Bカフェ
Bカフェ
ひどく疲れていた。昼間たくさんの人に会った。笑顔で会話を楽しむ私。哀しみに暮れた人々を優しく迎える私。Pm7時、私はひどく疲れていた。
とにかく少しでも早く眠りたかった。倒れ込むようにドアを開けた。
部屋のドアを開けると、そこには砂漠が広がっていた。
捲き上がる砂埃。どこまでも続く真っ赤な砂丘。人はおろか植物さえもそこにはなかった。ただ風だけが私を巻き込むかのようにキューキューと音を立てながら舞っていた。
なぜ砂漠だったのか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。それくらい疲れていた。そしてそのまま砂漠に倒れ込んでわたしは深い眠りについた。
Am6時。携帯電話の目覚ましの音で目を覚ました。いつもの布団の中だった。読みかけの本に手を伸ばし手に取ると本の間から一通の手紙が落ちてきた。封が切ってないままだ。差出人の名前を見てみたが名前にも見覚えがない。しかし確かに私に宛てられたものだった。不審に思いながらも封を切って中身を確認してみた。確かに私に宛てられたものだった。
手紙の内容は殺人依頼だった。
そう、すっかり忘れていた。このところ広告代理店の制作の仕事と、メンタルカウンセラーの仕事に追われてすっかり忘れていた私の本業。そういえば私は殺し屋だった。
依頼内容は通常極秘なのだが、これはあくまでも既に終了した出来事の告白であることと、固有名詞は伏せてあるという点に免じてここに記すことを許してほしい。
内容は次のようなものだった。
依頼者は、M氏。ヒットしてほしい人物はBカフェの店主。期限は一ヶ月。打ち合わせ場所と時間は、明日のpm6時。 …Bカフェにて… だった。
次の日は目の回るような忙しさだった。朝からクライアントと広告の打ち合わせ。急いで作ったデザイン見本を印刷屋に持ち込み。さらに今週折り込みのチラシを確認に行く。
夜にはメンタルカウンセリングの予約も入っていた。しかしそのようなハードスケジュールの中でもpm6時きっかりに私は、Bカフェについていた。
中に入ると思っていたよりもずっと落ち着いて洒落た雰囲気の店だった。優しく悲しげなボサノバのメロディ、やわらかい色で包み込んでくれるランプは私をホッとさせてくれた。奥の方から店主であるm氏が現れた。…今頭文字にしてみて初めて気がついたのだが偶然にも店主は、依頼主と同じ「M」の頭文字だったことに気がついた。わかりづらいので以降の文章では店主を仮にマスターと呼ぶことにする。
店の奥から現れたマスターは思っていたよりも若く…そう三十くらいだろうか、物腰が柔らかく穏やかな雰囲気を醸し出す品のいい人物だった。少なくとも人に恨みや憎しみを買うような人間には見えなかったがヒットする相手の人格については触れないことが我々のルールであった為その事についてM氏に尋ねることはしなかった。コーヒーを注文しM氏との打ち合わせを始めることにした。殺人依頼の打ち合わせにも関わらずM氏との会話は私にとって大変愉快で趣深いものであった。そして彼の印象もまた私の予想に反していた。殺人の依頼者らしからぬ自由で伸び伸びとした前向きな若者それがM氏に対する印象だった。
店いっぱいにマスターのいれてくれたコーヒーの柔らかな匂いが立ちこめた。
今にして思い起こすとマスターは既に我々が、なんの為にこの店に来て、そして何の打ち合わせをしているのか既に解っていたような気もする。しかしそれを感じさせないくらいに彼は穏やかに微笑んでいた。そして彼の命を狙っているM氏の存在にまるで気がついていないかのようだった。打ち合わせの間中M氏は、ピッタリとマスターの後ろについていたにも関わらずだ。
そう、今にして思えば奇妙な話だ。
次の日から私は、メンタルカウンセラーという名目で店に潜入することとなった。期間は一ヶ月。プロなので外すことはないが一ヶ月という期間でどれだけ完璧な仕事をやってのけることが出来るか。久しぶりの仕事に内心私はドキドキしていた。
通い出してから気付いたことがあった。このBカフェに来る客は、ここに来ることによって日常的な苦しみから泡沫の解放を、安らぎを得ているという事実だった。そして当時わたしは気付いていなかったのだが私自身既に、オアシスに水を求めて集まってくる生き物の中の一人となっていたのだった。
さて、通い始めてから一週間。わたしはすっかりBカフェの居心地の良さを楽しむようになっており出来ることならばこのような計画が中止になってしまえばいいとさえ思うようになってきていた。そして、このような良い空間作りをしているマスターを殺害しようとしている依頼主であるM氏とそのような仕事を請けたヒットマンに対して不快な感情を抱くようにさえなってきていた。 しかし、それと同時に揺るぎない確実性を持ってヒットマンとしての私は着々と計画を進行していっていた。完璧なプロの仕事。それがM氏が私に要求してきたものだった。
砂漠から抜け出した時わたしは以前よりも体重が軽くなっていた。食料が底をついたせいもあるが、それ以上に砂漠の風が私の体の中を通り抜けていったからだと思う。
日付を見ると丁度あの依頼日から一ヶ月が経っていた。仕事は静かに終了していた。Bカフェは無くなり、マスターはそこに存在していなくなっていた。そして私は、一抹の寂しさを覚えた。
ほんとうにマスターは、消えてしまったのか?
数ヶ月後私は、偶然M氏に会った。正直にいうとM氏に会う機会があったら、Bカフェのマスターの顛末について質問したいという気持ちをもっていたのだが、彼に会った瞬間その質問は全く意味のないものだということに気付いた。
健康的で豊かな野心を持った若者のM氏。そしてその後ろにピッタリと寄り添っている人物。そう、Bカフェのマスターだった。結局私の仕事は不成功に終わった。