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魔法少女の解放

 真田(さなだ)(まこと)は、久々に訪れるアパートのリビングでソファーに座りながら、ある光景を眺めていた。

 テーブルに堂々と置かれた、魔法少女ミルキー・(シンフォニー)のBDボックス。

 その後ろに鎮座する放送当時のDVDシリーズ全十六巻。

 それらの周りに所狭しと並べられた、お菓子やジュースの山。

 さながら、ミルキーへのお供え物のようだ。

 もう、これはBDボックスやDVDシリーズを御神体として(まつ)っていると言っても過言ではない。

 少なくとも、誠には、そう見えた。

 しかも、誠のフルートまでもが飾られている。この状況の犯人曰く、放送当時に遊んでいた変身アイテムのおもちゃであるところの、ウィンド・フルートが今はないのだから仕方がないらしい。誠としてはもう頭を抱えるしかない。

 だから、仕方なく、このリビングの(少なくとも今は)(あるじ)へ問いかける。

「ねぇ、何か儀式でも始まるのかな?」

「ふふふ。ははははっ。もう、何、言っているの。おかしいなー」

 当然、儀式でも何でもなく、単なるアニメの鑑賞会が始まるだけなのだが、今ひとつこちらの方面の知識に疎い誠は、的を射るような、ピントを外したような、変な質問をしてしまった。

 それでも、小学生の頃はアニメを見る機会も多かった。だが、アニメに否定的ではなかったものの、中学校へ上がる頃にはほとんど見なくなっていた。高校に通うようになった今ではテレビ自体ほとんど見ない状況になっていた。見るとしたら、ニュースやサイエンス系の知識欲を満たすような番組だけだ。

 ただ、それでもこのリビングの(あるじ)が、このアニメのBDボックスを異常なほど大切にしていることへの配慮をした結果の問いかけだった。

 逆に、数ある魔法少女ミルキーシリーズの中でも『(シンフォニー)』を愛してやまない義乃は本日行われる鑑賞会に向けて、ボックスを御神体のようにテーブルへ(まつ)り、お供え物のように鑑賞中に飲食する予定のお菓子やジュースを並べた。

 だから、誠の問いかけは、ピントを外しているようで、的を射ていたのだ。

 義乃が思わず笑ってしまったのは、この数年アニメなどに全く興味を示さなかったはずの誠の評価が、妙に的確で、おかしくなったのだ。正直、わざとなのでは、と思うほどだ。

「おかしいとは、どう言うことか?」

 誠の反応ももっともなのだが、準備でリビングとキッチンを往復している義乃は「なんでかなー?」と笑顔で誤魔化す。

 誠は、ソファーに座らされ準備の手伝いもさせてもらえず、あることに少し飽きてきていた。

 そのせいもあっての質問だったのだが、笑われて終わっては、もう溜め息を吐き出すしかなかった。

 実は、BDのパッケージはテーブルの上に鎮座しているが、一枚目のディスクは既にハードディスクレコーダーにセットずみで、テレビにはルートメニューが表示されいていた。

 スピーカーから流れるメインテーマのオルゴールバージョン。

 可愛(かわい)くポップに仕上げられたタイトルロゴ。

 画面狭しと、笑顔を見せるキャラクターたち。

 時折、フィルムが画面を流れ、コマのひとつ一つにはめ込まれるダイジェスト映像。

 誠が部屋に上がってから、永遠と繰り返されていたのだ。

 さすがに昔、好きだった作品とはいえ、そろそろ限界に近づいていた。

 改めて、テーブルの上に配置されたお菓子などに目を向けると、グラスが三つ用意されていることに気づく。

 つまり、今日の鑑賞会には自分以外のゲストが参加することを示していた。

 さすがに、義乃の母親ではない。今日は、一日外出していると聞いているし、いくら懇意にしてくれているとは言え、アニメの鑑賞会には参加しないだろう。

 さりとて、学校のクラスメートなどで参加しそうな友達がいるようにも思えなかった。

 もちろん、最近放送されているアニメの話くらいはするのだろうが、昔懐かしの作品をじっくり鑑賞するような本格的な友達はいないと言う意味でだ。

 まさか、魔法少女好きな近所の子供と仲良くなっていたのだろうか。それなら、真っ先に自分への報告があるはずだ。そのような(うれ)しいことを黙っていられる性格ではないのは、誠が一番良く知っている。

 だから、――。

 誠は、あえて考えから外していた可能性について、考えざるをえなくなった。

 そう、あいつ。末永友希の存在についてだ。

 最近、義乃の口からときどき聞くようになった名前。

 高校受験のとき、義乃の受験票を拾ったという男。

 クラスメートらしく、最近、赤点による追試を義乃によって救われたらしい。

 そんな男だ。

 正直、考えたくもなかった。しかし、一度、頭をよぎると服についてしまった血のように染みついて離れない。

 だからといって、その名前を出すのも嫌だったが、もうひとりの参加者について確認しないままでは、いられなかった。

 もしかしたら、ただの予備かもしれない。

 ジュースも複数用意されているようだし、まだ、冷蔵庫にも隠されていそうだ。

 そうなれば、同じグラスを使い続けるわけにもいくまい。

 そう、気にするようなことじゃないはずだ。

 一言、聞くだけだ。

「ねぇ、義乃。グラスの数が多いけど、片付けようか?」

 誠は、問いかける。三人目の存在を否定する願望を乗せて。

 その問いかけに、義乃は満面の笑みで両手を合わせる。

「そっか、誠には言い忘れてたね。ごめん」

 わざとらしい言葉が、誠の胸をチクチクと小さな刺激を与える。

「今日はね。スペシャルゲストが来るんだよ!」

 義乃は、得意げな表情で、右手の人差し指だけを横へ振るように伸ばす。

 左手は、手の(こう)を腰にあて、少し前傾姿勢で停止し、「わかるかな? ワトソンくん」と、言っているようだ。

「それでは、スペシャルヒント! 最近、仲良くなったクラスメートだよ!」

 顔をしかめて黙っている誠を見た義乃は、真剣に考えていると勘違いしたのか、くるりと優雅に一回転すると、クイズ番組風にヒントを出した。

 そして、誠の(うれ)しくない予想は確信に代わり。

「もしかして、彼……?」

 それでも、自分から名前を出すのが嫌で、言葉を濁した。

「んーー。『彼』だけじゃあ、誰を指しているかは、ちょっとわからないかなー?」

 義乃が「本当はわかってるんでしょ?」と迫ってくる。

 しかし、誠は(かたく)なに口をつぐみ、両手を上げ降参の意思を示す。

 すると、義乃は、にやーっと表情を崩した。

 そして、

「今日は、末永くんを御招待していまーす」

 さも、重大発表であるかのように両手を天にかかげ、行われる宣言。

「彼とはいろいろあったけど、最近だいぶん仲良くなってきたのよね。で、しかも。アニメとかあんまり興味ないのかな? って最初は思っていたけど、話してみると意外といけるなんだよね」

 語り始めたら興に乗ったのか、どんどんと彼との話が紡ぎ出される。

「ミルキーシリーズで、どれが好きかって話になったんだけど――」

「いや、彼は義乃とミルキーシリーズを語るほどではないんじゃ?」

 誠は、このまま永遠と聞きたくもない内容の演説が続くかと思うと、ぞっとしてしまう。そう思ったが早いか、口を挟んだ。

「うん、正解。よくわかってるじゃない。でもね、私の中で今まで見てきたアニメで一番のお勧めは、この(シンフォニー)なわけですよ」

 そう言って、テーブルに置かれたパッケージを()でる義乃の手つきから、(いと)おしさが伝わる。

 誠の思わくは外れ、止めたはずの会話は方向転換をしたものの、勢いは衰えることなく継続されることになってしまった。

「ミルキーシリーズの中でもダントツだけど、他のアニメの中でもダントツなわけですよ。そこのところを熱く、熱く末永くんに知らしめようとしたわけですよ」

 現場に居合わせたわけでもないのに、当時の義乃の熱が伝わってくる。

 これは、ヤツに共感したのではない、目の前の義乃の情熱にあてられただけだと自分に言い聞かせる。

 そう考えつつも、その熱さにやられたのかノイズが混じったようにも感じた。

「それで、『そこまで言うなら一度見せてほしい』となったわけ。もちろん、この超お宝級の魔法少女ミルキー・(シンフォニー)、特別受注生産特典付きBDボックスを貸しても、よかったんだけど。それだと、味けないし、折角だから私の家で鑑賞会をしようってなったの」

 既に、パッケージに触れる手つきが、尋常ではない。

 語る途中で一度、(うやうや)しく持ち上げる場面もあったが、すぐに同じところへ配置される。

 誠は、その義乃の様子に半ば(あき)れかかっていた。そして、大してうまい言い訳も思いつかず、

「末永君は、見事に義乃の策にはまった感じなのか……」

「策とは、失礼な。何か悪いことをしたみたいじゃない」

 策という単語に反応して、ほほを膨らませて怒る仕草をする義乃。しかし、にこやかな表情はそのままだ。

「布教活動の成果だよ。大切な同士を招いたんだよ!」

「そう……、楽しくなると良いね」

「うんっ」

 義乃の見せる本当に(うれ)しそうな笑顔。

 (まぶ)しくて、(いと)おしくて、この瞬間を切り取り、永遠に閉じ込めて保存しておきたい。

 宝箱にしまって、誰にも触れられないように。

 大切に、慎重に、壊れないように。

 輝きが衰えないように。

 失わないように。

 細心の注意を払って、周りを固めなければならない。

 義乃を守れるのは、自分だけだと。今までも、これからも、その役目は自分だけ。それは、誰にも譲れない、誰にも譲られるはずのないこと。

 誠は、義乃が自分だけのものであると疑ってすらいなかった。

 そう。自分だけのものなのだ、と強く深く心に刻む。

――だから、邪魔者は取り除かなければならない――

 黙ってしまった誠に対して義乃は、笑顔を崩さず視線を合わせ続ける。

 疑うことを知らない純粋な瞳。義乃は絶対の味方で、理解者で、自分を照らし続けてくれる大切な存在。

 それは、揺るぎようのない事実。物心ついた頃から築き上げてきた(きずな)

 何も心配する必要はないはずだった。心配など何もしていなかった。

 それなのに胸の中に渦巻く、形のない衝動が、誠を大きく揺さぶる。

 どうして、これほどまでに不安になるのか。落ち着かないのか。

 考えるまでもない、答えは決まっている。

 二人の仲に水を差す無粋な存在。正さなければならない間違い。

 決して、許して良いはずがない。

「義乃!」

「は、はいっ」

 急に名前を呼ばれ少し驚く。だが、「何?」と、首をかしげる義乃の姿に、ただ見惚()れる。そして、心の奥底から逆流するどす黒い何かは、ただ勢いを増した。

「義乃」

 誠は、勢いよくソファーから立ち上がり、義乃の肩を抱き寄せるて今度は静かに名前を呼ぶ。

 そのとき、ソファーに置いてあったハードディスクレコーダーのリモコンが転がり落ちて、フルートのケースに当たる。

 そこそこ(にぎ)やかに床へ落下したリモコンのことなど、誠にとっては完全に意識の外だった。

「ちょっと、急にどうしたの? まだ、準備中だよ」

 義乃は誠の勢いに押され、ほほを少し赤らめながら見つめ返す。義乃も見事な落下を決めたリモコンのことを気にする余裕はないようだった。

 誠が一歩前に出ると。義乃は一歩下がる。

「準備なんてもう終わりにしよう。僕に対して気を遣う必要なんてないから、改まって何かする必要なんてないよ」

「でも、今日は……」

「僕だけで、十分でしょ? 今までもそうだったし、これからも変わらず僕がいるよ」

「え?」

 義乃は、誠の言っている意味を理解しきれないようで、不安を表情に表す。

「何も心配いらないよ。君のことは僕がずっと守るから」

 さすがに誠の様子の変化に気づき、義乃の表情が誠を心配するように変化する。

「なんのことを言っているの?」

 しかし、誠は、義乃の疑問を自分への気遣いではなく、義乃自身の将来への不安として受け取り、更に想いが走る。

――僕が、守るよ――

 誠が歩みを進め、義乃が退く。それを何回か繰り返す。

 義乃は、誠の異様な雰囲気に気圧されていた。誠が近づいてきているのか、自分が引き寄せているのかすら、正直あやふやだった。

「君に必要なのは、僕だけだよ」

 誠に肩をつかまれたままの義乃にできたのは、不安な気持ちを抱えて少しずつ足を下げるだけだ。

 義乃が移動すれば、それに併せて誠も移動する。ただ、それだけが繰り返される。

「僕だけのはずだよ」

 なおも言葉を続け、顔も近づけてくる。

「あんなヤツは、いらない。義乃のそばにいて良いのは僕だけ……」

 義乃は、絡みつく視線を必死にほどこうと、もがくように移動する。

 それほど広くない賃貸アパートだ。あっという間に行き場を無くし、義乃の背中は部屋の壁に触れた。

「……あっ」

 義乃は、胸の奥に沸き上がるどす黒い何かを感じていた。

 怒っているのか、喜んでいるのか、表情の定まらない誠も恐ろしかった。

 しかし、それに重なるように黒い影が見える。二度と見たくないと思い続け、でも、自分への好意を示す相手に必ず重なって見える影。

「いや、こないで……。お義父(とう)さん……」

 目に大粒の涙を溜めて、顔をゆっくりと左右に振りながら、壁に背中を預け、崩れ落ちる。

 あの日の出来事以降、義乃へ好意を向ける人物に養父の影が重なって見えるようになっていた。

 崩れ落ちる義乃を誠はなんとか支える。

「大丈夫? 義乃」

 義乃の異変に心配そうに声をかける。本当に、心配そうに。

 しかし、そんな誠を払いのけるように義乃は腕を動かした。しかし、大した力を込められず、義乃の肩を支える誠の腕すらびくともしない。

「心配ない。誰も義乃を傷つけたり、怖がらせたりしないよ」

 誠が、ぎこちない笑顔でなだめようとする。しかし、

「いやーーーー」

 義乃が、癇癪(かんしゃく)を起こすように暴れ始めてしまう。

「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だよ。僕だよ、誠だよ」

 ガクガクと震える義乃の瞳は、恐怖で濁っていた。

 もう、誠もどうして良いかわからずとにかく落ち着かせようと呼びかけ、そして、義乃の背中に両手をまわした。

 大粒の涙をあふれさせ暴れる義乃だが、相変わらず大した力は込められないようで、抑え付けるだけならそれほど苦労はない。

「いや、放して、放して……」

 それでも、義乃の抵抗は収まらない。なおも、懸命に手足をばたつかせる。背中を壁にあて、それでも下がろうと必死にもがく。

「嫌い。嫌い……。どっか行って」

 義乃は、拒絶の言葉を繰り返す。

 それは、誠の心に突き刺さる。義乃の言葉が、養父の影に向けられるものだと知ってはいた。

 それでも、実際に自分の腕の中で、自分に向かって投げつけられる言葉は、とてつもなく鋭かった。

――どうしたら? どうしたらいい?――

 義乃を落ち着かせる方法は、わかっている。いつもなら、当然のようにできていたことのはずだった。

 しかし、いつもの対処方法すら誠の頭から吹き飛んでいた。

 誠は、今まで義乃から拒絶されたことはなかったのだ。だから、仮に義乃が取り乱しても、第三者の立場として冷静に対処ができた。

 だが、今は違う。例え勘違いだったとしても、義乃は自分を拒否し、逃げようとしている。

 義乃は、自身に向けられる好意に敏感になり、その結果として男性恐怖症になってしまった。しかし、誠は例外だった。

 実際に、今までずっと幼馴染みとして過ごしてきたし、例外だと信じていた。

 自分に対して、このような反応を見せるはずがないと。

 そう、思い込んでいた。

 (おび)える義乃に、胸が張り裂けそうになる。それと同時に、ある思いが沸き上がる。

――どうして、こうなったのか?――

 思い当たる節はひとつしかなかった。

 あいつが、現れたからだ。

 あいつが、義乃の症状を悪化させたのだ。

 あいつがいなければ、こんなことにはならなかったのだ。

 僕が、僕だけが、ずっと義乃のそばにいるんだ。

 義乃の隣にいて良いのは、僕だけなんだ。

 それを、邪魔するヤツは許さない。

 そのとき、背後で物音がする。しかし、腕の中の義乃の存在すら忘れかけ、憎悪を募らせる誠は、気づかなかった。

 誠の背後、義乃にとっては誠の肩越しの正面、そこに末永が立っていた。

 涙でぼやけた視界に映る末永を見た義乃は、思い出した。

 自分を抑え付ける誠の背後に立つ、末永の姿。

 自分を抑え付ける養父の背後に立つ、幼い誠の姿。

 二人の姿が重なって見えた。

 

         ◇

 

 幼い誠は、フリルで飾られた可愛(かわい)らしい衣装を身につけ、手にはフルートを模したステッキが握られていた。

 魔法少女ミルキー・(シンフォニー)のひとり、ミルキー・ウィンドの姿をした誠。あの日、いつも敵役ばっかりは嫌だと誠は言い出した。だから、誠に無理やりミルキー・ウィンドの衣装を押しつけた。

 女の子の衣装を着ることに抵抗はあったが、義乃からのお願いはいつも反則的な威力があり、敵役以外をやりたいと言った手前もあって、断りきれず着替えることになった。

 当時は、背格好がほとんど同じで、市販の衣類なら交換できたし、実際、似合っていた。

 義乃の母親も悪のりして、ファッションショーが始まることもあったくらいだ。

 それくらい、当時の誠には違和感がなかった。

 目の前に立っていた魔法少女は、手にしたステッキを振り上げると、力一杯振り下ろした。

 義乃の目の前で、養父の頭部に振り下ろされた。

 酔っていた養父は、一度、誠の方へ倒れかけるが、横へ押し返され、そのまま倒れる。

 そのとき、誠の体や衣装に血が附着してしまっていた。当たり所が良かったと言うべきか、頭部を切っていた養父は、予想外に出血していた。

――僕以外の人間が義乃に近づくなんて許さない。僕が守るって誓ったんだ――

 義乃は、倒れた養父を見下ろす誠を見上げて、自分を助けてくれたはずの相手に恐怖した。そして、自分への好意に対して、どんな作用が働くかをすり込まれた。

 しかも、その重圧は一生続くかもしれないと思うと、養父からの解放に安堵(あんど)する間もなく、新たな重圧に義乃の記憶は途絶えた。

 

         ◇

 

 義乃は、思い出した。

 今まで、ずっとあの日、養父を怪我(けが)させたのは自分だと思っていた。

 いつも夢で思い出す養父を殴った人物は、ミルキー・ウィンドの衣装をまとっていたから。

 その衣装は、義乃のお気に入りだったから。

 だから、ずっと、自分以外にあり得ないと思い込んでいた。

 そうであってほしいと願っていた。

 そうでないと、自分が大切にしたいすべてを壊されてしまうから。

 しかし、当時の環境を変化させてくれた誠に潜在的に感謝もしていた。だから、恩返しをするという口実を隠れ(みの)にして、誠のそばに居続けた。

 そう決意した義乃であったが、誠以外の人間と無関係ではいられない。学校に行けばクラスメートがいるし、近所の友達もいる。

 義乃に好意を持つ男子が現れても何ら不思議ではない。だが、結局、ある一線を越えると、過去の出来事を思い出すことでリミッターをかけてしまっていた。

 ずっと、抜け出したくて抜け出せない蟻地獄(ありじごく)で義乃はもがいていた。

「た、たすけて……。末永くん……」

 かすれた本当に小さな声で、義乃は助けを求めた。

 そこで、ようやく誠は末永の存在に気づいた。「大丈夫だよ。僕が守るよ」と念仏のように、ぶつぶつと繰り返していた声が止まる。

 末永の名前に強烈に反応した誠は、大きく目を見開き、振り返ろうとする。

「離れろ!」

 誠は、義乃から勢いよく引きはがされた。

 末永に首根っこを強くつかまれ、後ろへ大きく倒れ込んだ。

「待って――」

 声を出すのもつらそうな状況で、義乃が末永を静止しようとする。昔の誠のように末永が、今度は誠を傷つけるのでは、と考えたからだ。

「心配しないで。ひどいことはしないから」

 末永は、義乃の前に膝をつくと落ち着いて手を差し伸べる。

 押しのけられた誠の視界に祭壇のようなテーブルが入り、隅に置かれたフルートが彼女との思い出を溢れさせる。

 義乃が、意味もなくフルートを出して組み立てている姿に疑問を感じていた。しかし、今、彼女の(おも)いを感じる。

 やはり、世界は自分と義乃の未来を望んでいるのだと歓喜した。

 自分こそが、義乃に相応(ふさわ)しいと、胸にたぎらせて振り返る。

 そして、目の前のフルートを強く握りしめ、あのときのように振り下ろした。

 その瞬間、末永は誠の動きに気づいて反応することはできた。だが、既に遅かった。

 末永は、目から火が出る感覚を味わう。漫画やアニメのように目の前に星が飛んだ気がした。

 いくらフルートが軽いといっても金属だ。壊れることをいとわず、男子学生の腕力で振るえば相当なものだ。

 後ろへ吹き飛ばされるほどの威力もなかったが、末永は痛みと驚きで意識が遠のく感覚に襲われよろける。

 よろけた勢いで、そのまま後ろへ倒れ込む。

 そこには、ダイニング用テーブルと椅子があり、盛大に突っ込むと同時に派手な音をたてることになった。

「ぐっあっ……」

 末永は、思わず苦悶(くもん)の声を上げ、息が止まる。

 しかし、テーブルや椅子にぶつかったときの体の痛みよりも、頭部のズキズキとする痛みがより鮮明に感じる。

 頭部で感じる心臓の鼓動と、髪の毛の間から伝う生暖かい何かが、顔に降りてきたからだ。

 無意識に顔に触れた手を見て、末永はやっぱりか、と思う。

 力一杯振り下ろされ変形したフルートには血が附着し、誠の手の震えに合わせて小刻みに揺れている。

「おまえが……。おまえが、いなければ……。はぁ、はぁ」

 誠は、肩を大きく動かしながら、憎しみのこもった視線を末永に向ける。

「おまえが、義乃の前に現れなければ。あのとき、つまらない親切心で行動しなければ……。もう少し、まともな成績だったら……」

 誠の表情は大きく歪み、憎しみのこもった瞳には、血に染まった末永が黒くひどく醜悪に見えた。

「義乃と二人で、今まで通りいられたんだ。これからも、ずっと一緒にいられたんだ。誰にも渡さない。あのときだって、僕が悪い大人から義乃を守ったんだっ!」

 誠は、あの日の行動を後悔したことはなかった。

 例え、世間から暴行事件を起こした少年として後ろ指を指されようとも、義乃を守るためにとった、あの行動を誇りに思っていた。

 その誇りがあったからこそ、その達成感があったからこそ、義乃の特別でいられたと思っていた。

「ぽっと出の……、どこの馬の骨とも知れないようなヤツに、義乃に触れる権利なんてないんだ!!!!」

 高まった感情が抑えられず、心の叫びを吐き出し、末永を見下ろす。

 対して、誠を見上げる末永は顔の半分近くを血で汚しながらも、できるだけ穏やかになるよう意識した。

「何もしないよ。いや、できないよ。できるとしたら、二人の友達として見守るくらいだ」

「うそだ!!」

 間髪を入れず、否定の言葉が吐き出される。――実際に、告白をしたじゃないか! 義乃の心に触れたじゃないか! そして、特別になっているじゃないか――と、叫びそうになった言葉を誠は飲み込み、歯ぎしりをする。

 口にしたら、本当に終わってしまうと思った。

 だから、口が裂けても言えなかった。

 末永は、どうにかしたいと思うが、頭の中で鐘を鳴らされているような痛みで思うように考えがまとまらない。

 しかも、さっき転んだときにぶつけた体が、ようやく痛みを感じだして思うように動けそうにない。

 末永の焦り始めた表情に、気づいているのか、気づいていないのか。誠が引き笑いをする。渾身(こんしん)の一撃が決まり、思うように動けない相手に愉悦を感じているのだろうか。

 その様子に、末永は――早くしてくれないと、さすがにヤバい――と、あることを思い出す。

 そのとき、ひとりの男が、音もなく開け放たれていたリビングの扉から侵入し、誠を取り押さえた。

「なんだ? なんなんだよ! なに、勝手に入ってきているんだよ!」

 誠から見れば、正面にある通路から入ってきた謎の男。しかし、完全に末永に気をとられていた誠の目には、全く映っていなかった。

 誠は両肩を左右から抑えられ、腕を背中に回される。腕と肩への痛みで自然と前かがみになり、膝が床につく。

「くそっ、放せ!」

 突然の出来事に慌てふためきながらも、自分を押さえ込む相手に向ける威圧的な視線。その先には、テレビなどでよく見る黒ではなくチョコレート色の手帳が開かれ、顔写真とともに身分が記載されていた。

 その内容に、誠は歯ぎしりをする。

 その様子を、あっけにとられて、ただ見守っていた義乃は、疑問でいっぱいの表情を浮かべていた。

「まさか、おまえが!」

 その中でひとり、末永は、少し安堵(あんど)し、力を抜いたように見えた。

 末永の様子に気づいた誠が、恨めしそうに声を上げ、前に出ようとする。しかし、抑え付けられる力を少し強められただけで、動くことができなかった。

 結局、誠は増した痛みに顔を(ゆが)ませることしかできなかった。

「その、まさかだよ。守野さんの悲鳴を聞いて入ってくる前に連絡しておいたんだ。何事もなければゴメンですむしね」

 その台詞(せりふ)に誠を取り押さえている男の表情が険しく、末永をにらむ。ゴメンではすまされないんだぞ、と抗議しているようだ。

「くそっ、なんでこんな都合良く来るんだ!」

 誠の至極当然な疑問に、抗議の意志を見せた男が賛同の意思を見せ、

「まったくだぞ。だいたい、悲鳴が聞こえたから様子を見てくると言っていたが、ちゃんと家主さんの許可は取ったのか?」

 思わぬ突っ込みを受け、気まずそうに視線を逸らす末永は「緊急事態だったし」とだけ呟いた。

 謎の男の乱入による状況の変化に驚いた義乃は、そのショックが多少なりとも落ち着きを取り戻す要因になっていた。

 そして、二人のやりとりを見た義乃はあることを思い出した。

「あ、もしかして……。前に話していた、お堅い仕事のお兄さんって……」

 末永は、義乃に向かって、正解だよ、とうなずく。

「昔の事件のことは、兄貴に聞いて知っていたんだ。つい最近だけど……。で、当時、まだ新人だった兄貴が担当していて覚えていたんだって。それで気をつけろってね。だから、その、黙っていてごめん」

 そう告げられた義乃は、ただ首を左右に振る。気にしていないと。

 それを見た末永は少し安心して、「それで――」と続ける。

「僕は、漫画やアニメにできるようなヒーローじゃないから。ただの高一にできることなんて、たかが知れている。できることと言えば、友達として、社会のルールにのっとって更正するきっかけを作ってあげるくらいだ」

 そう言って末永が目を向けた誠は、今にも()みつきそうな形相だ。

「こんな、だまし討ちみたいなことしておいて、友達だなんてどの口が言うか。本当に友達だったら、警察に突き出すなんてことするのか?!」

 誠の悲痛な恨み言や叫びに、末永は穏やかに答える。

「友達だから、だ。悪いことは悪いって、本当のことを言えないような関係で、本当に友達だなんて言えるのか? うわべだけ取り繕って傷をなめ合っているだけの関係が本当の友達って言えるのか? 僕は二人とそんな関係でいたくないと思っている。それだけだ」

 しかし、末永の言葉こそが、誠にとってうわべだけの言葉に聞こえた。

「きれい事を並べてわかったような、口をきくな!」

 だから、誠は大きく目を見開き否定の言葉をつなげる。

「僕たちは! 僕たちの気持ちは、ずっと二人だけで生きてきたんだ!」

 抑え付けられた肩を、腕をふりほどこうともがく。

「うぁぁぁぁ!!」

 取り押さえられたときは痛みですぐに動けなくなっていたが、今度の激しく暴れ続ける。

「誰も助けてくれやしない!」

 足を蹴り出そうとするが、むなしく膝が床を滑る。

 勢いで足を大きく投げ出され、体が一瞬、宙に浮く。すぐに体はうつぶせで床に落下した。

「はっ。放せ、放せ!!」

 体のあちこちを床に打ち付けながらも暴れる続ける。

「邪魔な……あいつを……」

 それでも、必死にもがく。

「やめて!!」

 そこへ義乃が二人の間に割って入る。

「もう、良いの……誠」

 瞳に、今にもあふれそうな涙をこらえながら。

「何が、良いっていうんだよ。何も良くなってない!」

 義乃は再び首を左右に振る。今度は否定の動作だった。

「もう、これ以上は、誠が本当に不幸になってしまう。今は、良いのかもしれない。でも、誠の心は友達を傷つけた罪悪感すら忘れて、私のためという気持ちにこれからも縛られ続けて、きっと将来後悔する」

 義乃の誠を見る瞳は力強く、こめられた決意が伝わってくる。

「本当はあのとき、酔ったおじさん……。うんん、お義父(とう)さんから私を助けてくれたのは誠だった。なのに、ずっと私がお義父さんを傷つけたと思い込んで、自分を責めてきた」

 義乃の誠を見つめる瞳は、少し遠くを見ているようでもある。

「でも、あのとき、私のことを助けてくれたはずの誠が責められるのが怖くて、自分がしたことにしなければいけないと、あのときは思ったの。それが誠のためだって信じてた」

 義乃の言葉を聞きながらも、誠は抵抗を続けている。

 しかし、今の誠は、義乃からそんな言葉は聞きたくないと、あらがっているようにも見える。

「でも、それと同時に怖かったの。誠がやったことを認めると、私のためにした誠の行為を認めてしまうと思ったの。いつか、私を守るためだって理由で取り返しのつかないことをするんじゃないかって……。だから、誠とずっと一緒に居たの……」

 誠の上にいる男は、ずっと沈黙を守っている。

 青春のとげは力だけでは抜けないことを知っているからか。

 暴れる誠を抑えてはいるものの、可能な限り当人同士でけりをつけさせる方針のようだ。

「楽しいこともいっぱいあったよ。でも、誠との関係に(とら)われて、がんじがらめになって、身動きができなくなって。どこへも行けなくなっていた。そんなのは、間違ってる……。だから、誠も私を理由にして、私に縛られて不幸になる必要はないんだよ」

 義乃はそう言って、もう一度、誠の目をしっかりと見つめる。

 しかし、義乃の気持ちが伝わったのか、伝わらなかったのか、誠は少し目を泳がせてから叫ぶ。

「そんなことない! 僕の幸せは義乃のそばにいることだけだ! おじさんと約束したんだ! 一生、義乃を守るって!」

「うん。覚えているよ、その約束」

 誠の言葉で義乃は幼い日のことを思い出してうなずく。

「だったら!」

 しかし、誠の訴えに、やはり首を左右に振る義乃。

「でもね。死んだお父さんは私たち二人に純粋に幸せになってほしかっただけだと思うの。だから、今の状況はきっと、お父さんの望んだ状況じゃないと思う」

 いったん言葉を切ると、少し大きめに息を吸い込む。

 そして、義乃は、ちらっと末永の方へ目配せをする。

「私ね、教えてもらったの。自分を殺してまで他人の幸福を願っても誰も幸せになれないって。自分が、つらいことに耐えているとしたら、きっとそれは相手にも伝わって……、不協和音になる。そして、遠くない未来に破綻する……」

 義乃がもう一度、末永へ視線を送ると、その瞳に小さな肯定が返される。

 小さいがとても力強く安心感を与えてくれるアイコンタクトだった。

「私は、それに気づくことができた」

 義乃は、もう一度、しっかりと誠の目を見つめる。

「私は、もう、過去に(とら)われない。お義父さんにも会いにいく決心をしたよ。いつまでも、私のわがままで今の生活を続けていたら、お母さんにも悪いから……。だから、誠も本当に自由なんだよ。私なんかのために意地になって、自分を押し殺して人生を台無しにする必要なんてないんだよ」

 誠は、義乃の言葉に反応して動きを止める。そして、見開いていた目をギョロッと義乃へ向けた。

 義乃は動じることなく、真っ()ぐ見つめ返す。

「あのとき、助けてくれてありがとう。ずっと、私を守ってくれてありがとう。もう、大丈夫だよ」

 そう言って義乃は微笑(ほほえ)んだ。

 そして、ずっと誠の中で支えになっていた大切な(おも)いが、信じていた気持ちが、乾いた音を立てて砕けた。

 

――うつむかないで、そうすれば、きっと明日はやってくる――

――素敵な将来(あす)がやってくる――

――お互いを想う気持ちが、未来(きぼう)へたどり着かせる――

――立ち止まらず、進もう――

 

 ずっとテレビで再生されていたミルキーのオープニングテーマがタイミング良く流れていた。

 誠がソファーから立ち上がったときに、落としたリモコンが意図せず操作されていたのだ。第一話はアバンタイトルが長くようやくオープニングテーマだった。

 ずっと耳に入っていても聞こえていなかった音。しかし、誠の気持ちと重なっていたはずの部分とのずれに反応して音が戻っていた。

 小さな頃からずっと一緒で、二人の気持ちは常に一緒だと思っていた。

 それだけが、唯一のよりどころで。

 自分だけが、その二人の将来を守れる唯一で。

 だから、つらいことにも耐えて上を向いていられたし、いつか二人で幸せになれると信じてた。

 だけど、気がついたら、義乃とは違う方向へ進んでいた。

 その気づきは、今まで自分を縛っていたものからの解放を意味した。

 しかし、義乃の感謝の言葉は、誠のこれまでを否定しなかった。

 誠は義乃の気持ちを本当に温かいと感じた。

 そして、温かい何かが誠のほほを伝い、力の抜けた体が床にぐったりと伸びる。

 背中から押さえ込んでいた、末永(兄)はようやくの決着に安堵(あんど)の様子を見せつつも警戒を怠らない。

 だが、末永は、その様子を見て、ようやくほっと一息入れられた気がした。相変わらず左手で押さえる頭はズキズキとしたが。

 もう一度、義乃を見ると、涙でくしゃくしゃの顔で微笑(ほほえ)んでいる。

 末永は瞳に映る人生で初めて向き合う美しい笑顔に、目を細める。

 そして、緊張が抜けたのか、末永はそのまま意識を失った。


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