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隠された変身

 朝のホームルーム前の教室。

 クラスメートが挨拶をする声や、昨晩のテレビ番組について盛り上がる声が騒々しく広がる室内は、いつも通り。

 義乃も室内の喧噪(けんそう)を作る中のひとり。昨日のこともあり、努めて明るく振る舞っていた。

 普段から仲良くしているクラスメートの女子には、それを早々に見抜かれているようだったが、今のところは触れずにいてくれているらしい。その気遣いに感謝しつつ、朝の恒例となっている会話を楽しんで……いられるわけもなく、チラチラとある方向を見ていた。

 視線の先には、こちらも挙動不審気味な末永が、そわそわと落ち着かない姿を見せる。

 彼もクラスメートの男子と何かを話していた。教室の窓側から廊下側の位置関係では、周りの騒々しさで話し声は届かない。

 二人とも、それぞれで会話を楽しんでいるようで、どこか上の空で、心ここにあらず。明らかにお互いを気にしていた。

 義乃は、昨日の追試後の出来事を思い出してしまい、昨夜はろくに眠れなかった。おかげで目の下にはくまが浮き上がっていた。

 受験のときの恩返しが、折角(せっかく)できたと思っていたら、あんなことになってしまった。

 自分は人生の恩返しを理由に、困っている彼を助けただけ。それだけのつもりだった。

 それも、たった一週間にも満たないような期間で、勉強を教えただけだ。

 幼馴染みの誠に言わせれば、(すき)が多すぎるらしいが、自覚はなかった。

 義乃も末永に勉強を教えるために過ごした期間は、楽しくなかったと言えば(うそ)になる。いや、むしろ楽しかった。しかし、まさか、告白されるとは夢にも思っていなかった。

 そして、その結果があの醜態だ。

 ちゃんと断ることができれば、まだマシだったかもしれない。しかし、あんな姿を見せてしまっては、もう合わせる顔がない。

 しかも、朝の教室で顔を合わせたときに、末永から「おはよう」と挨拶をしてくれたにもかかわらず、黙って相づちを打つくらいしかできなかった。

 彼としても気まずい空気の中、勇気を出して声をかけてくれたに違いない。しかし、義乃ができたのは、昨日の出来事に影響され冷たく引きつった能面のような表情だった。

 それを見た末永は、一瞬、悔しさとも悲しさともとれる、つらそうな表情を見せたが、次の瞬間にはいつもの笑顔で他のクラスメートに挨拶をしていた。

 本当に、強い人だ、と義乃は思った。

 今も、心配そうに自分の方をチラチラと様子をうかがっている。

 その気遣いを感じられてしまう末永の優しさがつらく、義乃は、無意識に視線から逃れるための予備動作として様子をうかがっていた。

 義乃の意思に反して拒絶反応を示す体。末永の前に立つと思うだけで背筋が寒くなり、足がすくむ。話しかけられようものなら、さっきのように表情は能面のように凍り付いてしまうだろう。

 義乃はただ末永に謝りたかった。しかし、気持ちだけが焦り、何もできないまま、一日が過ぎていく。

 体は彼の存在を拒絶し、心は彼への罪悪感に押しつぶされ、身も心もすり減らしてしまう義乃だった。

 

         ◇

 

 夕日に照らされ朱色に染まる駅の改札へ家路を急ぐ人々が、せわしなく吸い込まれていく。

 部活を終えた学生が、空腹を訴えながら(にぎ)やかに歩いている。

 時折、カバンを振り回してじゃれ合う姿を、甘酸っぱい青春時代を思い出させるかのように見る大人もいれば、ただ、迷惑そうに遠巻きにする大人もいる。

 必死にスマートフォンを(にら)み付けて歩いていく白髪の男性がいたり、コンビニで買ったのか、夕刊を片手にきびきびと歩くキャリアウーマン風の女性がいたりもする。

 はたまた、買い物袋を片手に小さな子供の手を引いて歩くお母さんの姿も見える。

 駅前には、様々な生活や生き方が流れていた。

 その流れの横にずっと立ち続けている少女。彼女の目には、目の前に広がる多様な世界は全く目に入っている様子はなく、ただ、そこに存在していた。

 義乃は、授業が終わるとすぐに学校を出て、ずっと駅前に立っていた。真っ()ぐロータリー方向に顔を向け、ずっと立っていた。

 その姿は、さながら帰ることのない主人を待ち続ける忠犬のようだ。実際は、毎日立っているわけではないため、周りの通行人は誰もそのようには思っていないだろう。

 しかし、たまたまだったとしても、ただならぬ表情で何時間も立ち続けていれば、さすがに様子がおかしいと思う人もいる。

「ちょっと、君。いいかな?」

 突然、声をかけられ、視線を合わせて思わず顔を引きつらせる義乃。

 そこには、心配そうな表情をした警官が立っていた。

「何でもありません。人を待っているだけです」

 まだ何も聞かれていないのに、突き放すように質問を先回りして返事をする。

 視線は足下に落とされ、小さな返事は余計に聞き取りにくいものになってしまった。

 しかし、拒絶の意思は伝わったのか、警官は少し困ったような表情をすると続けた。

「でも、君。もう、三時間近くここにいるよね。待っている方と連絡はとれないのかな?」

 警官はあくまでも義乃を心配した様子で、当然の確認をした。

「電話番号、知らないので……」

「それじゃあ、せめて座れるところで待ったらどうかな? すぐそこの派出所なら待っている方が来たら、すぐに見えるし」

 そう言うと、警官は派出所の方向を指で指した。そして、とても人懐っこい笑顔を見せる。

 その笑顔に、末永の今朝の笑顔が重なって見えた。

 他人のことを心配して、気にかけて、優しく微笑(ほほえ)む雰囲気が似ていたのかもしれない。

 しかし、今の義乃にはその優しさが、鋭いナイフのように心を切り刻む。

 気がつけば、勢いよく走り出していた。

「ちょっと、君」

 警官の呼び止める声が聞こえた気がした。

 その場を逃げ出したくて、自分を傷つけるもののないところへ行きたくて、走り出していた。

 目に涙を()め、通行人にぶつかりそうになりながら、走った。

 ぶつかられそうになったサラリーマンは、何事かと振り返りながらも、その後は特に気にとめることなく歩き出す。

 その瞬間、けたたましく辺りに響くクラクション。

 義乃は、その音で完全に体がすくんでしまう。

 立ち止まって視線を向けた先には、路線バスが見える。ただでさえ大きなバスが更に大きく見える。

 世界から、音が消えた気がした。

 駅前の喧噪(けんそう)や、車の走る音、バスの鳴らすクラクションの音が、聞こえない。

 しかし、ずっと待ち続けていた人の声――大丈夫だよ――が、聞こえた気がした。

 その瞬間、義乃は力強く腕を引っ張られる感覚に襲われ、そのまま転んだ。

 だが、体をアスファルトにこすりつけることはなく、何か柔らかいような、ごつごつしたような不思議な感触なものの上に背中から倒れ込んだ。

「いててて……」

 義乃は自分の下に敷かれた何かの声を聞いた。

 しかし、自分に何が起きたかを把握できず、突然目の前に広がった空を見上げていた。

「守野さん。いくら女子が軽いと言っても、早めにどいてくれると助かるかな」

 状況の深刻さに反して、意外と軽い苦情が義乃へと寄せられる。

「ごめんなさい」

 慌てて上半身を起こして振り返ると、そこには引きつった顔の末永がいた。

 そもそも、人をひとり抱えた状態でアスファルトの上に転べば、擦り傷の一つや二つはできていてもおかしくはないはずだ。さらに、起き上がるときに、ある一点に体重がかかってしまい動物をつぶしてしまったときのような声がした気がしなくもない。追い打ちをかけてしまったのだろう。

 しかし、義乃は、そのような末永の状態など気にかける様子もなく、また走り出そうとする。

「ちょ――、危ないっ」

 慌てて末永が腕をつかむ。今度は、車道に出る寸前に捕まえたため、転ばずにすんだ。

 ただし、義乃の体はまたもや勢いよく引き戻され、たたらを踏む。

「――っ」

 勢いがなくなり静止すると、恐る恐る末永の方へ振り返る。

 そこには、大丈夫何もしない、と両手を小さく上げる末永がいた。

 つらそうに少ししかめられる表情。その原因は、明らかに義乃にあったが、助けるために転んだことが原因なのか、昨日から引きずっている態度が原因なのかまではわからなかった。

 しかし、そんな表情は一瞬で消えてなくなり、怒りへと変化した。

「何やってんだよ!」

 末永は、思わず叫んでいた。

「守野さんにもしものことがあったらと思ったら、血の気が引いて心臓が止まるかと思ったよ。頭の中は真っ白だったけど、体が動いて良かったよ……」

 最後は、目の前に立つ義乃を確認して安心したのか、消え入りそうな声でつぶやいた。

 冷静さを取り戻してきた二人の耳に、一連の流れを遠巻きに見ていた通行人の声が入る。怪我(けが)を心配する声や、危険な行為への非難の声などだ。

 悪目立ちしてしまい、だんだんと恥ずかしくなってくる。

 先ほどの警官が、救急車を呼ぶかの確認のために末永へ声をかける。

 末永は、警官に友人を待たせてしまったこと、迷惑をかけてしまったこと、深く頭を下げて謝った。

 義乃は、それをただ眺めるだけ。

 何度も繰り返し勢いよく頭を下げる姿は、丁寧というよりコントのようだった。

 最後に「彼女を何時間も待たせるものじゃないよ」とお小言をもらい、照れ笑いで誤魔化す末永の姿を直視するのはつらかった。

 この場で、彼女であることを否定してもかえって話がややこしくなるだけだ。だから、分かっているからこその苦笑を浮かべつつも、少し(うれ)しそうな表情が義乃の胸の辺りに鋭く突き刺さる。それはジワジワと染みるような、うずきだけを残した。

 末永は、もう一度大きく頭を下げると、義乃の方に向き直る。

「行こうか」

 そう言うと、末永は先に歩き出した。

 義乃は、末永に黙ってうなずくと背中について歩き出す。

 

         ◇

 

 お互いに声を発することなく辿(たど)り着いたのは、つい先日、勉強のために訪れた図書館横の公園だった。

 公園の中を少し歩くとお弁当を食べたベンチへたどり着く。

「ずっと立ってて疲れたでしょ? 少し休憩しようか」

 そう言って、さっとベンチの端に腰掛ける。

 末永は視線でベンチの反対側を義乃へ勧める。

 そして、義乃は勧めに従う形でベンチに腰を下ろした。

 少し視線を上げると噴水のある広場が見える。そこでは、小学校低学年くらいの男の子と女の子が、遊んでいた。もう、()も暮れかけて、男の子が危ないからと女の子に「もう、帰ろう」と言っている。しかし、遊びたいと駄々(だだ)をこねている女の子に対して、説得を試みる男の子。じきに、遊びたい意思を体いっぱいに表して大きく主張していた女の子も帰宅する気になったのか、手をつないで歩き出す。

 末永は、小さな仲むつまじい二人を黙って見送る。

 その優しげなまなざしを見て義乃は重い口を開いた。

「あのね」

 末永は、一瞬だけ視線を義乃の方に向けると、再び正面に戻した。ちゃんと聞くよ、と先を促していると義乃は感じた。

 だから、続けた――。

「私ね、さっき、駅でお父さんを待っていたんだ……」

 そう言って、話を切り出すと、心の中で(つか)えていたものが外れて、抑えていた気持ちがあふれ出し、自然に説明ができていた。

 父親を駅の北口で、交通事故によって亡くしたことを。

 その原因が自分にあり、車道に飛び出した自分をかばって父親がトラックにひかれたことを。

 つらいことや嫌なことがあると、つい大好きだった父親に助けを求めたくて駅の北口へ向かってしまうことを。

 そのたびに、当時、大好きだった魔法少女ミルキー・(シンフォニー)のテーマ曲を幼馴染みが、リコーダーで演奏して、なだめすかされ連れ帰られていたことを。

 毎日のように遊んでいた幼馴染みとの思い出は変わらず、ずっと続いていることを。

 母子家庭でも自分をちゃんと大学まで通わせてくれると、母親が頑張ってくれていることを。

 ささやかだけど、母親と二人で過ごした幸せな時間のことを。

 受験の日も本当は一緒に受験会場へ向かうはずだった幼馴染みとは、南口で待ち合わせだったが、無意識に北口にいたことを。

「でも、最近は、そんなこともなかったんだよ。受験のときは、すごく久しぶりだったんだよ。それに待っていたのは、お父さんじゃなくて幼馴染みだし」

 と、いろいろと余計な情報も混ざった気はするが、駅での出来事で説明を締めくくった。

 両足をそろえて投げ出し、少し前かがみになって末永を見上げると、予想通り少し困惑した表情が目に入る。

 しかし、母親との生活を語るあたりからは楽しい思い出も多く、徐々に増えていった笑顔。義乃のふさぎ込んだ気分は少し晴れてきていた。

「えっと。正直なんて言って良いのかわからないけど……」

 苦笑するような、考えるようなそぶりで、末永はこめかみの辺りを人差し指でかきながら、続ける――。

「その、魔法少女のアニメってのは、本当に好きだったんだね。ちょっと、心配になるくらいに伝わってきたよ」

「そこですか!」

 予想外の反応に、義乃は軽くつんのめる。

 義乃が語ったとおり、何かつらいことがあったから、今日、駅で来るはずのない父親を待っていたはずだ。それくらいは、末永も簡単に予想ができたし、昨日のことも少なからず関係していることも間違いないとわかる。しかし、今は、まだ語れない何かがあるのだろう、そこまでの信頼を得られているはずもない。そう考えた末永のあえての話題選択だった。

 本音を言えば、語っているときの義乃の瞳の輝きようは、突っ込まざるをえなかった。末永は、そう心の中で言い訳を付け加える。

 それほど、衝撃的だったのだ。

 

 父親の死についてや、自分の境遇を深刻そうに語っていた義乃だったが、突如立ち上がって披露される決めポーズと台詞(せりふ)

 ――カンぺきにあなたの願望を管理します。ミルキー・ウィンド――

 末永は、辺りに「ビシッ」とか「バーン」という音が、響いた気がした。

 末永も幼い頃は、女の子向けのアニメを少しくらいは見たことがあった。そのときのイメージでしかないのだが、義乃の(しん)に迫る演技に完全に気圧(けお)されていた。

 恐らく、彼女の語る魔法少女ミルキー何とかは、ひとりではなく複数人で悪と戦っていたはずだ。ひとりでの口上は、本来の形ではないだろうが、そのような不足感は全くなく堂々としていた。

 しかし、()も沈んで辺りが暗くなっていることに末永は心底安堵(あんど)した。

 そして、二人の名誉が守られていることをしっかりと確認するためにキョロキョロと周りを見回した。

 まさかとは思うが、クラスメートが近くにいて見られていないだろう、と。

 

 思わず確認してしまう自分の滑稽(こつけい)さも含めて思い出し、末永は優しい表情で続ける。

「何て言うか、お母さんとの生活もだけど。幼馴染みさんがいたからこそ、今の守野さんがあるって感じなのかなって、思えたよ」

 それと同時に、もうひとつの疑問と言うか、謎を思い出す。

「ただ、大好きなアニメの曲を聴いたら言うことをきくってのは、何だか不思議だね」

 そう言うと、末永は握った手を口に近づけて、小さく笑った。

「そこは……、気にしないで。自分でもちょっと恥ずかしい。なんでかわからないけど、その曲を聴くと不思議と落ち着くんだよね」

 義乃は、目線をそらして口をタコのようにする。

「人に恵まれたんだね。お父さんもすごく素敵な方だったんだろうし。守野さんを女手ひとつで育てたお母さんや、つらいときを支えてくれた幼馴染みさんがいた」

「うん……、そだね」

 大切な人を認めてもらえて、少し照れくさいような、むずかゆい感覚に襲われる。

「しかし――」

 末永は、まだ何か気になることがあるのか、あごに手をあて考えるようなそぶりをする。

「最近は悪い癖は出てなかったっていうのに、受験のときは何で北口にいたの?」

「あのときは……、すごい緊張してて、前日も夜も眠れなくて大変だったんだよ」

「成績は良くて学年トップクラスの守野さんからしたら、受験の試験問題なんて余裕だったはずじゃ? それでも、緊張するの?」

「だって、勉強はできても、受験なんて初めての経験だから、緊張もするよ……」

 末永の何で? という疑問の視線に義乃は小さくなりながら答える。

「意地悪……」

 義乃は小さくなったまま、小さくつぶやいて、少し恨みがましく末永の目を見返す。

「でも、そのおかげで守野さんと出会えたし、こうして話す機会があるわけだから……。僕としてはラッキーだったかな」

「そうなのかな……。ラッキーなことなんて、全然ないよ」

 末永に向いていた視線を再び外すと、義乃はついうつむいて、つま先を見つめる。

「昨日は、あんなにひどいことをしたのに……。それなのに、どうして助けてくれたの? 一歩間違えば、末永くんも事故に巻き込まれてたのに……。怪我(けが)じゃすまなかったかもしれないんだよ? 本当に……、どうして、こんなに優しくしてくれるの?」

「好きな子を助けるのに、理由なんてないよ。白状すると、どうしたら良いかなんて、さっぱりわからなかった。でも、体が勝手に動いたから助けられたし、間違ったことをしたとは思ってないよ」

 末永の口から自然にこぼれる「好き」という言葉。初めて伝えようと思ったときは、水の中にいるような苦しさで言葉を発することができなかった。実際に伝えたときは、無我夢中でほとんど勢いだけで気持ちが本当に込められていたかも良く分からなかった。しかし、一度伝えた今はもう躊躇(ためら)いなどなく、素直な気持ちとして口にできた。

 そんな、末永の気持ちの変化とは裏腹に、義乃は、身構えた。末永の気持ちに対して反応する、自分の中にある黒い影に対して。しかし、義乃の中には、昨日のように、影は現れなかった。あれほど、自分へ向けられる好意が怖かったのに。

「それにね、『自分の中の正義を信じて考え行動しろ』ってお堅い仕事をしている兄貴らしい言葉なんだけど。僕も同じ気持ちだから、自分の気持ちに(うそ)のないように行動しただけだよ」

 兄の話をする末永の表情はとても輝いていて、力強い。以前、兄を尊敬していると、語った言葉は、やはり心からのものだったのだろう。

「ごめんね」

 末永の真っ直ぐな想いが(まぶ)しくて、正直、恥ずかしくて末永の目を見ることはできなかった。

「そこは、ありがとう、じゃないかな? 僕が言うのも変だけど」

「そうだね、ありがとう」

 謝罪ではなく、感謝を示すところだと指摘され義乃は素直に応じた。もちろん、助けてくれたことへの感謝はあるのだが、どうしても昨日のことに対しての罪悪感は消えず、その意味も含んでの謝罪だった。

「私って、末永くんに助けられてばっかりだね。追試の補習で困ってる姿を見て、やっと受験のときの恩返しができるって喜んでた。なのにこんなことになってしまって。そもそも、困っている人を見て喜ぶなんて、ひどいよね」

「でも、実際助けられた」

 結局、罪悪感を引きずってネガティブな話題を続けてしまう義乃に対して、末永は力強く義乃を肯定する。

「そうかもしれない。そうだと思い込んで恩返しができたと喜んでいたら、取り乱して自分勝手に走り去って不誠実なことをしたのに」

「そんなことはないよ。だって、守野さんはちゃんと最初に勉強を教えるだけだって言っていたんだから」

 だから、自分が悪いのだと、末永はそう言った。

 しかし、それほど簡単に納得できるはずもない。

「そうだったとしても、ちゃんと誠意を持って対応しなきゃ……」

「ちょっと、びっくりしただけだから。大丈夫だよ」

「しかも、今日もうじうじ悩んで、お父さんを待ちぼうけして、道に飛び出して、末永くんに助けられて……。人生の恩人なんて、よくわからない理由でお節介を始めたけど、本当に命の恩人だよ」

 義乃は、決意を込めた表情を末永に向ける。自分の中にある、命の恩人に対してするべきことを考えて――。

「そんなことない」

 しかし、末永はやはり否定する。

「だから、私は末永くんの気持ちに応えなければならないの」

 それでも、義乃の中の伝えなければならないという気持ちは収まらない。

「私を彼女にしてください。ずっと、あなたの隣にいさせてください」

 街灯の光に輝くしずくがほほを流れる。

「ごめん」

 即答だった。末永に迷いはなかった。

 義乃の必死な訴えは、懇願(こんがん)は、受け入れられない。

 義乃の助けを求める、か細い手。差し出される、その手を末永は実際的な意味では握らなかった。

「気持ちは(うれ)しいけど、それは受けられない。それは、僕が命の恩人だからで、僕のことが好きだからじゃないよね? そんな状態で一緒にいても、二人ともつらいだけだと思う」

 受け入れられなかった手の平は、膝の上でぎゅっと握られ、小刻みに震えている。

「守野さんの感謝の気持ちは痛いほど伝わってくるよ。本当にありがとう。でも、自分を責めたり、引け目に縛られたりする必要はないんだよ。それに、告白してるのに泣いているなんて変だよ。本当は、自分への(うそ)がつらいんじゃないかな?」

 末永の気遣いが温かくて、優しくて、義乃の涙腺は緩む一方だった。

 その様子を見ながらも、末永は言葉を続ける。

「それに、わかったんだ、きっと僕では守野さんの助けにはなれない。守野さんの背負っているものや、心に持っている傷の深さを僕は想像できないし、実感できない。できるのは、うわべの共感だけ……」

 そして、末永は一度、言葉を切って大きく息を吸って吐き出すと――。

「だから、僕の方こそ、ごめん」

 小さくだが、力強く紡ぎ出される謝罪の言葉。

 そして、ベンチに座ったままではあったが、深く頭を下げた。

 二人が対等な立場として、お互いの意思を汚すことなく、誠意を持って対応するための姿勢。変に(へりくだ)ったり、持ち上げたりしない。

 相手を(おも)った、末永の精一杯の気持ちだった。

 

         ◇

 

 川の土手に作られた遊歩道。夕食時も過ぎれば人通りはほとんどなく、対岸に見える家庭の灯がかろうじて寂しさを和らげる。

 普段なら水の流れる音がかすかに聞こえてくる場所は、今はフルートの音色に包み込まれている。

 昔、懐かしい魔法少女アニメのテーマ曲。しかし、吹奏楽部員の学生が気合いを入れて自主練習をするにしても、少し意外な選曲だ。運動会などで使われるほど、定番な曲ではないからだ。

 遊歩道に一定距離で設置された休憩用のベンチには、フルートの奏者である真田(さなだ)(まこと)がいた。慣れているのか気負った様子もなく、落ち着いて演奏をしている。辺りを満たしている音色はとても優しく落ち着いた気分にさせてくれる。

「今日は、その曲の必要だったかな?」

 しかし、隣に座っていた守野義乃は、少し不愉快そうに誠へ抗議の言葉を投げた。

 ふと、唇がリッププレートから離れ、辺りから音が消える。

 一瞬だけ無音の世界が訪れるが、すぐにせせらぎの音や、遠くの街を包む生活の音が聞こえてくる。

「んー、そんな雰囲気かな、と思って」

 誠は、穏やかな笑顔を義乃に向ける。

 しかし、義乃はじっと水面で揺れる対岸の街灯を見ていた。

 誠は、特に文句を言うこともなく、黙ってフルートを分解し、メンテナンスを始める。と、言ってもガーゼを使用して内部の水分を拭き取るくらいだ。演奏後は常に行っている作業で手慣れたものだ。手早く済ませるとケースに本体を片付けた。

 軽くきしむ音がして、カチッとロックをかける音が続く。

「ありがとう、少し落ち着いたかな」

「どういたしまして」

 義乃が感謝を伝えると、誠はただ落ち着いて返事をした。

 義乃に対して事情を聞いたりはしない。

 何か、義乃の変化に気づくと、いつもさりげなく近くにいて、そっと支えてくれる幼馴染み。その誠の優しさや気遣いに、義乃はいつも助けられていた。

 義乃が、目だけで誠の様子を見ると、優しく微笑(ほほえ)み返してくれる。

 甘えてはいけないと思いつつも、つい寄りかかっている気がする。

 しかし、義乃は「でも」と思う。普段は、勉強とか、御両親が忙しいときの身の回りの世話とかしているのだから、おあいこだと。自分に言い聞かせていた。

 そのような、義乃の心の中の葛藤(かつとう)を知ってか知らずか、誠は黙って待っていた。

 誠の目からも、明らかに何かがあって、それについて話したがっているように感じた。だからこそのこの場であり、本人が話し出すのを待つしかない、と最初から腹をくくっていた。誠としては、優しさとか、思いやりとか、そういったものではないのだが、それすらも受取手しだいとも言えた。

「今日ね。昨日のことで悩んでたら、頭の中ぐしゃぐしゃになってきて、気がついたら駅前にいたの。私、また、ずっと待ちぼうけしてて、お巡りさんに声かけられて、怖くなって走り出しちゃって、車道に飛び出してバスにひかれそうになったの。だけど、そこに末永くんがいて、助けてくれたんだ。命の恩人へ華麗にクラスチェンジしたよ」

 ははっと義乃は乾いた笑いを漏らす。

 誠は、特に突っ込みを入れず沈黙で先を促す。

「……でね。そのとき、私、取り乱しちゃってたから、図書館の横の公園まで連れて行ってくれて、落ち着くまで付き合ってくれたの」

 ここへは義乃から突然、呼び出された誠だったが、特に新しい情報ではなかった。

 正直、昨日のことを引きずっているだろうことは予想できたし、義乃が駅に行くだろうことも予想の範囲内だ。しかし、本人の口から、その後のことを聞くと少し胸がざわつく。

「そこでね。告白したの、命の恩人のために、ずっと隣にいさせてほしいって」

 誠は知らず、喉をならす。

「そしたら、見事にフラれちゃった」

 義乃は、ペロッと舌を出して、後頭部に手をあてた。

 明るくおどけているつもりなのだろうが、顔はもう泣きそうだ。

「好きなわけじゃ……ないんだよね? だったら、良かったんじゃないの」

 誠は、気持ちの引っかかりについて無視していたが、やはり、無意識に気持ちのモヤモヤがわき出て、言葉がとげとげしくなっていた。

「うん……。好きでもないのに、命の恩人だからって理由だけじゃ、一緒にいられないって、はっきり言われちゃった……」

「義乃が、必死に恩返しするって息巻いている相手が変なヤツじゃなくて良かったよ」

 誠は心底、その言葉に安心していた。

 もちろん、そのことに義乃は気づくはずもない。

「ん-。恩返したつもりが、ひどい醜態を見せて、落ち込んでいたと思ったら、事故で助けてもらって、再びチャンスが訪れたと思ったら、見事に突き落とされた、と?」

 誠は、安心したせいか、義乃を少しからかうような言葉をこぼしてしまった。本当に少し場が和めば程度に考えていた。

 しかし、――。

「突き落とされる?」

 たしかに、義乃は末永から、見事に拒否された。突き落とされるというよりは、突き放された、だが。

 それは、誰のためだったのだろうか。義乃は、そう思った。自分ひとりでは、ただ突き放されて悲しいしかなかったが、他人の口から聞くと、また違って聞こえる。

 あのときの末永の言葉は、間違いなく義乃のための言葉だ。

 末永としては、たとえ一時のことでも、恋人ができて青春を満喫できたはずだった。

 彼にしてみれば、そのようなこと自体が些細(ささい)なことだったのだろう。

 自分を殺して向けられる好意の悲しさに気づいて、義乃を止めてくれたのだ。

「そうだね、そうかもしれない。私は、誠にずっと甘えているだけだった。短い間だったけど、末永くんにも……」

 義乃の表情を覆っていた曇りガラスが晴れ始める。

 まだ、どうして良いかはわからなかった。それでも、義乃は何かをつかめた気がしていた。

「そう……かな?」

 誠は、胸を締め付けるような感覚が再び広がっていくのを感じながらも、表情の変化した義乃を見て、笑顔でうなずいた。

「ありがとう、話、聞いてくれて」

「どういたしまして」

 今度は、晴れ晴れとした様子で感謝を伝える義乃。

 相変わらず、落ち着いた様子で答える誠。

 これは、これでいつもの流れだった。落ち込んだ義乃を慰めて、元気が出たら、普段の仲の良い幼馴染み。

「お(なか)すいたー。早く帰ってお母さんの御飯が食べたい!」

 義乃は、そう言って勢いよく立ち上がった。

「こんな時間まで、ほっつき歩いていると、おばさん心配するんじゃないの?」

 誠は、義乃の切り替わりに少し(あき)れつつ、嫌みを潜ませ、問いかける。

「大丈夫、まこちゃんと一緒にいるってメールしてあるから」

「それは、それは、信用のあることで」

「そだよー。お母さん怒らせると怖いんだから。信用を裏切らないでね?」

 誠は、この後、起こるであろう出来事を想像して、持ち上げようとした腰が重くなるのを感じた。

 義乃の母親が決して悪い人ではない、自分の両親が忙しいときは、よく世話になっている。

 だからなのだろうか、自分の子供でも他人の子供でも分け隔てなく接してくれる。つまり、そういうことだ。

 元気よく歩き出す義乃の後ろ姿に従って歩く誠の足は、ひどく重たそうだった。

 

         ◇

 

 義乃は、自宅で誠と母親の料理で空腹を満たした後、ひとり湯船につかりながら末永の顔を思い出す。

 今日の事故から助けてもらった件について、経緯を説明するために自分の過去を末永に話した。

 しかし、意図的に話さなかったことがあった。いや、話せなかったと言うべきかもしれない。義乃自身も記憶が曖昧(あいまい)な部分もあったし、思い出そうとするとひどく気分が悪くなる。思い出したくもない出来事があったことは間違いないが、大切な何かを忘れているような気分にもなり、いつももどかしい。

 話せることだけでも、すべてを包み隠さず話すべきだったのではないのか。話さなかったのは彼に対して失礼なのではないのか。

 だが、話してしまえば、自分の勝手な過去に巻き込んで彼に無用な気遣いをさせてしまうのは間違いなかった。

 もちろん、それすらも包み込んでくれるかもしれない。

 口を水面の下に沈めて、ぶくぶくと息を吐き出す。考え事があるときの癖だ。

 目の前にはお湯に沈んだ膝が揺れている。

 突然、そこに末永の顔が映った気がして、慌てて水面を乱す。

「私……、彼にとんでもなく恥ずかしいところを見せちゃったのかも」

 お風呂の水面に彼の笑顔を見てしまうほど、意識してしまっている自分に驚いてもいたが、同時に、あの驚き混じりの笑顔は忘れられそうもない。

 公園の暗がりだったとはいえ、高校生にもなって、ミルキーの決めポーズと台詞(せりふ)を堂々と披露してしまったのだ。

 それでも、末永は嫌な顔をせずに自分のことを理解しようとしてくれた。

 そして、結果的にだが、末永は義乃の過去を知らないまま、義乃を深く包んで放さなかった霧を見事晴らして見せた。

 ただ、いろいろと言い訳はあるが、結局のところ、話すのが怖かったのだ。

 そう、あの日の出来事を知られることが、怖かったのだ。

 

         ◇

 

 義乃の父親が交通事故で亡くなってから二年くらいした頃、母親が再婚することになった。

 義乃の母が「新しいお父さんよ」と紹介した男性は、優しそうではあったが、どことなく頼りない感じだった。

 まだ幼い義乃は、受け入れられるはずもなかった。

 大好きだった実父のことを忘れて知らない男を連れてきた母親への反発もあり、養父との間は決して良好とは言えない状況が続いた。

 その結果、家にいづらくなった義乃は、幼馴染みである誠の家へ毎日のように遊びに行っていた。

 ただし、常識的な時間での話だ。当然、小学生が遊んでいられる時間は限られる。タイミング的には義乃が帰宅すると、しばらくして養父も帰ってくることになる。避けることは難しかったが、そもそも家にいたくなかった。

 幼い義乃のささやかな抵抗だった。

 そんなある日、珍しく義乃は自宅で誠と遊んでいた。誠の両親の仕事の関係で、夕食を義乃の家で取ることになっていたからだ。

 自宅にはあまりいたがらない義乃だったが、誠の両親の都合では仕方がなかった。それに、義乃の母親も夕方までは仕事に出ており、誠と二人だけの空間だ。思いっきり遊べば嫌なことも忘れられると思っていた。

 二人は当時、流行(はや)っていた「魔法少女ミルキー・(シンフォニー)」の録画を見て、いつものようにミルキーごっこをしていた。

 義乃は、何度も繰り返しているミルキー・ウィンドの変身シーンのマネをし、ポーズを決めると、ウィンド専用の決め台詞(ぜりふ)を軽やかに奏上する。他にも一緒に戦うミルキー・ストリングとミルキー・パーカッションがいるのだが、人数が足りないためウィンドがソロ時代設定だ。

 そして、いつもは誠が敵の怪人役と、敵に拘束される一般人の役をかねて遊んでいた。

 しかし、その日は違った。

 養父が、自宅にいたのだ。

 自宅で両親とほとんど会話をしたがらない義乃は、養父が自宅にいることを知らなかった。前日の夕食で話題はあったが、全く耳に入っていなかったのだ。

 義乃が、養父の在宅理由を知ったのは、大人になってからのことだ。冷静になって聞けば、特に不思議なこともなく、ごく自然な内容。有給休暇を取って家庭菜園の手入れをしたり、換気扇など普段手をつけないところの掃除をしたり、家のことに精を出す平凡で家庭的な人だった。

 ただし、問題があったとすれば、疲れた体を癒やすように自室で飲酒をしていたことだ。元々、酒は好きだが、あまり強くはない体質だった。

 義乃と誠が部屋で(にぎ)やかに遊んでいる声を聞きつけ、リビングに入ってきた。

 そこには、ミルキー・ウィンドの衣装で、ばっちり変身した可愛(かわい)らしい戦士と、ミルキーに助けられる一般人がいた。

「いつも、誠くんが悪役と助けられる人をかねてるみたいだけど。大変だろうから、今日は、おじさんが、悪役をやってあげよう」

 そう言うと、酔っ払って少しふらついた足取りで、二人に近づいてきた。養父としては、なかなか(なつ)いてくれない義乃と距離を縮めたくての行為だったのだろう。

「ほほぅ、綺麗(きれい)な心を持った人間だな。その美しい魂を取り出していつまでも我らの元で()でてやろう」

 後になって思い返せば何のことはない、ただの酔っ払いだったはずだった。しかし、そのときの二人の目には、本当に恐ろしい怪人のように見えた。元々、敬遠気味だった大人が酔っ払ってゆらゆらとふらついて近づいてくる様は、ただただ恐怖だった。

 そのとき、養父が口にした台詞(せりふ)が、いつも番組で聞き慣れた怪人の決まり文句であることにすら気づけないでいた。

 恐怖に顔を(ゆが)めた二人は、それぞれ別の方向へ後ずさってしまう。

 ふらついた養父は、助けられる一般人役だけを追いかけるように、更に追い詰める。

「おまえは、俺のものだ……」

 養父は、襲いかかるマネをして両手を上げて近づいてくる。一般家庭のリビングだ。あっという間に背中が壁に当たる。

 それでも逃げようと必死に足を動かすが、むなしく床の上で滑るだけ。養父の表情や行動にすっかり(おび)えてしまい、とうとうその場に崩れ落ちてしまう。

可愛(かわい)いよ……可愛いよ……」

 養父はもう手の届くところまで迫っている。

 恐怖の色に染まった瞳からあふれる涙。

 壁に背中を押し当て、滑る床を必死に蹴り続ける。

「いつまでも、僕のそばに……」

 ガツッ。

 そのとき鈍い音ともに崩れ落ちる養父。一度、背中の方に倒れかけたが、ふらついた結果、前方へ倒れ込む。

 その体は、逃げるためにもがいていた脚を押さえつける。

 ゴトッ、と更に鈍い音がした気がした。

 涙で()れた顔を上げると、そこには顔やフリルで飾られた衣装を血で汚したミルキー・ウィンドが立っていた。

 震える手で変身アイテムのウィンド・フルートを握りしめている。

 子供の力だったが、打ち所が悪かったのか養父の頭部からは、血が流れ出していた。

 ふらついた養父を払いのけようと触れたときに、衣装や手に血が附着してしまったのだろう。

「わたし……は、世界の平和を守る……。ミルキー・ウィンド。あなたを……、助けに……来た」

 震える声で、ミルキーは奏上を始めると手を差し出した。

 録画を再生していたリビングのテレビからは、ちょうど魔法少女ミルキー・(シンフォニー)のテーマ曲が流れていた。

 

         ◇

 

 その後、義乃と誠は、それぞれ自宅の部屋のベッドで目を覚ますことになる。

 精神的なショックも受けているだろうからと、ケアのためにしばらく学校を休むことにもなった。

 数日後、特に体調が悪いわけでもなく、学校を休んでいて暇を持て余していた義乃の元へ、警察が部屋を訪れる。

 義乃が覚えていたのは、その二人は年配で強面(こわもて)のおじさんと優しそうなお兄さんだったことと、事件の当日について何かを確認されたことだけだった。別の言い方をすれば、覚えていることはそれだけ。たくさんのことがあやふやだった。

 しかし、当日のことは、可能な限り覚えていることを話した。母親は心配そうに付き添っていたが、当時の義乃は特に気にした様子もなく当日のことを語った。それを、聞いた刑事の二人は、特に追求するようなことはなく「ありがとう」と言って立ち去った。

 その後、その二人に会った覚えはない。結果として、義乃も誠も何もお(とが)めがなかったのだから、会う必要もなかったのだろう。

 ただし、誠はひどく精神的に不安定な状況になり、月に二回程度のカウンセリングを受けることになったと聞いていた。義乃に見せる姿はいたって普通で、今までと何も変わらず優しい誠だった。

 義乃だけに起きた変化と言えば、実父が残してくれた家を離れ、母親と二人で賃貸のアパートへ引っ越したことだろう。

 部屋は狭くなったが、母親との生活は楽しく、居心地の良いものになっていた。

 決して裕福ではなかったし、自宅も狭いアパートだったが、不満はなかった。実父がいないことは寂しかったが、また、母親と仲良く生活できたから。

 義乃と誠の仲もそれまで通り続き、中学・高校と同じ学校へ進学する。


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