序章
「お前なんて嫌いだ」
冷たく、放たれた言葉に少女は笑みをこぼす。
「そっか」
少女の返事に少年は眉を顰めた。
(なんなんだよ)
少年は、冷たい視線を少女に向けているが、彼女はにっこりとこちらを見返して来る。
少年は、少女の視線から逃れるように、顔を背けた。
「おれ、あんたのこと許さないから。おれから、神の子っていう役目を取り上げたあんたを絶対許さない」
拳を握りしめ、少年は呟く。
自分は、この国のために生き、この国を守る
それが、使命だ。
なのに、この女と結婚しろ?
冗談ではない。そんなもののために今まで力を磨いてきたわけではない。
(おれは、兄さんのようになるんだ)
英雄と呼ばれている兄
彼のようになるのが少年の夢。
「おれは絶対に結婚なんてしない。何が皇女命令だ。人の人生を潰しておいて。お前なんて、絶対好きにならない。
おれは、あんたを殺したいほど憎んでる」
無意識に出た言葉に少年はハッとした。
いくら嫌いな相手だからといって酷いことを言ってしまった。
少年は、恐る恐る顔を上げると、悲しそうに微笑む少女と目があった。
その顔が、あまりにも儚くて少年は何か言葉を紡ごうとするがそれは少女によって遮られる。
「そうね。あなたには私を憎む権利があるわ」
悲しげに揺れる菫色の瞳に少年は耐えきれずにその場から走り出した。
早く、少女の前から逃げ出したくて必死に走る。
(違う、おれは悪くないっ)
まるで剣に刺されたように痛むこの胸は、きっと走っているから。
罪悪感からではない。
少年が走り去った方を見つめ少女は呟く。
「あなたが私を憎んでも、嫌っても構わない。私は・・・」
小さい声で呟かれた言葉は、風にかき消された。
◆◇◆
ガイア王国。
女神が治めていたと伝えられているこの国。
世界の半分の領土を持っており、世界最強の国と諸外国には恐れられている。
そのため、争いも少なく国全体が貧困などに陥ることもなく、安定した情勢を保っていた。
国民たちは、信じていた。
これも、女神の力を受け継ぐ女王のおかげだと。
女王がいれば、この国の安寧は続くそう誰もが信じている。
そう自分自身も。
レオナルドは、城の中にある軍の作戦室の窓から活気のある城下を見下ろしていた。
楽しそうに駆け巡る子ども
大声で呼び込みをする店の亭主
ここから、見える人はみんなが幸せそうでレオナルドは嬉しくなると同時に歯がゆく感じる。
「くそ・・・っ」
窓を拳で殴りつけた。強くやりすぎたのか痛みを感じたがそれよりも苛立ちの方が強い。
それでも沸々とこみ上げて来る感情にもう一度窓を殴りつけようとしたが、背後から視線を感じてレオナルドは握っていた拳を下ろした。
そして、振り向けばこの部屋の主であるセラスが呆れたようにレオナルドを見ていた。
「まったく、物に当たるなといつも言っているのに」
「うるさい」
苛立ちを隠さずに言い返すレオナルドにセラスは苦笑を溢す。
「で、何の用?」
レオナルドのことを呼びつけておいて、用件を言わないセラスに問いかければ、彼は手に持っていた書類に目を落とし眉を寄せた。
その表情に、レオナルドは心の中で舌打ちをする。
セラスがこんな顔をするのは、あの女のことでだけ。
「レオナルド、最近アリシア様と会っているかい?」
セラスの口から出されたアリシアという名前にレオナルドの黄金色の瞳に冷たい影が落ちる。
脳裏に浮かぶのは、人形のように整った顔は、常に作り笑いを浮かべ
この国の姫であり、未来の女王。
女王の次に尊いと言われ、国民から慕われている。レオナルドがこの世で一番大っ嫌いなアリシアだった。
「で、どうなの? レオナルド」
答えないレオナルドに再度問いかけるセラス。
答えなんて分かっているはずなのに、わざわざレオナルドの口から言わせよする。
レオナルドは、口元に笑みを浮かべ鬼のような目でセラスを睨みつけた。
「会ってない」
氷のような冷たい声。もしこの場に彼ら以外の人間がいたら間違いなく、レオナルドの憎しみに飲まれ耐え切れないだろう。
それほどまでに、彼から出ているものは鋭く深かった。
しかし、幼馴染みであるセラスはレオナルドのこの様子に慣れており、呆れたように溜め息を零すだけだった。
「はぁ・・・、君がアリシア様に対して好意を抱いていないことは分かるけど、仮にも君は彼女の夫なんだよ? 少しは・・・」
「好きでなったんじゃないっ!!!」
バンッと壁を叩く音がセラスの言葉を遮った。
レオナルドが近くの壁を殴ったのだろう。壁の一部が崩れている。
「俺は、俺は、好きであの女と結婚したんじゃない……」
破片で手を切ったのか、ポタポタと血が流れていた。
それは、まるで溢れ出す涙のようだとレオナルドは頭の片隅で思った。
あの時に枯れてしまった涙だと。
レオナルドは頭の中で再生されそうになる記憶に唇を思いっきり噛んだ。
思い出したくない、あの日のこと。
思い出したくない、あの日のあの絶望を
辛そうに顔を歪めていれば、いつの間にか目の前に来ていたセラスに怪我をした手を取られる
溢れ出す赤い液体にセラスは持っていたハンカチを巻きつけた。
「とりあえずの応急処置だ。後で医務班のやつに見てもらえよ」
「ああ」
それ以上何も言わないセラスにレオナルドは頭を下げ、部屋を出た。
最後まで自分を見ていたセラスの瞳は、同情とそして呆れを宿していた。
まるで、もう許してやれと言われているようでレオナルドは、炎のように燃え上がる怒りに目の前が真っ赤に染まる。
「誰にも俺の気持ちなんて、分かるはずがない」
そう、誰も理解できるはずがない。レオナルドのこの憎しみと絶望なんて。
唇を噛み締め、湧き出る感情を抑え付けていれば、誰かがこちらに近づいている気配を感じた。
レオナルドは、深く深呼吸を繰り返し笑顔を貼り付けて振り返る。
後ろにいたのは、騎士団にいるメイドだった。
彼女は、レオナルドの笑顔に頬を赤く染める。
「もしかして、セラスに何か用かな?」
優しく問いかければ、レオナルドに見とれていたメイドが慌てて首を振った。
「いえ! そうではなくて……」
ちらちらとこちらを伺う視線の意味にレオナルドは、笑みを深めた。
胸に湧き出るこの感情をかき消すにはちょうどいい。
メイドの細い腰を抱き寄せて、レオナルドは耳元で甘く囁く。
メイドが潤んだ瞳に宿る熱にレオナルドは、近くにある空き部屋に彼女を連れ込んだ。
「……っ……ん」
暗い部屋でお互いの荒い息遣いと唾液の混ざり合う音が響いていた。
「ん……っ、レオ、ナルド・・・様っ」
うっとりとした顔でレオナルドを見つめる名前も知らない女。
官能的な身体は、普通の男ならひとたまりもなく冷静さを失うだろう。
しかし、レオナルドは違った。女を攻め立て快楽に沈めた。
自分に縋り、欲しいと言う女にレオナルドは嫌悪感すら抱く。
それでも、反応する自分の熱を女にひたすらぶつけた。
甲高い声を上げる女に自分の身体の熱に反して冷めていく心。
それでも、レオナルドは振り切るように熱に身を任せた。
「レオナルド」
自分の名を呼んで、咲き誇る花のような笑顔を浮かべる幼い頃のアリシアを振り切るように。
あの後、ぐったりとした女を置いてレオナルドは聖騎士団の副団長の部屋に戻った。
兄であるリュークに大量に書類を渡されていたのだ。
―書類仕事なので、俺でなくてもできるのに。
不満はあったが、レオナルドが尊敬する兄からの命令に逆らう気は全くなくて。
少しでも、早く終わらせたくて早足で部屋に行けば待ち構えていたのは、レオナルドの部下たち。
レオナルドが入ってきたのに気付いた彼らは、胡散臭い笑みを浮かべ、書状をレオナルドに渡した。
その時、嫌な予感がしたのだ。
そして、セラスの顔が頭に思い浮かんだ。
絶対見ない方がいい、そうレオナルドの直感が告げた。
しかし、流石はレオナルドの部下たちだ。
彼が逃げ出さないように既にレオナルドの周りを包囲している。
さぁ、さぁ! 早く見てください!!
無言でそう訴える彼らにレオナルドは逃れられないことを悟り、おそるおそる書状に書かれている文字を目で追った。
そして読み進めていくうちに、レオナルドの顔がどんどん険しくなっていく。
書状を持つ手に力が入って、紙に皺がついた。
その光景に部下たちは、どんどんレオナルドの側から離れるように外に出ていった。
「セラス」
読み終わり顔を上げたレオナルドは鬼のような形相だった。
ぐしゃり、と足元にそれが落ちる。
睨みつけるように周りを見れば誰1人そこにはいない。
流石は自分の部下たちだ。危険を感知して逃げた。
「くそったれ!!!!」
足元に落ちていた書状を思いっきり踏みつけた。何度かやると、白い紙の上に靴跡がつく。
それでも、そこに書かれている文字が消えることはなく。
レオナルドは、最後に思いっきりセラスのサインが入った部分に靴を押し付けて部屋を出た。
絶対、許さないからな。
明日、朝一番で殴りにいってやる。
そう心に決めて、レオナルドは荒々しい足音を立てながら騎士団を後にした。
「気が重い」
レオナルドは、もう一度だけ深くため息をついた。
2週間ぶりにここに来た。いや、帰って来たのか。
この国の建物の中で、女王が住んでいる城の次に大きい屋敷。
中も、無駄に豪華で基本的にアリシアの好きな白色で統一されている。
そしてここはアリシアと夫であるレオナルドの屋敷なのだ。
アリシアとの結婚を認めていないレオナルドは、全くというほどここには帰ってこない。
だいたいは、騎士団で寝泊まりするか女の家に泊まっている。
そして、その行動に、呆れ返ったセラスが上官命令をだした。
上官命令が絶対の騎士団では、彼に逆らえない。
――いつか、セラスより偉くなってやる。
レオナルドは鉛のような重い足を引きずるように屋敷に入る。
エントランスから既に香る花の匂いに彼の胸が締め付けられた。
「嫌いだ。この香り」
レオナルドがポツリと呟いた。
甘い花の匂いは、アリシアが好きなもの
ここはアリシアのために出来ている。
だからこそ、アリシアの存在を深く感じてしまう場所だった。
だから、ここには帰りたくないのだ。
昔の気持ちに引っ張られそうになるから。
胸から込み上げて来る思いからか逃げるようにエントランスの側の階段を駆け上がった。
せめて、せめてアリシアには会わないで済めばいい。
そんな願いを何度も頭で唱えたが、それが聞き届けられるわけもない。
「レオナルド」
鈴を転がすような澄んだ声にレオナルドは息が止まりそうになる。振り向いたら駄目だ。
「帰ってきてたのね。夕食は食べた? まだなら、一緒に食べない?」
無邪気に夕食に誘うアリシアが憎いと思った。
あんなことをしておいて、昔のように接するアリシアに怒りが湧いて来る。感情がぐちゃぐちゃになって自分でも予想できないことをしてしまいそうになる。レオナルドは、己の薄い唇を思いっきり噛んでなんとか冷静を保とうとした。
「お前と食事するぐらいなら、飢えた方がましだ」
怒りのせいで、震えた声になった。
それでもきっぱり断りそのまま足を動かそうとしたが、耳に届いた笑い声にレオナルドは思わずアリシアがいる方に振り向いてしまう。
淡い月の光のような白銀の髪
澄んだ大きな菫色の瞳
足跡がついていない真っ白な雪を連想させる肌は汚れを知らない無垢なもの。
それがひどくレオナルドの征服欲を煽る。
久々にみるアリシアは、やはり美しく。
鼓動が早くなるのがレオナルド自身分かった。
「レオナルド?」
思わず見惚れていれば、アリシアに名前を呼ばれ慌てて視線を逸らす。
甘い花の匂いが鼻腔に広がる。それは、まるで毒のようでレオナルドの身体の自由を奪った。
「どこか体調でも、悪いの?」
視界の端で、アリシアの細い指が自分の額に触れようとしているのが映った。
ーその手を引っ張って、引き寄せて抱きしめて……
「……っ、触るなっ!!」
自分の想いを振り切るように力一杯アリシアを突き飛ばした。ドサッ、という音が耳に届く。
悲しみを宿した瞳で自分を見るアリシアに罪悪感が湧き出てきたが、それを振り切るようにレオナルドはアリシアに背中を向け走り出した。
そして、自室に滑りこむように入り、綺麗に整えられていた寝台に倒れこんだ。
瞼の裏に写るアリシアを打ち消すように、そのまま瞳を閉じる。
アリシアは、レオナルドから全てを取り上げた。
自分が生きる意味を
誇りを
そんな彼女が憎くて、憎くてたまらないはずなのに
どうして、まだこんな感情が胸にあるのだろう。
一層、あの時の記憶が消えてしまえばいい。
そうすれば、レオナルドはこんなにも苦しまなくてすむ。
ただ、アリシアを憎んで、恨んでいられるのに。
——なんで、忘れられないのだろう。
レオナルドは、熱くなった目の奥を押さえつけるように腕を置いた。
「アリシア……」
無意識に呟いた彼女の名前
「くそっ……俺は」
言葉は続かなかった。
真っ暗な部屋の中で淡い月明かりがレオナルドを包み込んだ。
それは、まるで幼い頃のアリシアのようで
レオナルドの頬を熱いモノが伝った