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少女の恩返し

 守野(もりの)義乃(よしの)は人気のない廊下をひとり、自分の教室へと向かっていた。

 通り過ぎる教室の電気は消され、遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏が、寂しげな雰囲気を際立たせる。

 しかし、ゴールデンウィークの余韻など微塵(みじん)もなく、そろそろ梅雨入りしそうな季節。

 義乃の足取りも、吹奏楽部の演奏も、どちらも何か大きな(くさび)から解き放たれたような、軽やかさと開放感があった。

 それも、そのはず。高校生にとって障壁のひとつである中間テストが終わったばかりだからだ。試験期間のプレッシャーや、部活動禁止で発散することのできなかったストレスを吐き出すかのような開放感。それは、身も心も軽くし、盛大に青春を燃やす糧となっているのだろう。

 ただ、帰宅部に所属する義乃としては、煩わしい儀式からの開放感が心の大半を支配していた。運悪く忘れ物をしてしまい、教室まで逆戻りとなってしまっても、さほど嫌な気持ちにはなっていない。むしろ上機嫌なくらいだ。

 ふと、廊下の先を見ると、目的地である教室の扉が開け放たれている。

 既に誰もいないと思っていたのに、と義乃は首をかしげつつも、気にした様子もなく歩みを進める。

「あ~、さっぱりわからん~~~」

 教室に近づくと、中からうめき声のような悲痛な叫びが聞こえてきた。

 開いた扉の影から(のぞ)きこむと、頭を抱えて机に突っ伏しているクラスメートの男子が見える。しばらく眺めていると、ゆっくりと起き上がり、再び机の上のプリントに向き合い始めた。

 一応、やる気はあるらしい。

「なるほど」

 義乃は、あることに思い当たった。彼は隣の席なのだが、返却された数学の答案を見てこの世の終わりのような表情をしていた。そして、昼休みに職員室に呼び出され、戻ってきたときには(しかばね)に成り果てていた。

 その様子から読み取れた状況は、名前を書き忘れたとか、解答欄を間違えたといった可愛(かわい)らしいミスではなく、本当に深刻そうだった。一年生の中間テストから、この様子では先が思いやられる感は否めない。しかし、

「これは、チャンスね」

 そうつぶやいた義乃は、胸に手をあてて長く静かに息を吐き出す。そして、顔を上げて「よし」と気合いを入れると、教室へ足を踏み入れた。

 最初の一歩を踏み出してしまえば特に戸惑うことなく、訓練されたような素早い動作で近づけた。そして、腰を折ってお辞儀をするように、プリントに記された問題にやられて苦悶(くもん)に満ちた顔を(のぞ)きこむと、声をかける。

「頑張ってるみたいだね? 末永(すえなが)くん」

「うわっ!」

 突然、目の前に現れた顔に、末永友希(ゆうき)は大きく()け反った。そして、肩を大きく動かし、表情をこわばらせたまま、胸に手をあてる。

「びっくりした。心臓が止まるかと思った」

 プリントの内容を理解できなくても、理解できないなりに集中していたらしく、大きなリアクションとともに、素直な感想がこぼれる。

「そんなに驚かなくてもいいのにー、ちょっと傷つくなぁ」

 義乃は笑う口元を握った手で隠しながら、末永の正面に立つ。視界の中を移動する笑顔。揺れる髪。末永には本当にキラキラと輝いて見えた。

 窓から差し込む傾きかけた()の光のせいだろうか、と考えるが、いつも通りの教室だ。

 驚かされたことなどすっかり忘れて見入っていた。

「あ……りが、あ、いや。ごめん」

「ん?」

 義乃は、頭の上に疑問符でも浮かべているかのような表情で、首をかしげる。

「何か謝られるようなことしたかな? むしろ私の方が驚かせてしまったみたいだから、謝らないとなのに」

 そして、指先を少し交差させるように、手を会わせて謝る仕草をした。

「いやいや、全然! 全然、気にしてないから、大丈夫」

 義乃の姿を見た末永は、慌てて両手を勢いよく左右に振った。

「でも、守野さんは、どうして教室に? みんな部活か、帰ってる時間だけど……」

 気にしていないことを伝えると、ようやく、当たり前の疑問に行き着いた。

「えっとね。今日の宿題に使うノートを、忘れちゃってね。それで、とりに戻ってきたの」

「そうなんだ」

 末永は義乃の答えにクスッと笑顔を作ると、

「守野さんは、相変わらず、おっちょこちょいなんだ。受験のときみたいに」

「う……」

 あまり表立って指摘されたくない事実をさらっと告げられ、一瞬固まる義乃だったが気を取り直して続ける。

「痛いところ突いてくるなぁ。でも、あのときは本当に助かったよ。末永くんは人生の恩人だよ」

「ははは。ちなみに人生の恩人って?」

 義乃の妙な表現に、末永が苦笑する。

「受験に失敗しても死んだりはしないけど、ささやかでも人生の目標を見失わずにすんだから……。だから、人生の恩人だよ」

「なるほど……。それは、どういたしまして、なのかな?」

 末永の少し戸惑ったような返事に、

「かな?」

 と、少しだけ表情を和らげて微笑(ほほえ)む。そして、真剣な表情をすると告げた。

「でね。今度は私が恩返しをする番かなって思ったんだよ」

 義乃は少し前のめりになり、末永は何事かと思いながらも言葉の続きを待った。

「もしかしなくても、末永くんは、今って赤点の補習で居残りをしてるんだよね? そして、追試が待っている!」

 あまり(うれ)しくはない的確な指摘に対して、末永の渋面が事実を肯定している。それを、見た義乃は軽くうなずいて、

「だから、私がスペシャル授業をして、見事、末永くんを追試に合格させるよ!」

 そう、大きく宣言する。

 末永が見上げる義乃は、胸をそらし、腰に手をあて、堂々とした立ち姿だ。

「おぉぉー」

 末永の感嘆の声とパチパチと手をたたく音が聞こえる。

「イマイチ他人ごとっぽいけど、一年生の今の時期から赤点をとっているようじゃ落第しちゃうよ?」

 義乃が半眼で末永の顔に近づく。

 末永はまた体を少し()け反らせて、

「あ、ごめん。何か、すごいかっこ良く宣言するから感動してしちゃって……」

「しっかりしてよね」

「はい……。頑張ります」

 コクコクと首を動かし返事をする末永を見て、義乃は笑顔でうなずいた。

「それで、追試を受けるのは数学だけなのかな? 隣で見ていた感じから察するに数学以外は特別落ち込んでいることもなかったし。まぁ、ギリギリセーフで、ホッとしていたって感じだった気もするけれど……」

 末永は、自分のことをよく観察している子だなと思った。隣の席ではあるが、日常的に会話をするほど仲が良いわけでもない。それこそ、「受験の日の朝に駅で会ったよね?」程度の会話しか覚えていない。むしろ、会話の内容を覚えていられる程度しかない。なのになぜ、と疑問に思うのは当然だった。

「数学だけだよね?」

「あ、あぁ。もちろん、そうじゃないと大変なことになるよ」

 一瞬の考え事のつもりが長引いてしまった。再び顔を(のぞ)きこむように確認され、暗い表情で視線を()らしながら返事をする。

「ん?」

 軽く疑問符を頭上に浮かべるように首をかしげると、何が大変なのかと無言で問いかけてくる。赤点をとっていること自体も十分『大変』なのだが、それだけではないことを義乃は敏感に感じ取っていた。

 そうでなければ、あえて問い返して待つこともしないだろう。おねーさんが何でも受け止めて聞くぞ、と顔が語っている。

 末永はその視線と笑顔に観念すると、重い口を開く。

(とし)の離れた兄貴がいるんだけど、それがもう出来(でき)の良さが(すご)くって。だから、母親からの比較のされ方も半端なくてね。追試になったことがバレただけでも……考えただけで怖いよ」

 そう語る末永は渋面になる。

 うん、うんとうなずく義乃は至ってありふれた質問をする。

「なるほど。でも、そんなに優秀なお兄さんがいるなら勉強を教わったりしなかったの? 兄弟ってやっぱり片方の出来が良いと、もう片方は……ってのかしら」

「さらっと傷つくことを言うなぁ。でも、兄貴から学校の勉強のたぐいはさっぱり教わらなかったんだよ、実際。教えてもらったことと言えば……」

「言えば?」

「有り体に言うと悪いこと、かな」

 一度、言葉を句切った割に意外とさらっと白状した。

「え……、もしかして警察のご厄介になったりしたの?」

 義乃は、告白された内容に今ひとつピンとこない面もあったが、驚きつつも硬い表情で人生バッドエンドになりそうな質問を末永へ返す。

「いやいや、本当に犯罪になるようなことはしてない。それは本当」

「ふーん」

 義乃が向ける疑いの目が冷たい。

 その視線にたまりかねた末永は、広げた両の手の平で制止させるような身振りをつけて、違うからと主張する。

兄貴曰(いわ)く、泥棒の手口を知らなかったら泥棒対策できないだろ? って感じで教わったんだよ、いろいろと実体験も含めて。ひどい目にもあったけどね……」

「ほぅほぅ」

 何か嫌なことを思い出してしまったのか、末永の表情に影が落ちる。

 逆に義乃は、何だかんだで好奇心が刺激されるのか、疑うような表情を見せつつも瞳の奥がキラキラとしている。

「でもね、僕自身は兄貴のことをすごく尊敬しているし、兄貴のようになりたいとも思ってるんだ。けど、そう思えば思うほど現実とのギャップに悩まされちゃってね。なかなかうまくいかないよ」

 末永は苦笑しながら肩を(すく)める。

 それを見た義乃は、何かに納得して大きくうなずく。

「そかそか、いろいろと事情もあるのはわかったよ。それじゃあ、なおさら追試に向けて頑張らないとだね。私は、追試対策として勉強を手伝うことしかできないけど、これから毎日、放課後は私と数学の勉強ね!」

「毎日?!」

「そうだよ。毎日やらなかったら意味ないじゃない。だから――」

 末永の驚きに、義乃は至極当然のように毎日の積み重ねが大事と返した。

 しかし、実際のところは、放課後に毎日、女子と二人きりで勉強ができるシチュエーションに対して驚いたのであって、勉強の積み重ねの話ではない。

「逃げたら、ダメだからね」

 そんな、末永の内心に気づいているのか、気づいていないのかは定かではないが、勉強を教えることは決定事項のようだった。


         ◇


 それから週末までの平日は、数学担当教師の短い復習授業があり、その後は与えられるプリントでの自習が言い渡されていた。その自習時間に、義乃が第二の教師として末永に対して教鞭(きょうべん)をとっていた。

 追試は、翌週の月曜日。わずかな日数だったが、義乃は下校時間ギリギリまで毎日根気よく付き合った。

 毎日、復習授業が終わる頃にひょっこり現れる義乃。末永は、一度、「どこで待っているのか? 待たせているのは悪い」と伝えたが、「私が自分の意思でしていることだから、気にしない! そんなことよりも、自分の追試のことを考えて!」とすごい剣幕(けんまく)で返されてしまい、それ以上は、何も言うことはできなかった。

 そして、数日間ではあったが、義乃の教えを受けて追試への自信をつけてきた金曜日の朝。義乃がクラスメートの女子と世間話をしていると、教室へ走り込んできた男子と軽く接触したところを、末永は目撃した。

 本当に軽い接触で、お互いによろけるほどでもない。その男子は「ごめん」と謝ると、そのまま自分の席へと移動していった。

 その直後、義乃は急に顔を青ざめさせて座り込んだ。

 おしゃべりをしていた女子が支えると、「大丈夫」と言って立ち上がろうとする。

 結局のところ、朝から少し体調が悪かったと言い残して保健室へ、クラスメートの女子と向かった。二時間目には戻ってきていた。

 そのようなことがあったにも関わらず、自習時間になると何事もなかったように現れると、こう告げた。

「それじゃあ、最後の追い込みとして、明日の土曜日は図書館で一日みっちり勉強をしましょうね」

 有無を言わせない満面の笑みが末永の前にあった。

 しかし、まだ調子が悪いのか、少し顔色が悪い。いつもは女神のような義乃の笑顔も、そのときだけは、とても冷たく深い闇に引きずり込む悪魔の冷笑に見えた。

 末永の本音としては、義乃の体調よりも――まだ、詰め込まれるのか――と戦慄(せんりつ)していた。

 実際のところ、赤点クリアレベルどころか学年の平均点すらも超えることが可能な状態になりつつあり、義乃にこれ以上勉強を(おそ)わる意味があるのか? 末永に追試クリアをさせる以外に義乃にとって何か目的があるのではないか、と末永が疑問に思ってもおかしくない状況だった。

 本人曰(いわ)く、

『私の趣味のお店を回る至福の時間を割いてまで付き合っているんだから、しっかりと成果を出してもらうからね。あ、でも恩返しでやってるんだし、そんなこと言っちゃダメだね。でも、成果は出してほしいのは本当だし、その方が(うれ)しいでしょ?』

 義乃自身の時間を使ってくれているのは当然として、更に何か特別な時間も使って付き合ってくれている。勉強を詰め込まれることは厳しいが、とても有り難い話であり不満や疑念を持っては罰が当たるというものだ。

 あらぬ邪念に後ろ髪を引かれつつも、末永としては、追試に付き合ってくれている義乃へ誠意を見せる必要がある。

 つまり、休日返上の勉強会の提案を断る理由はなく、全身全霊を持って義乃の申し出を受け入れる以外に選択肢はなかった。

「先生、よろしくお願いします」

 そう言って末永は深々と頭を下げた。


         ◇


 末永は、普段よりも重量のあるカバンを担いで駅前に立っていた。

 土曜の朝の駅は、通勤や通学で通り過ぎる人が少ない代わりに、楽しげな表情で会話をしながら通り過ぎる人で(にぎ)わっている。

 同じ、人の多さでも難しい顔で通勤するサラリーマンや、学校へ行くのがだるいなーと表情に出している学生を見るよりは、気持ちが良い。

 しかし、今日の末永はどちらかといえば、後者のだるい系学生の気分だった。むしろ、先行きを不安に思うサラリーマンの気分かもしれない。

 重く肩に食い込むカバンの中身は、教科書・問題集・ノートなどの勉強道具だ。三年生の受験時期にでもならなければ買うこともないだろうと思っていた問題集は、特別担当教官の義乃が指定する一冊だ。彼女の今回の追試にかける(おも)いがしっかり込められた非常に重量感ある一品である。

 そう、今日は、追試に向けた追い込みを図書館で行うことになっていた。そのために、こうして休みの日に勉強道具を持って駅前で待ち合わせをしているのだ。

 苦手だった数学は、この数日でかなり克服していた。義乃の指導は非常にポイントを押さえており、目から(うろこ)が落ちる感覚の連続だった。いかに今までの自分の取り組み方に問題があったのかがわかる。

 それでも、今日の勉強会を宣言したときの義乃の笑顔を思い出すと、不安を感じずにいられない。朝から図書館にこもって、一日を乗り切ることができるのかと……。

 もちろん、不安以外にほのかに期待する面もあったが、今は邪念に(とら)われていては途中でギブアップしかねない。邪念を捨て去るように、気持ちを切り替えようと、グッと拳を強く握りしめる。

「お待たせー」

 必死になっている末永の目の前に、天使が舞い降りた。

 私服姿の義乃が「やぁ」と軽やかに立っていた。

 普段、見ることのできない私服姿。思わず脳内録画のボタンが人知れず押されたとして誰が責められようか。いや、責められまい。見慣れた制服とのギャップに跳ね上がる胸の鼓動を男子学生なら感じずにはいられないはずだ。

 思わず口を開けて見とれてしまった末永だったが、しかし、あることに気がつく。

 にこやかに自然な仕草で振る舞う、義乃のその肩にはとても丈夫そうなバッグがかけられていたのだ。

 否応(いやおう)なく末永は、現実に引き戻される。

 バッグの口から見える何かについて、正体をあえて確認するまでもない……。明らかに、参考書だ。

 末永の頭の中は、今日を生き延びるための可能性を探る作業で一気に埋め尽くされた。心の中を埋め尽くす不安は、「ちゃんと北口で待ち合わせ、今日は間違えなかった」という義乃の独り言を完全にシャットアウトしていた。

 しかも、両手をグッと握りしめ何かを確かめるように(つぶや)いた義乃の姿も見逃していた。時折見せる子供っぽい仕草は、この数日で末永の心を激しく突き刺していた。だが、今の末永は折角(せっかく)のチャンスを自ら放棄したに等しい。本当に残念である。

 仮に、義乃のつぶやきを聞いていたとしても、そのひとりごとに潜む違和感に気づくことはなかっただろう。少なくとも、ハードな一日の始まりに、余計な邪念を増やさずにすんだことを幸いとするしかない。

「いや、待ってないよ。それより、休みの日まで俺の勉強に付き合わせて悪いね」

「いいの、いいの。好きでやってることだから」

「女子同士で、ショッピングとかカラオケとか遊びにいったりしないの?」

 義乃の軽い調子に乗せられ、末永の口からこぼれる何げない質問。義乃は、一瞬表情を曇らせたように見えたが、

「そーでもないよ。私、友達少ないし、気にしないで」

 返ってきたのは、いつも通りの明るい調子の言葉。気にする様子もなく手をヒラヒラと振っている。しかし、その言葉に末永の方が戸惑ってしまった。

 思い返せば、義乃はクラスで少し浮いた存在かもしれない。もちろん、いじめられている様子はないし、クラスメートとも楽しそうに話している。しかし、少し違和感があった。

「ほら。図書館へ出発だよ!」

 そんな、末永の思考とは裏腹に、聞こえてくる明るく元気な義乃のかけ声。

 軽く駆けだし、振り返る姿は(まぶ)しく、梅雨入り前のどんよりとした雲も吹き飛んでしまいそうだ。

「よろしくお願いします、先生!」

 心配事など、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまう。

 末永の言葉に、義乃は「よろしい」と少し得意げに胸をそらし、目を細める。

 そして、二人は図書館へ向けて歩き出した。


         ◇


「ん~~~~、あ~~~」

 末永は、大きく伸びる。途中からは、あくびに変わっていった。

 義乃の用意したお昼ご飯を食べ、午後の勉強を初めてしばらくした頃だ。食後のこの時間帯が一番眠い。体の反応はいたって素直だ。

「大きなあくびだね」

 義乃は、喉の奥まで見えそうな大きな口を眺めながら感想をもらすと、

「気合いが足りませんよ?」

 と付け加えた。

「さっきお昼ご飯食べたばかりだし。しかも、あんなにうまい弁当を食べたら、気が抜けて眠くなるってもんだよ」

「それは、お粗末様でした」

 何と、ランチは義乃が用意した弁当だったのだ。


 あの、重そうなトートバッグの中身は参考書だけではなく、底に弁当箱が隠されていた。

「まさか、弁当が隠されていたとは!」

 末永の素直な驚きに対して、

「バランス的にも、汁物が万が一染み出してきたときのことを考えても、普通だよ?」

 と、いたって冷静な突っ込みが返ってくる。

 さらに、

「もちろん、今時のお弁当箱はパッキンが付いているから、汁が漏れたりしないけどね」

 とも付け加えられる。

 そして、図書館の横にある公園の木陰に設置されたベンチで、隣り合う二人の間にお弁当箱とコップと箸などが二組置かれ、奇跡のランチタイムが始まった。

 末永の脳内を占有する弁当。それは、とてもよくできており絶品だった。

 普通なら、初めての女子の手作り弁当に緊張して味もわからなかった、という悲劇が起きてもおかしくはない。そんなシチュエーションだ。

 しかし、そのときの末永は、まさに色気よりも食い気。午前中の猛勉強で、すっかり消耗した脳みそと体は栄養を欲しており、とにかく食べた。空腹は最高のスパイスと言われるが、それを差し引いても十分に満足していた。


 そんな、一時間ほど前に起きた出来事を思い出し、末永の表情が緩む。

「ごちそうさまでした」

 肘を張った状態で両手を机に置くと深々と頭を下げ、改めてお礼を伝えた。

「もう、さっきも、聞いたよ-」

 義乃の少し困ったような、(うれ)しそうな表情に思わず視線が吸い込まれる。

「ごめん」

 何に対して謝ったのかわからない謝罪だったが、特に気にされることもなく、勉強が再開されようとしていた。

 そのとき、末永が机に着いた手をどけるときに、消しゴムを飛ばしてしまい、机の横へ転がり落ちてしまった。

 慌てて二人が体を乗り出して、腕を伸ばす。

 伸ばした先で、触れる手と手。

 末永は、しまったベタなことを、と思わず手を引こうとしたが、それよりも早く相手の手が引き戻され――。

「わっ」

 聞こえてきた声とともに、義乃が盛大に床へ転がった。

「へへへ、バランスを崩しちゃった……」

 上体を起こし、床に座り込むと、末永を見上げて笑った。

 しかし、その表情は少し青ざめ凍り付いていた。

「大丈夫?」

 と、末永が手を差し伸べるが、「大丈夫」と言って自力で向かいの元いた椅子へ戻った。

 姿勢を正して、大きく深呼吸をすると、

「うん、もう、大丈夫だよ。ちょっと転んでびっくりしただけ。心配してくれて、ありがとう」

 義乃は、いつものように笑った。

 そして、また鬼教官のオーラを出し始めた。

「もう少し、ラストスパートだよ」

 気合いを入れるように、顔の高さで力強く拳が握りしめられる。

「は、はい……」

「これが終われば、末永くんも学年でトップクラスだよ!」

 そして、小さく「中間テストまでの範囲ならね」と小さく付け足した。

「追試に通れば良かったはずだったんだけどね」

 義乃の熱気に完全にあてられ、苦笑いで本音をもらす末永には、付け足されたつぶやきは聞こえていなかった。

「何を言ってるの? やるならトコトンだよ!」

 当然、特別教師は手を抜いてはくれない。

「やってやりますとも!」

 既に、やけくそ気味の末永は空元気を振り絞って返事をする。

 時計の針は、まだ午後の二時を過ぎたばかり。

 その後、夕方の閉館時間まで、義乃先生の熱血指導は続いた。

 定期的に休憩を挟みつつも、それは、それは、徹底的に。


         ◇


 そうして、追試の日を迎えた。

 追試は放課後に行われ、すぐさま教壇で採点が行われる。

 末永は席に座ったままのため、具体的な状態はわからない。

 緊迫した空気が流れているようで、担当教師は鼻歌交じりに手を動かしている。補習やら追試で余計なことをしなければならない現実を面倒に思っていないのだろうか。しかし、末永に教師の気持ちを推し量る余裕はなかった。

 答案は直接見えなくとも、丸を描いたり、はねるようにペンを走らせたりする動きや音は聞こえるのだ。気になって仕方がない。

 いったいどれだけの時間を待ったのだろうか、と末永が考え始めた頃、教師がペンのキャップを閉じて教壇に置いた。

「末永」

「はいっ」

 返事をして、立ち上がる。そして、生唾を飲み込みながら教壇へ近づく。

「最初から、これくらいやってくれると先生も安心なんだがな」

 そう言うと、答案を目の前に突き出す。

 末永は、答案を受け取ることもせず、書かれた点数だけ見て、

「よっしゃ」

 全身で、ガッツポーズをとる。

「おぃ、さっさと受け取って、帰れ、帰れ」

 教師が、答案を無理矢理に押しつけるように手渡し、立ち去る。出口へ向かう後ろ姿は、手をヒラヒラ振って帰宅を()かしていた。

 はやる気持ちを抑えられずに、筆記用具などをカバンに詰め込み廊下に出ると、

「そろそろ終わる頃だと思って待ってたよ」

 テスト疲れなど一気に吹き飛ぶ極上の笑顔。採点中に削り取られた精神力も一瞬にして全快間違いなしだ。

 末永自身も自然と笑顔になる。そして、黙って答案を目の前に差し出す。

「おめでとう」

 ありきたりだが、これ以上ない祝福の言葉だ。

 追試に合格したことは、もちろん(うれ)しかったが、義乃がわざわざ待っていて、祝ってくれたのだ。これほど、嬉しいことはない。末永の思考回路が停止寸前になっても、おかしくはなかった。

 そして、本能が体を動かし、義乃の肩に手を置くと――。

「守野さんのことが好きなんだ。付き合ってほしい。高校入っていきなり赤点とっちまうような情けないヤツだけど。これから、守野さんに釣り合うような男になれるように頑張るから!」

 感謝の言葉よりも先に、気持ちがあふれていた。

 しかし、いつもマイペースな義乃が、固まって顔を蒼白(そうはく)にし、震え始めた。

「あ、わ、え、そ、の」

 がくがく、震えて何か話そうとするが言葉にならず、大きく見開いた瞳は末永を見ているようで違うものが映っていた。

 ほほには、あふれた涙がつたわり、嫌々をする子供のように顔を左右に振りながら、足が後ろへ下がり出す。


『義乃、愛しているよ』


「い、や……。わ、あ、も、じゃ、な……」

 突然の出来事に驚いた末永は、両手を義乃から放した。すると、義乃は両手を自分の両腕に回して握りしめた。


『おまえは僕だけのものだ……』


 少し後ずさると、すぐに壁に背中が当たる。


可愛(かわい)いよ、可愛い……義乃』


 義乃の耳には、自分への耽溺(たんでき)した(おも)いが聞こえる。


『いつまでも、僕のそばにいておくれ……』


「守野さん……」

 末永が手を差し伸べようとする――。

「いやっ」

 しかし、勢いよく振り払われる。


『おまえのことを、一生大切にするよ……』


 大きな影が両腕を広げて義乃の前に立ちふさがる、少なくとも本人の目にはそう映っていた。

 弱々しく振り回す腕はむなしく空を切り、(おび)えた様子はいつ崩れ落ちても不思議ではなかった。

 取り乱した義乃の様子に末永はどうして良いかわからず、戸惑うことしかできない。伸ばした手は振り払われたまま宙を彷徨(さまよ)っていた。

 そのとき、遠くから昔懐かしい子供向けアニメのテーマソングが聞こえてきた。吹奏楽部の練習なのだろうか、フルートの優しい音色が廊下に響く。

 辺りを包む快音に義乃が反応し、何かを口ずさみ始める。


――うつむかないで、そうすれば、きっと明日はやってくる――

――素敵な将来(あす)がやってくる――


 ぼそぼそと、動かす口からもれる声は小さくかすれていたが、不思議な力強さがあった。

 義乃はうつむいていた顔を上げ、ほほを()らす涙に気づくと、必死に袖で拭き始める。

「えっと、その……、ごめんな、さい。私、行かなきゃ……」

 涙が拭き取られた瞳は赤く充血していたが、今は不安や(おび)えの色は見えない。ちゃんと末永が映っている。

「追試を手伝うだけって約束だったから……、ごめんなさい。さようなら」

 それだけ言うと、一度深々と頭を下げ、全力で走り出した。

 突然のことで末永は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くすことしかできず、黙って走り去る後ろ姿を見送った。


『私は、追試対策として勉強を手伝うことしかできないけど、これから毎日、放課後は私と数学の勉強ね』


 あのときの、あの台詞(せりふ)は本当に言葉通りだったのだ。

 たしかに、『手伝うことしかできない』と言っていた。

「嫌われたよな……。何を勝手にひとりで盛り上がっていたんだろ。守野さんも最初に言ってたよな。人生の恩人への恩返しだって……」

 つぶやいて、何となく状況を理解しようとする。

「って、そんな簡単に割り切れるわけない。しかも、何? あの反応は……。ただ、嫌われたとか、気持ち悪がられたとかって感じじゃないよな……」

 苦虫をかみつぶしたような表情で、力一杯に拳を握りしめる。

「どうしたら、良いんだよっ」

 結局、追いかけることもできず、義乃に対して何かできるのだろうか、という自問に答えられるわけもなく、義乃の走り去った廊下の先を(にら)み付けた。

 いつしか、フルートの音は聞こえなくなり、廊下には遠くで響く運動部員のかけ声だけが、かすかに届いていた。


         ◇


 屋上を吹き抜ける風が髪を優しく()でて、涙で腫らした顔を都合よく隠してくれる。

 誰もいない屋上で恥ずかしがる必要はないが、そこは花も恥じらう女子高校生。仕方のないことだ。

 フェンスにもたれかかり、真っ赤に充血した目が、遠く街並みに向けられている。

「また、やっちゃったな……」

「そうだね。まただね」

 不意に背後から声がかかり、軽く金属のきしむ音とカチリとロックが閉じる音がテンポ良く聞こえた。

「まこちゃん……」

 義乃が振り返った先には、ベンチに座って楽器の入ってそうな四角い箱を膝に乗せた男子生徒が、座っていた。

「まこちゃん、言うな」

「ありがとう……、誠」

「どういたしまして」

 いつもの元気な義乃はどこにもおらず、しおらしく礼を言った。

「恩返しも良いけど、ほどほどにね。前にも同じようなことあったでしょ?」

 誠は、半眼で冷静に過去事例をちらつかせると、反省を促す。

「そのときは、女の子だったけど……」

 そうじゃないでしょと、()め息がおまけされた。

「仲良くはしたいけど、……ダメなのかな」

「みんなが同じ考えとは限らないからね、人の気持ちが思い通りにならないことなんて、ほっちゃんが一番よく知っているでしょ?」

「ほっちゃん、言うなっ」

 真っ赤に腫らした目をぎゅっと閉じると、舌を思いっきり出して示される抗議の意志。

「はい、はい。さ、帰ろうか。帰りにゴロゴロいちごをおごってあげるよ」

「やったね」

 泣いていたカラスが一瞬にして笑顔を取り戻すと、校舎内へ続く扉へ向かって歩き始める。

「受けた恩を律儀に返しに来てくれるけど、近づき過ぎるといなくなってしまう……ね。恩を返される方もつらいけど、返さずにはいられない方もつらいし。いっそ、返してもらわない方が、偽りでも幸せでいられるかもしれない……。人は見返りのために、何かをするわけじゃないしね」

 誠は、義乃の後ろ姿を眺めてつぶやくと、よっこらしょと立ち上がる。

 早くと()かす義乃の笑顔は、屈託なくいつも通りの輝きを見せていた。


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