンカチで拭こうとすると、停車のアナウンスが流れだした。
同時に減速が始まる。
「ウ~~ン」
お菓子の男がうめくと、上半身を動かした。
OLも「ン~~」とうめき出す。
オレとブルジョワは男の「ウ~~ン」のウの字が出たとたんに自分の席へ向かって走っていた。
そしてオレは目を閉じた……。
「ウ……何だ?…ん!?うわっ、えっ!?何だ、こりゃつ!」
「ん…何よ…終点?……ん?このシミは…」
「ああ!ひ、額が寒い…ひゃあー!何だ、これは!」
電車がホームへ滑り込んで停車した。
扉が開く。
すると、ブルジョワが黒カバンを抱えるようにしながらホームへ飛び出して行ったのが見えた。
オレも慌てて網棚からカバンを取ると、ホームへ走った。
夜のプラットホームに二人の足音が響く。
第九章 月明かりのロード
オレは住宅街の路上で、両ひざに両手をつけてうつむいていた。
遅いせいか辺りに人影はない。
ゼェゼェと荒い息を吐きながら呼吸が落ち着くのを待つ。
駅の階段を駆け下りて、コンビニの脇を走り、並木の続く歩道に来ていた。
見上げれば、秋の夜空に星が瞬いてる。オレはしばらく星を眺めて過ごした。
どこかで虫の鳴き声が聞こえていた。
これから家に戻るとなると気が重い。仕事を辞めたことを女房に言わなければならない。家の中で新たなバトルが起きることが予感された。
右の木立ちからガサッと音がした。
ハッとして顔を上げると…。
木の後ろからブルジョワが出て来た。
「よう」
オレはほっと息をつき、ひざに両手をついたまま、答えた。
「何だ、あんたかよ…」
一瞬、アイスの付いた男と服にシミの付いた女がここまで追って来たのかと思ったのだ。
ブルジョワはそんなオレを見透かしたかのように言った。
「お休み中のところ、悪いな。大丈夫だ。誰も追いかけて来てはいない」
「そうか…」
「危なかったな」
ブルジョワは背広の右ポケットからシルバーのライターとタバコの箱を取り出すと一本くわえた。
「一本、どうだ」
そう言ってブルジョワはタバコの箱をオレの方へ差し出した。
「…ああ」
オレは箱の中からタバコを一本取る。
オレが口にくわえると、ブルジョワはライターを近づける。オレのタバコに赤い火が灯った。その後、ブルジョワは自分のにも点火して、言った。
「あんなに走ったのは高校の体育祭以来だったよ」
「ああ…オレもさっき、必死で走った」
「必死でか…フフ」
しばらく沈黙が流れた。虫の音が辺りに響いていて、遠くでコンビニの明かりがあたたかく灯っているのが見える。ひんやりした夜の空気が、運動した後の体に心地よかった。
暗がりの中、ブルジョワがそっと言った。
「あんた、家は」
「…オレはこの辺なんだ」
ブルジョワは少し高い声になって
「そうか、実はオレもだよ」
「へえ…」
「…何の仕事やってるの」
「探偵社にいた…今日辞めたけど」
「エッ…そうか…」
ブルジョワがフーッと煙を吹いた。そして言った。
「オレはこう見えても一国一城の主だ」
やはり、ブルジョワの出だったのだ。
「そうだと思っていたよ」
「ほう?…何で」
「何だろうな……雰囲気かな、貫禄かな…」
「分かるもんなんだな……」
立ち尽くしているオレ達のそばを通行人が通り過ぎて行った。
ブルジョワはオレの顔を見ずに、遠くを見ながら言った。
「どうだ、あんた…何かの縁だ。うちの会社に来ないか。今、管理職のポストが一つ空いていてさ。実はあんたみたいな骨のある人材を探していたんだ」
オレが驚いてブルジョワを見る。
ブルジョワは遠くを見つめながらタバコをふかしている。
「うちの会社はそれなりの規模もある。待遇も悪い方じゃないと思うが」
「……そうか。ありがたい話だが、少し考えさせてくれないか」
するとブルジョワは懐のポケットから名刺を一枚出すと、オレの右手に握らせた。
意外にあたたかい手だった。
「気が向いたら電話を」
「ああ……」
「じゃあな……」
背を見せて歩き去って行くブルジョワ。
オレは名刺を見た。
暗かったが、太字は読める。代表取締役だ。総合商社で九条達雄という名前だった。聞いたことがある。オレはブルジョワが、前にビジネス雑誌で見た顔だったことを思い出した。最初に見たとき、奴を一発でブルジョワと直感したのも潜在記憶にあったからかもしれない。
オレは名刺を背広の内ポケに、そっとしまった。
そして、右の横断歩道を渡り、住宅地の路地を進む。
少し急ぎながら。
背広のポケットで何かが震えた。オレはケータイを入れっぱなしだったことに気づく。
液晶画面には「着信・秀子」と出ていた。女房だ。
帰りがいつもより遅いから心配してくれたのかもしれない。
宙を見上げると、夜空には満月が明るく輝いている。
秋の夜の冷たい空気の中、木の下から夜露で濡れた草花が生えているのを見つけた。
もう過去を振り返る必要もない。
オレの行く手の暗い道の先には月の光が優しく照っていた。
(終わり)
この小説は今から十六年ぐらい前に書いたものを少し加工したものです。
人との出会いは宿命である。
「オレ」とブルジョワもそうだったのではないでしょうか。
この物語は、平社員のオレと社長のブルジョワ。二人の喧嘩が、立場の違いから加速され、最後は和解へ向かうことで終わりを告げます
二人のように良き出会いをみなさんにお祈りします。
ここまで読んでくれてありがとうございました。