2. 思わぬ来客のようね
夢と現実を見分ける方法はあるのだろうか。
世間でよく言われるのは、五感のうちのどれかを刺激すればいいという方法だ。
しかし、実際にそんな方法を使う人はどれくらい居るのだろうか。
そもそも見分ける方法を意識できていている時点で、もうそれは夢の中での役割を失っている。これは、疑いようもなく現実だと思っていた世界が、夢であってほしい! または、夢ではないだろうか? と感じたときに使用できる方法である。そして、前者はやり損の可能性が高く非常にリスキーだという理由で、その使用目的はおおよそ後者が多い。
だとすると、現実世界を揺るがす夢という概念が目の前に出現したとき、その存在を確認しようと五感を刺激するのは、まさに当然のことではないだろうか。
黒髪美少女が異世界の存在を肯定する。この信じ難い状況を理解するには、まずそうすべきではないだろうか。
八彦は頬をつねった。
「……いってぇ」
そう、ただ痛いだけだった。何も変わらない。紛れもなく現実である。
あの階段での会話以後、八彦はその変わった先輩の言うことが気になって仕方がなかった。なにせ、詳しい話は明日の放課後、なんて言うもんだからしょうがない。そして、心の整理がつかないまま、しぶしぶ家に帰って来たという次第である。
八彦は自室のベットで仰向けになりながら、突きつけられた現実を噛みしめる。
「何やってんだ、俺」
つねった手をだらりとベットから下げ、八彦は白い天井を見る。
電気をつけていないせいか、窓から照らす月明かりが八彦の無表情な顔をいっそう際立たせた。
ふと部屋の時計に目をやると、針は七時を指していた。
「あぁ ……もうこんな時間か。久々に立ち話をすると、こうも時間というものを早く感じるのか」
八彦は関心しつつ、いや、と続ける。
「それはないな。ただ……今日は考えすぎて疲れただけだな。きっとそうだ」
そう呟き、八彦はベットから上半身を起こす。
とりあえず、この疲れ切った体……否、精神を癒すために、まずは風呂にでも入ろうと八彦が考えたときだった。
「お兄ちゃーん!」
他でもない妹、朱賀菜由里の声が二階の廊下に響く。位置的に、もうそれは八彦の部屋の前からである。
八彦はドアの方に目を向け、なんだ、と言った。
「ちょっと入るよー」
そう言い、八彦の妹、もとい菜由里は、堂々と部屋のドアを開けた。
「あのさー。峠野美吠呂さんっていう変わった名前の人が、お兄ちゃんに会いたい、て言って家に来てるよ」
まず、八彦は部屋に許可なくずがずがと入ってきた妹を叱るはずだった。
しかし、その妹の口から発せられた一言はまるで火矢の如く、八彦を恐怖という感情で貫いた。なぜなら、美吠呂というその少女に、八彦は自分の家の場所など教えた覚えがないからだ。ほんの二時間前に、知り合ったばかりなのである。つまり、なぜその少女は家を知っているのか、という単純な疑問が芽生えたのであった。
「あれ ……どうしたのお兄ちゃん? 顔色が悪いよ」
「気にするな。いつものことだ」
「そっかー。あ! あと、その人もお兄ちゃんと同じ高校だったから、別に怪しむ必要もないかなと思って、家に入れておいたから」
「何をしている妹よ!!」
八彦は必死にそう叫んだ。それとは裏腹に、菜由里はきょとんとしている。
「何をしているって……だって、お兄ちゃんの知り合いなんでしょ? 外で待たせるのも可哀想だし、家に入れるくらい許してよ」
この善良なる妹に罪はない。これは八彦の都合であって、菜由里は一般的に親切な対応をしたにすぎない。
八彦は、出来過ぎた妹をもったことを、十五年越しに後悔した。
「ああ、そうだな。……すまない妹よ」
「その、妹よって言い方気持ち悪いからやめて」
「……悪かった」
「謝ってばっかいないで、待たせてるんだから早く動いてよ。……あと、なんでまだ制服なの?」
八彦は菜由里にそう言われ、初めて自分が制服のままだと気がついた。
家に帰ってくるなり、着替えもせずベットに横になったのだろう。それだけ考え込んでいたのだ。
菜由里はドアノブを握ったまま、八彦を不思議そうに見ている。
「別にいいだろ。兄ちゃんにだって服を選ぶ権利はあるはずだ」
「そうだけど、だらしない兄だと思われたくない妹の気持ちを、少しは理解してよ」
「というと?」
「向こうは私服なの! だから、帰ってきてまだ制服でいるようなあられもない姿を見せる前に、せめて着替えてから会って、とお願いしているんだよ、お兄ちゃん」
最後の『お兄ちゃん』は、もはや強制しているようだった。そして、若干の苛立ちも含まれている。
故に、これは危険信号だ。
妹を怒らせると鬼よりも恐ろしいことを、八彦は知っている。
焦った八彦は早口に、言った。
「分かった! 分かったからとりあえず峠野さんにはもう少し待ってもらうように言ってくれ!」
菜由里はしばらく疑うような目線を八彦に向けた後、仕方ない頼まれてやるか、といった具体のため息を一つ吐く。
「早くしてよね……」
と、菜由里が呟き、ドアを閉めようとした時だった。
「その必要はないわ」
突然、空気が張り詰める。
その場にいた全員が、どきっとした。といっても二人しかいないのだが、少なくとも八彦にとってその声は聞き覚えのあるものだった。
八彦がドアの先をじっと見つめると同時に、菜由里が素早く後ろを振り向いた。
「ひいっ!!」
どこか昭和じみた効果音をあげながら、菜由里はその場に倒れてしまった。
無理もない。
廊下は消灯され、ほとんど暗闇である。その中から、まるで背後霊のように登場されるのは、たまったもんじゃないだろう。
八彦の視線の先にいたのは、真っ白なワンピースを着た黒髪の少女だった。つまり、私服姿の峠野美吠呂である。その姿は、誰もがねらったとしか思えないほど完璧に幽霊だった。
暗闇の中で倒れる妹、静かに佇む幽霊。
八彦は、とんでもない場面を目撃した気分になった。
「リビングで待っていてと言われたのだけれど、私はなにぶん短気なものでね。二階が騒がしいので気になって来てみたら、妹さんを驚かせてしまったようね……」
その見た目幽霊は、冷静に状況を解説する。
かと思うと、白いワンピースを揺らしてしゃがみ込み、倒れた菜由里の頬を、つんつん、と指で突き始めた。
どうやら、何かを確認しているらしい。
「おや、なんてことかしら……。妹さんは気絶しているみたいね」
どこかわざとらしい口調だった。
こうなることをねらっていたのか? いや、こうなることを予想できていたのか。だとしたらきみが悪いが、あまり積極的に考えることでもない。
八彦は三人の間に漂う空気を変えようと、口を開く。
「あ、あのー……峠野先輩」
「美吠呂でいいわ。君から先輩と呼ばれる覚えもないのでね」
「じゃあ、美吠呂……さん。何か話があって、来たんですよね?」
八彦は、慣れていない敬語を使って少々ぎこちなく疑問を投げかける。
美吠呂は、ええ、と頷き言った。
「確かにそうだわ……。でも、その前にまずこの妹さんをなんとかしましょう」
気絶中の妹を放置して、二人っきりで話すのもなんだか気が引けると思った八彦は、その答えに同意した。
「そうですね。んじゃ、僕が菜由里ちゃんをリビングまで運びますんで、えっと……美吠呂さんは部屋で待っててください」
「さん付けもいらないわ」
「え、あ……はい……」
うろたえる八彦をよそに、美吠呂は何の躊躇もなく部屋に入って来るとベットの横にある椅子に腰掛けた。
「早くしてね」
何かと上から目線なのは、そういう性格なのだろう。
八彦は弱々しく返事をすると、菜由里を肩に担いでリビングまで運んだ。
その後すぐ、八彦は自分の部屋へ行った。そして、なぜか床に正座という形で待機していた美吠呂に、八彦は敢えてツッコミを入れず、向かい合うように静かに正座した。
結局、着替える時間も無かったので制服のままだが、それは問題ではない。
八彦にとっては、美吠呂が一体どんな話をするのか、という一種の好奇心の方が強かった。
いや、期待と言った方がいいかもしれない。この退屈な日常を打ち壊す何かを持っている。打開する方法を知っている。そんな存在であってほしいという期待。
さて、自称異世界の言語を話す謎の先輩から、次にどんな言葉が飛び出してくるのか。
八彦は、ごくりと唾を飲み込んだ。
まだまだ続きます!