プロローグ
◇◆◇◆
●月×日
「みんなー。席について下さーい」
三尾の狐である蜜緒先生が教室のドアを開けて入ってきた。毛艶のいい尻尾が機嫌良く揺れているが、それ以外は人型をとっている。
僕達が通うこの学園は、人外の者として生まれた子供らのために作られた。そしてそのうち幾人かが併設している人外のいわゆる政府機関にあたる元老院へ就職口を得る。元老院の仕事では人と接することも少なくないため、こうして本性ではなく先生も生徒も皆人型をとることが義務付けられているのだ。
そして、そんな規則を多少守れていない姿になってしまっている蜜緒先生が中に入るまで気づかなかったけれど、皆と同じように人型をとった小さな女の子が下を向いて後に続いていた。
「せんせー、そのこ、だれー?」
クラスの中でも色んな意味で目立つ羅刹鳥ツインズのうちの一匹がその女の子の方へ指を差し向けた。すかさず蜜緒先生から指を差さないとお叱りが飛ぶ。
当然だ。昨日習ったばかりだっていうのに、なにやってんだ鳥頭。
内心呆れ返っていると、蜜緒先生による彼女の紹介が始まっていた。
「今日からお試しでこの学び舎に通うようになった澪さんです。元は人間ですが、今はこちらで暮らしています。みんなで仲良くしましょうね」
「「はーい」」
途中からクラスに誰かが入ってくるっていうのは珍しいから、ほとんど皆、彼女に興味津々だ。先生に言われなくても休み時間には彼女の周りを大勢で取り囲むことになるだろう。
「じゃあ、席は……丁度白蓮くんの隣のスペースが空いてるわね。そこで良いかしら?」
「……」
「僕は別に良いですよ」
彼女がどうしていいか分からず首を傾げるだけだったので、代わりに答えてやった。今までは左隣、一番後ろの窓際の端が空いていたけれど、今日からそこが彼女の席になるというわけだ。
「よろしく」
「……よろしく……お願いします」
隣に椅子と机が運ばれてきて、彼女が席に着くと同時に挨拶した。教卓の前ではお辞儀をするだけで分からなかった声は、鈴が鳴るようなか細いものだった。
まぁ、担任からの言いつけだし、面倒に思わない程度に世話をしようとぼんやりと彼女の方を見ていると、前の席に座っていた狼男のヤンが椅子ごと振り向いてきた。
「こいつ、このクラスのボスだから、何かあったらこいつに相談すれば良いぜ」
「学級委員だ、バカ。嘘を教えるな」
「ちぇー! 嘘じゃねぇってのに」
「バカってところは否定しないんだ」
「おぅ。自分がバカだってことは分かってるし、こいつより頭良い奴見たことないからな」
ヤンの隣に座っている妖精のオフィーリアが、クスクスと笑い声をあげた。
ヤンは悪いヤツではないけど、バカだ。筋金入りの。でも、底抜けに明るいから憎めない。気分が落ち込んでしまったりした時でも、こいつを見てると悩んだりしてる自分が馬鹿らしくなるほどに。
……まぁ、それ以上にうるさいって思って手を出すことが多いから気分がまぎれるっていうのが本当のところだけど。
「騒がしいだろ? 入るクラスが悪かったって諦めてくれ」
「……ううん。楽しい」
それまで僕達のやり取りを黙って聞いていた彼女は口角をやや上に上げた。
「はいはーい。みんな、授業始めますよー」
「「えー」」
「十秒以内に席につかない子には宿題いっぱい出しちゃいますからねー」
「やだー!」
「いそげー!」
席が近いヤンやオフィーリア以外の奴らも話がしたそうに席を立ってこちらに来る機会をうかがっていたので、本当に丁度良かった。休み時間でもないのに、周りが動物園になるのはごめん被る。
蜘蛛の子を散らすように皆、自分の席へ走り去っていった。
結局宿題を増やされたヤツはいなかったけど、かといって減らされたわけでもないのは言うまでもない。
◆◇◆◇
「……はい。今日はここまで。みんな気をつけて帰ってね」
「「はーい」」
一日の授業が全て終わり、皆の待ち望んだ放課後が訪れた。
休み時間ごとに訪れるクラスの奴らや他のクラスからの野次馬を程々に散らすのに、今日一日だけでもとても骨が折れた。これは担任に後で報酬を要求してもいいだろう。きちんとした労働に見合った対価だから、誰にも文句は言わせるものか。
一人、二人と彼女の周りに残っていた奴らも皆連れだって帰っていった。
教室に残っているのは、窓際に立ってジッと校庭の方を見下ろしている彼女と、僕だけ。学級日誌という学級委員がつけることになっている日誌を書いている僕とは違い、彼女が授業が終わっても残らなきゃいけない理由はない。
これが終わってもまだ残っているようであれば声をかけるべきだろうか。そう考え始めていたとき―。
「お待たせ、澪ちゃん」
「……あっ! 奏!」
フッと廊下側から誰かが人外専用の通路を繋げた気配がして、そちらを振り返ってみて驚いた。この学園に併設されている元老院に所属する女傑、鬼の奏様が仕事着の白衣姿のままで立っていた。急いでいたのか白皙の容貌に僅かに朱が走っている。
その奏様に彼女は大はしゃぎで駆け寄り、抱きついた。
「初めての学校は楽しかった?」
「ん」
さっきまでは全くと言っていいほど見せなかった満面の笑みを浮かべ、奏様の一言一言にコクコクと頷いている。
「あのね……」
「……そう。良かったわね」
奏様の服を引っ張ってしゃがませ、耳打ちした彼女と奏様の二人の視線が一斉にこちらに飛んでくる。
それから奏様にチョイチョイと手招きされた。教室の中にはもう僕しかいない。ということは、僕を呼んでいるということは明らかだ。
僕は書きかけの日誌をそのままに廊下にいる彼女達の元へと歩み寄った。
「なんですか?」
「色々と大変だと思うけど、よろしくね」
万物を知ると言われる白澤である僕ですら知らなかったことがまた一つ増えた。人間嫌いで知られる奏様の懐深くまで潜り込める目の前の彼女のことだ。どうやら込み入った事情を持つ、いわば訳アリらしい。
「分かりました。その代わりと言ってはなんなんですけど」
「なに?」
奏様が軽く小首を傾げた。丁寧に手入れされているだろう結った黒髪がサラリと肩から零れた。
「今度、元老院の中を見学してもいいですか?」
「なんだ、そんなこと。お安い御用よ。いつでもいらっしゃい」
「ありがとうございます」
よしっ!
一度、将来自分が働くことになるかもしれない元老院の内部を見てみたいと思っていた。けれど、年中人手不足だと聞いているのであまり無理は言えない。
ただ、これが正当な対価なら話は別だ。
六つに分けられた部署のうち、医療を司る部署の副官代理を務める程の実力者の手引きなら手続きも簡単にすむに違いない。
担任に要求する対価とは別に、思いがけぬチャンスも掴めたことで、今の気分はいつになく良い。心の中とはいえ柄にもなくガッツポーズまでしてしまった。
そんな僕の心の内などお見通しとでも言うかのように、奏様が僕の方を目を細めて見てきた。
「それじゃあ、私達はもう行くわね」
「はい。さよなら。君も、また明日」
「……また明日」
彼女は奏様の後ろに隠れながらも、はにかむように笑って手を振った。
なんだ。感情があまりない子なのかと思ってたけど、そうではないらしい。ただ絶賛人見知り中だっただけみたいだ。
僕は二人に手を振り、席に戻って日誌の続きを書いた。
『転入生は人見知りをする。だけど、笑うと……』
最後の一文だけは、消しゴムで跡が残らないようにしっかりと消して証拠隠滅を図った。