今と思い出とすべてと一部~臆病者の見た世界~
いつからかなんて思い出せないくらい昔から、君のことが好きだった。
――――それこそ、君以外、目に入らないくらいに。
第一章
停滞した空気と、教師の単調な声。あと三十分我慢すればいいだけだというのに、睡魔の誘惑に負けた奴が数人見受けられる。隣の女子生徒もその一人なわけだが、いかんせん動きが大きい。前後に大きく、それでいて鋭角的な動きで舟を漕ぐその姿は、何かに取り付かれているんじゃないかと思うほどだ。
残念ながら、そいつをそのまま寝かせておくほど僕――姉川京哉は優しくない。小声で声を掛けつつ、肘でつついた。
「……ほら、起きてー?」
「……う、ごめん」
返事はしっかりする辺り、睡眠学習に移行しようとする意思は無いらしい。あったらあったで認める気はないけれど。
「きりーつ、れーい、ちゃくせーき」
欠伸を噛み殺しながらの号令にのろのろと頭を下げて、帰る準備を始める。その手を、前に座る友人の声が止めた。その声に、いつしか得意になっていた笑顔で対応する。
「やー、今日も終わったな」
「そうだねー、ま、明日もあるんだけどね?」
意地の悪い返答をすれば、友人は「それを言うなよー」と苦笑いし、すぐにそれを引っ込めた。
「……でさ、ちょっと聞きたいんだけど」
その真剣な顔に誘われて、自然と表情が引き締まる。何が飛び出すか少しだけ危機感を感じながら、次の言葉を待った。
「……お前、碓氷と付き合ってんの?」
「……は?」
一言で言えば、拍子抜け、だろうか。眠気覚ましに水でも飲みに行ったのか、空になった隣の机へと思わず目をやる。
そこの持ち主は、今話に上った僕の幼馴染。名前は碓氷紗代、少し冷めた態度の女子生徒だ。そして、僕の想い人でもある。
まあ、紗代のことは一旦置いておいて。その質問は中二のときから聞き飽きたもので、今更漫画のような否定の言葉で肯定するなんて器用なことはしない。
「いやいや、そんなんじゃないよー?ただの幼馴染ってことで」
「ふーん……でもよ、ただの幼馴染が高校にも入って一緒に登下校したりどこかに出かけたりするのか?」
それに対しての答えも、用意済み。
「昔からそうだからねー。もう、それが普通みたいな感じ?」
「そういうものか?」
「そういうものだよー」
そこで話を切り上げ、鞄に教科書を詰め込む作業を再開する。友人もその答えで満足したらしく、机に向き直った。
大して大きくも無い鞄に教科書類を詰め込み終えても、紗代は帰ってこなかった。鞄はまだ残っているから、帰ったわけではないと思うんだけど。とりあえず、聞いてみるのが早いか。紗代と仲のいい一人に話しかける。ちょうど扉の側だから、見ているはずだろう。
「ちょっとごめん、紗代のこと知らない?」
「え?紗代ちゃん?うーん、なんか手紙みたいなの握り締めて、どっか行ったけど……告白かな?」
告白、その言葉だけで、僕の胸には焦燥にも似た感情が去来する。急き立てるような、取り返しがつかなくなることへの恐怖のような。時期尚早だと諌める声と、こっちの方が取り返しがつかなくなると制止する声を振りほどいて、僕は焦燥の叫びに身を委ねた。
どこをどう移動したかなんてわからない。気がつけば、僕は体育館の横を走っていた。告白なんてした事も無い弱虫だから、どこでしているかなんて見当もつかない。ただ遠い昔に紗代と読んだ少女マンガの情報を元に、脊髄反射で走っている。
「……なんだ……」
「……けど……の……」
当たりだった。さすがに飛び出していくのは野暮だと感じて、体育館の角から様子を窺う。告白しているのは隣のクラスの奴だろうか。というか、落ち着いて考えれば告白かどうかも怪しいわけだし、勇んで飛び出してきた自分が恥ずかしい。何も無ければ戻ろう。
そう決めても、何となく戻ることができない。足が接着されたかのように地面から離れず、僕は黙って人の告白を聞いていた。
「本当にごめんなさい。私、好きな人がいるから、あなたの想いには答えられない」
できるだけ聞き流そうとしていた会話の中に、看過しえぬ言葉を聞き、思わず耳をそばだてる自分が女々しい。しかもそれが自分だったらいいなんて思うのは、たぶん生来の弱虫のせいだろう。
「……それって、姉川のこと?」
「……うん、そう。ごめんなさい」
足音が一つ、反対側へと消えたのを聞きながら、僕はさも今来た風を装って、角を曲がった。驚きに見開かれる目から視線を外して、男子生徒が去って行った方向を睨む。
「……見てた?」
「……紗代って、もてるんだねー」
「これでもね。って、やっぱり聞いてたんだ」
案の定、ごまかせなかった。まあ、隠すつもりは無かったんだけど。けれど、あくまで最後の言葉は聴いていないことを主張しようとして、墓穴を掘るだけだと口を噤む。
「……そっか、聞かれちゃってたか。じゃあ、もう一回言うね。私は、京が好き」
当事者の意思とはかけ離れた、不本意と言っても過言ではない告白。僕たちの間にあった気まずい空気を吹き飛ばしてもなおおつりが来るその言葉に、僕はとっさの反応ができなかった。何を言うべきか、どう動くべきかなんて決まりきっているのに、なかなか脳はその指令を下さない。いや、下せないというべきか。
凍りつく僕を前に、紗代は明るかった顔を見る見るうちに曇らせていく。スカートを巻き込んで握り締められたその拳は、掌に爪が食い込んで痛そうだ。
「……ごめんね……迷惑だったよね!ごめん!あの、今の忘れて!?」
搾り出した謝罪の後、とってつけたような明るさで、声の震えを必死に隠す紗代。その、今にも泣き出しそうな瞳を見て、僕はようやく固まっていた脳を動かした。
「ッ!いや!……そうじゃないんだ。ごめんごめん。驚いて……いや、嬉しくて固まってたよ。ありがとう。僕も、紗代のこと好きなんだ」
照れくさくなって視線を逸らす。むず痒い感覚を抑えるように、後頭部を掻き毟れば、紗代が唐突に吹き出した。
「ぷっ、あはは!びっくりしたー。久しぶりに泣くかと思った。……でも、よかった」
半分以上吐息と化した安堵の言葉を吐き出しながら、紗代がその場にへたり込む。
「え!?ちょっ!」
狼狽して駆け寄った僕の声に、紗代の笑い声が重なる。どうやら、体調不良とかではないらしい。……そんなにおかしいことがあったかな?
それからしばらくして、僕が真面目に紗代の精神を心配し始めた頃。
ようやく、紗代の笑い声が止んだ。
「……あー、笑ったー!こんなに笑ったのは先週以来かもしれないね」
「そこまで面白い?」
少し突っ込みどころのあった紗代の言葉に、反射的に突っ込んでしまった僕に、紗代はふわりと、僕ですらあまり見たことの無い顔で笑った。
「だって、断られたかと思ったら受け入れられてたんだよ。驚いちゃって、笑うしかない感じだね」
「だからってそこまで笑うことないんじゃない?」
「面白いからいいじゃん」
いきなり座り込むから、何かあったのかと驚いたじゃないか、とはそこまでこだわることではないから、言及はしなかった。
その代わり、手を貸して紗代を立たせる。服についた土を払い落とした後、紗代はもう一度、今度は声を出さず、満面の笑みを作った。
「じゃあ、これからもよろしくね、京」
「こちらこそ、紗代」
たぶん、僕も同じように、笑っていたのだろう。
第二章
「紗代、帰ろうか」
「あ、少し待って」
ずいぶんと唐突にやってきた告白の後、僕たちはクラスメイトには秘密にしたまま、今まで通りを装って過ごしていた。堂々と公言するほど、僕達はバカップルではないのだから。
教室を出て、校門を通り過ぎ、いくつかの曲がり角を曲がる、いつもの帰り道。季節は春から夏へと着実に移ろい、咲き誇っていた桜はいつの間にか緑へと色彩を変えた。そんな普通の日。いつも通り肩が触れ合うくらいの距離を歩いていた紗代が、二歩、僕の前に出た。いつ話題を切り出すべきか悩んでいた僕は、その行動に一旦思考を止める。
「……ねぇ、デートしよっか」
「奇遇だね、僕も同じことを考えてたよ。……この近くの、動物園なんかどう?」
いつ話を切り出そうか悩んでいたことが嘘のように、すらすらと言葉が飛び出していく。これだから、紗代とは話しやすい。
「いいね。小さい頃に行ったきりだっけ」
そうか、行ったことあるんだった。けど、小さい頃のことだし問題はほとんどないだろう。
せっかく行ったことの無いところを探しても、ここら辺一帯は小さい頃から探検と称して渡り歩いてたから、知らないことなんてほとんど無いんだよね。何らかの移動手段を使って遠くに行くしかない。けれど、そこまでの知識は無いわけで。結局は行ったことが無さそうな場所を選ぶしかない。
「……そうだね、久しぶりに行ってみるのもいいんじゃない?」
「もちろん。じゃあ……土曜日なんてどう?」
僕の予定なんて、特に無いのだから、考える暇なんていらずに即答する。こくんと頷けば、嬉しそうに紗代は笑う。僕がいつしか忘れかけていた、心からの笑顔。
「オッケー、じゃあ土曜、つまり明日の十時にここね」
僕と紗代の帰り道が分かれるY字路の中心で立ち止まる。『ここ』の意味を正確に把握したかどうかはさておいて、意味は伝わっただろう。
「分かった。十時にここね。じゃあ、また明日」
綺麗にターンした紗代から目を逸らし、自分の帰り道をたどる。
家の扉を開ければ、見慣れない靴が一足、玄関に置いてあった。少し頭を捻って、姉さんのものだと思い至る。げんなりとする気分を押し殺して、笑顔を作った。
「……たっだいまー」
「お、帰って来た。久しぶりだねー、京哉」
「来てたんだ、姉ちゃん。久しぶりだねー」
いつも通りに応対すれば、姉さんの目がすっと鋭くなり、口許の笑みが消える。何か、怒らせることをしただろうか。していないと思うのだが。
「……その作り笑いを今すぐやめなさい」
「あれ、ばれてた?」
「当たり前でしょ。仮にも姉なんだから」
そんなこと言ったって、母さんは気づかないのだけど。まあ昔から勘は鋭かったし、そういうことにしておこうか。
作り笑いを引っ込めて、真顔に戻す。姉さんの正面に腰を下ろした。
「……それで、今日はどうしたの?」
「別に?特に用はないわよ。ただ、二日くらい暇ができたから、家族の顔を見に来ただけ」
「ふーん、あ、でも僕明日出かけるから、それだけよろしく」
「何?デート?」
途端に食いついた姉さんの顔を押し返し、いたずらめいた笑顔を作る。
「紗代と。昔からそうじゃん」
「なーんだ、面白くない。やっと彼女ができたかと思ったのに」
「そういうのに興味は無いからねー」
用が無いと分かった時点で、ここに長居する理由は無い。明日の準備や学校のことなど、やることは色々あるのだから。
「それじゃあ、僕は部屋にいるから。何かあれば呼んで?」
軽い返事を背に、投げ出した鞄を背負い直して階段を上る。
部屋の扉を閉めて、ほっと息を吐く。やっぱり、本心を晒すのは勇気がいるものだ。臆病な僕には、それができない。だから、笑って誤魔化す術を身に付けたわけだけど。
ネガティブな感情は頭を振って追い払い、鞄を開いた。
二
寝不足の頭をどうにか覚醒させて、私――碓氷紗代は家を出た。今日は京と出かける日。私は喜び勇んで待ち合わせしたY字路に向かった。気を抜けば、すぐにスキップを始めてしまいそう。
待ち合わせの二分前なのに、すでに京はそこで待っていた。携帯の画面を見ながら、いつもの笑顔で電柱にもたれている。私はその姿に、思わず声を掛けていた。
「京、お待たせ」
「……いや、特に待ってないよ。おはよー、紗代」
昔は臆病で、すぐに泣いちゃうような奴だったのに、今では初対面でも笑うようになって。一つ、私の知っている京が消えたような気がして、少し寂しい。けど、それ自体はいい変化だと思うから、そんなことは口が裂けても言えないけど。
「おはよう」
私は目付きが悪く見えるみたいだから、できるだけ明るいトーンで返事をする。不自然じゃないといいけど。
と思ってたら、不意に京の手が私の頭に乗っかった。
「無理しなくていいんじゃない?紗代はそのままでいいじゃん」
よくもまあこんなにも察しがいいのは初めてじゃないだろうか。でも、京のお姉さんも勘の鋭い人だったから、そういう家族なのかも知れない。
頭に乗った掌の大きさは、兄のような、父親のような優しさを感じさせた。
「行かないのー?」
「あ、ごめん、今行く」
すでに数メートル先にいた京が振り返る。急かされたわけではないけど、私は小走りで駆け寄って、隣に並んだ。
三
電車と地下鉄を乗り継いで、遠い昔、とてつもなく大きかったはずのゲートをくぐる。いつの間にか、飛び上がれば手が届きそうだった。
「なんか、ものすごい大きいイメージがあったけど、今見るとそうでもないね」
「そうだねー。まあ、視点が高くなったし、いつの間にか記憶の中で大きくしてたんじゃない?でも、僕も同じこと考えてたよ」
二人で同じことを考えてたなんて、珍しいことじゃない。だけど、何故だか嬉しかった。
入り口で貰った地図に目を通して、どう見て回るか検討する。
「うーん、ここからぐるっと回ってまた戻ってくればいいんじゃない?」
「そうだね。難しく考える時間がもったいないし」
人の流れは、土曜日だからなのかあまり多くは無い。無理やり割り込む必要も無く、私たちは流れに乗った。
「けど、いきなり猛禽類かー」
「そう?かっこいいし、いいんじゃない」
私はもう少し可愛い方が好みだけどね。そういえば、「紗代らしい」と言われてしまう。まあ、昔はハムスターなんかも飼ってたし、私のことを分かってくれている気がして嫌ではなかった。けど、すべてを知ってしまっているのは、少し面白くない気もする。
「おー、結構大きいんだねー」
「羽をたたんでてあの大きさなら、広げたらどんなになるか、見てみたいな」
「うーん、あの檻の中で飛ぶには無理があるだろうねー。残念だけど」
あまり長居をしては後ろにいる家族連れに迷惑だし、全部を回る時間もなくなってしまう。僅かな期待を抱いて、最後に一瞥したけれど、羽を広げている姿は終始見られなかった。
ゆったりのんびり、人の流れに乗っては降りて、動物園を気ままに回っていく。爬虫類に背筋が凍ったり、落ち着きの無い狐に話しかけてみたり。京は笑顔を崩さないで、私の隣に立っているだけだった。楽しくないのかと聞けば、答えはいいえだったけど。
「そろそろお昼にする?」
「そうだねー。確か、少し進んだとこに休憩所があるみたいだから、そこにしようか」
京の言葉通り、カーブを曲がった先に、動物の檻とは違う建物が屹立していた。
「お、結構メニューはあるみたいだねー、どうする?」
「無難にハンバーガーかな。京は?」
「醤油ラーメンかなー。じゃ、買ってくるよ」
予想通りというか、たぶん前に来たときも頼んだ気がするメニューを持って、空いている席を目指す。どうにか端のほうに見つけた椅子に腰を下ろして、それぞれの昼食を黙々と嚥下していく。デートなら普通会話があってしかるべきだけど、私の母は食事のマナーには厳しい人だから、京も私もそういうことには慣れてない。そういうわけで、会話をするにはさっさと目の前の食べ物を胃へと送り込むしかない。別においしくないわけではないんだけど。どっちの優先順位が高いかと言えば、答えは決まってるので。
いつもの数倍の速さを保ったまま、かつ行儀の悪くならないように気を使って、私が食べ終えるのとほとんど同時に京が食べ終わり、二人で片付ける。
「……じゃあ、この後はさっきみたいに回るんだよね?」
「うん、このルートだと……あ、小動物館だよ」
すっかり折り目の付いた地図を広げて、道を確かめる。いちいちこんなことをしなくても道端に立てられた看板に書いてあることが多いのだが、京は確認したがる。まあ、昔から計画とかを重視するタイプだったしね。
「それじゃ、行こっか」
席を立って、空席が目立ち始めた店から外へ出る。すっかり夏へと変わった風が、頬をなでた。
「小動物館はーっと……あっちだねー」
京の横に並んで歩く。道の先で、少し年下くらいのカップルが歩いていた。
私たちよりもゆったりした歩みらしく、距離がどんどんと縮まっていく。私たちが追い抜かす少し前に、顔を真っ赤に染め、なおかつ彼氏から背けた彼女が、彼氏の手を掴んでいた。
よく分からないけれど、なんとなく羨ましい関係だった。行動というよりも雰囲気が。長年連れ添ったような雰囲気に反して初々しい動作は、私たちと同じ幼馴染かな、と少し思ったり。そうだとしたら負けてられない。たぶん私たちの方が年上だし。
妙な意地に後押しされて、私は京の指に自分の指を絡めた。
「おや?どうしたのかなー?」
「ちょっと繋いでみたくなっただけ。いいよね?」
「まあ、僕に文句は無いよ」
少しだけ、距離がまた縮まった気がした。
四
行きと同じように地下鉄と電車を乗り継いで、僕達は待ち合わせ場所へと帰ってきていた。太陽も地平線に半分消え、西の空から世界を橙色に染め上げている。その光から目を背けながら、特に惜しむほどの名残は無いはずなのに、なんとなく二人とも解散を言い出せずにいた。今日の感想なんかをとりとめも無く話し合って、帰宅を先延ばしにする。それも、限界はあった。
「 じゃあ、そろそろ帰ろっか。また明後日だね」
「そうだねー。じゃ、また明後日、いつも通りここってことで」
Y字路に帰着してから、三十分くらいだろうか。太陽も残光を残すだけになり、夜の闇が本格的に迫ってきた頃。ようやく僕達は分かれ、それぞれの帰り道を辿ることにした。とはいえ、分かれてから二百メートルも歩かないのだけど。
「たっだいまー」
「お帰り。夕飯は後三十分くらいでできるよ」
珍しく二人いる台所から、姉さんの声が届く。感想も質問もしないのは、それが当たり前になっているからなのかな。それはそれで僕と紗代の関係が疑わしくなっちゃうからやめて欲しいんだけど。
なんて冗談めかして、今日、芽生えてしまった疑問には蓋して鍵をかけた。
第三章
『恋人』として過ごした最初の夏休みは飛ぶように過ぎ、いつの間にか二学期が始まってしまった。その間、デートには何度か出かけたが、手を繋ぐ以上のことは何も起きてないし、それ以前に目新しいところに行っていない。精々近くの喫茶店に寄り道する程度。
そんなこんなで時は移ろい、暦はすでに晩夏、十五夜も過ぎた日。
「紗代、海にでも行ってみないー?」
今日も今日とて何の変哲も無い一日の後。例によって例のごとく、僕はY字路まで散々迷ってから、この言葉を吐き出した。
「海?どうしていきなり」
「あーいや、ピークは過ぎたけど、まだ残暑で暑いじゃん?だから、少しは空いてきたかもな海で涼んでみたりしない?別に海水浴とかそういうわけじゃなくてもいいしね」
多少、日本語がおかしくても目を瞑っていただきたい。笑顔を絶やさないだけで必死なのだから。断られているわけじゃないけど、一応怖いので。
「あー、良いねそれ。どこの……ってこの近くなら漁火ヶ浜くらいだね。じゃあ、どうする?いつが良いかな」
一応の了承を受け、内心でほっと胸を撫で下ろす。そこで、一応当たりをつけていた日にちを伝えた。
「んー、敬老の日なんてどうかな?まだ人は多いかもしれないけどね」
「うーん、混むのは嫌だから、その前の土曜日なんてどう?皆そう考えるかもしれないけど」
「いやー、どうだろねー。まあ、土曜日でいいんじゃない?」
どちらが混む可能性が高いかを考えれば、敬老の日だろう。土曜日に仕事がある人だっているだろうし。まあ、微々たる差だと思わないでもないけど。
「分かった。じゃあ、土曜日にここね。海水浴?」
「どっちでも構わないよ?ただ、九月だから、入らないほうがいいんじゃない?」
実際、海水浴客で賑わう漁火ヶ浜の映像は、夏休みに何度も見た。あそこは水と砂浜が綺麗だからね。けれど監視員とかは八月当たりまでしかいないから、危険はあるかもしれない。そんな能天気な僕を前にうんうんと悩む紗代は、まだ何か言いたげな雰囲気のまま、答えを出した。
「う~、じゃあ入らないってことで。そういうことでまた明日ね」
大きく手を振って去って行く背中を見ながら、何を渋っていたのかと首を捻った。まあ、何かしらの理由があったのだろう。それが耐え切れないものならば、あそこで断っていただろうから、それ以上頭を捻っても時間の無駄になるだろうからやめた。
玄関に入ると、初夏以来見ていなかった靴が鎮座していた。
デートの約束によって膨らんでいた気分が、穴でも開いたかのように急速に萎んでいく。実の姉であるにも関わらず、作り笑いをするようになって以来苦手でならない。
「……たっだいまー」
「お帰りー、京哉。久しぶりだねー、二ヶ月ぶり?」
「そうだねー。夏休み前から会ってないよ」
懲りない態度で返事をすれば、大仰な動作でため息を吐かれてしまう。
「……まったく、言っても無駄だろうけど、一応言っとくわよ。その作り笑いをいい加減やめなさい。面白くもなんとも無いわよ」
また、その話か。言っても無駄ってことまで分かってるのなら、言わなければ良いのに。
「あんたがどうしてそんな風に偽るのかは知らないけど、見る人が見ればすぐに分かるわ。だったら最初からしない方が良いわよ」
なんとまあ、大学に進むや否やさっさと家を出て行った人が、珍しく真面目なこと言ってる。なんて失礼なことは考えるだけに止め、久しく聞いていなかった諭すような声音に乗っかってみた。怖くて仕方が無いはずなのに、口からはすらすらと言葉が飛び出して行く。ここ数年の修行の成果だろうか。だったらがんばった甲斐があったというものだけど。
「怖いんだよね、色々と。僕は昔から臆病だからさ、全部が怖い。僕の一挙一動に対する周りの反応が。不安ばかりが大きくなって、結局何もできない。小さい頃からそうだったでしょ?」
一旦言葉を切り、作り笑いの向こう側で姉さんが頷いたのを確認する。
「でも、紗代とか姉ちゃんとかはそうじゃなかった。それが羨ましかったんだよねー、ずっと。だから、思考を止めたんだ。不安を隠して、いつも笑っていれば大丈夫。そう思い込んで過ごしてる。だからさ、姉ちゃん、これは僕の武器なんだ。物語の主人公が持つ、剣のようなもの。それを取り上げないで欲しいな」
言いたいことだけ吐き出して、反応も見ずに踵を返す。怖い。怖い怖い怖い怖い。何を言われるかと身構えたけど、背後からは何も飛んでこなかった。
二
あれ以来姉さんは何も言ってこなかったけど、なぜか家に居座っているので警戒を解くに解けない。姉さんも何か言いたそうにしては目を逸らすばかり。何故家にいるのかの理由すらうまく聞けない。まあ、聞くのは少し怖いけれど。
そんなこんなで、迎えた土曜日。前日に必要そうなものは鞄に入れておいたから、後は家を出るだけだ。時刻は午後一時十五分、約束が一時半だからもうそろそろ出る時間か。
「それじゃ、出かけてくるねー。夕方くらいには戻ると思うよ」
「あら、また紗代ちゃんと?」
……そろそろ、さすがに気づかれただろうか。それもそうだろう、さすがに今までと頻度が違いすぎる。二、三週間に一回はどこかに出かけてるような状態で、今までの関係から変化していないと考えるのは鈍すぎる。疑わない方がおかしい状況に、着々と変わってきてしまっているのだろう。不本意ではあるが、家族にばれるのとデートを今までの頻度に減らすのとの二択なら、僕は間違いなく家族にばれる方を選ぶ。
「……まーね」
「そう、気をつけるのよ」
何も突っ込まれなかった。姉さんは鈍感なのか?それとも大人なのか。後者だと思いたい。
「はいはい、じゃ、いってきまーす」
まあ、どっちだっていいのだけど。
小さめの鞄を背負って、Y字路に向かう。時刻は午前一時二十五分、まだ紗代の姿は見受けられない。
何をするでもなくただ漫然と空を見上げて、物思いに沈んでいく。止めようとは思わなかった。
あの姉さんに疑われない恋人って、何なのだろう。動物園に行った、買い物に付き合った、近くの喫茶店に寄り道した、今から海に行く。デートだってしてるし、手を繋ぐくらいならやった。それなのに、動物園で見たようなカップルに、自分たちがなっているとは思えない。何がそうさせるのだろう。年月か、想いの強さか、はたまた別の何かだろうか。年月ならばこれから積み上げるつもりだし、想いの強さは誰にも負けない自負がある。じゃあ、何なのか。僕達は傍から見て恋人同士に見えているのか?
もしかしたら根本から間違っていたのかもしれない。何しろ、やっていることが幼馴染のときと変わらない気がしてくるのだから。付き合っていない男女だって、仲がよければそれくらいやるだろう、みたいなことしかやっていないのではないか。
そんなはずは無い。僕達は、『恋人』なのだから。誰がなんと言おうと、絶対に。
「京、お待たせ」
その声に従って、僕は物思いから顔を上げた。
「じゃあ、行こっか」
三
漁火ヶ浜の海は、予想に反してあまり人はいなかった。まあ、九月に入れば海の家なんかも店じまいらしいから、当然といえば当然か。ここまで来るのに案外時間がかかったこともあって、時刻は午後三時、いくつかの家族やカップルが、波打ち際で遊んでいるくらいだ。それらの人だって、そろそろ帰りそうな雰囲気を醸し出している。
「じゃあ、とりあえず荷物は置いて、波打ち際まで行こうよ」
「そうだねー。じゃあ、荷物はこの辺でいいかな?」
手近な堤防の上に置いて、紗代の手を引く。どんな反応をされるか戦々恐々だったけれど、紗代ははにかむように笑って付いて来てくれた。
水着とかは持ってきていないから、派手に水を掛け合ったりとかはできない。裾をまくって、波打ち際、水が来るか来ないかのところで遊ぶ。
それにも少し疲れを覚えて、僕は一度荷物のところまで引き上げた。紗代はまだ、波打ち際で波と格闘している。その姿は危なっかしくて見ていられないほどだ。
「転ぶと悲惨だからねー、気をつけてよ?」
「大丈夫。それくらいは気をつけてるから」
その発言はフラグにしか聞こえない。少し危機感が芽生え、僕は何気ない振りをしながら紗代へと近づいた。
波から逃げて遊ぶ、子供のような紗代の横について、遮るものが無い西日から目を背ける。いくら日が長いとはいえ傾きは徐々に急になり、青い空が赤へと移ろっていく。そんな光景に言葉を失っていたら、隣から小さな悲鳴が聞こえた。
「おっ……とー。気をつけてって言ったじゃん」
予想通り転んだ紗代を間一髪で支え、全身がずぶ濡れになるのを避ける。その代わり、僕の膝に少し水が飛んだ。
「ごめんね、ちょっとぼんやりしてたんだ」
そのぼんやりの内容すら、僕はなんとなく察してしまう。幼馴染という奴は、こういうときに便利で不便だ。知りたくなんて無いのに。否が応でも察してしまう。
「……それでも僕達は恋人だよ。今までと変わらないなんて事無いんだからね」
抱きとめた紗代のぬくもりを無くさないように、小さく呟く。
それは何の解決でもない、ただの先延ばし。ただ怖がるだけの能無しが、せめて時間を稼げるようにと目を瞑り、相手にもそれを押し付ける、愚かな選択。
目を瞑れば、どうしたって他の感覚が鋭敏になる。だからほら、聞こえるでしょ?破綻の足音が。ゆっくりと、無機質に、徐々に大きくなるその音が。
それが眼前にまで迫ってもなお、僕は目を開けない。それを直視してしまったら、この関係が終わってしまうから。七年以上願い続けたこの幸せなはずの関係が。それが怖い。怖くて怖くて仕方が無いのに、目を開けようとしてしまうのは、怖いものみたさなのか。
それとも、もう疲れてしまったのか。
「……そうだね」
「……今日はもう帰ろっか。そろそろ日も沈むよ?」
「……あ、ホントだ。ちょっと寒くなってきたね」
残暑の厳しいこの時期に、そんな現象が起こるわけも無い。だからその寒さはきっと――――――心理的な、ものなんだよね?
それでも申し訳程度に手を繋いで、僕達は帰路に着いた。
温かいはずの掌は、海水で濡れて冷たかった。
四
分からない。分からなくて、答えが出なくて、悩み続けて、何日になるだろう。海に行った日、京からは「それでも恋人だ」と言われたけれど、私には一概にそう言える自信が無い。自分の気持ちすら、私には分からないのだから。確かに、京のことが好き。けど、それを離れても言えるかまでは分からない。手が届かなかった頃は、好きで好きで夜も眠れないくらいだったはずのなのに。今は、願い焦がれた関係を手に入れて、それに満足してしまっている自分がいる。もっと触れて欲しかったのに、手を繋げば安心してしまう。もっと近くにいたかったのに、隣を歩けば満足してしまう。これでは、おもちゃを与えられて満足する子供と大して変わらないじゃない。
京とは、昔からいつも一緒だった。物心ついたときから、それこそ一番古い記憶にだって京はいる。この近くに私たちと同年代の子供はあまりいないから、いつも二人、もしくは京のお姉さんを含めた三人で遊んでいた。色んなところへと行って、帰れなくなった時もあった。クラスメイトに、『夫婦』だなんて古典的なからかいを受けたりもした。
そんなとき、前に立つのはいつも私の役目だった。幼い頃の京は小柄で、性格も臆病だったから。石橋を叩く叩かない以前に、まず家から出ないような。それがいつからか常に笑ってるようになって、おどおどしてた口調も冗談めかした感じに変わった。何と言えばいいのだろう、複雑なことを考えていないような、心配性の取っ掛かりを気にしないことにしているような。
だからといって嫌いになることはないし、むしろ今の方が話しているときは気が楽。だから、あの変化は、いい変化だったのだろうと思ってる。理由の方はよく分からないけど。
嫌いになることは無い。なんて、日本語のなんて便利なことか。都合の悪いことは誤魔化して、意味を悟らせないように遠回り。嫌いになることは無くても、好きになることも無いかのように取れてしまうこの言葉。今の私には、京を好きだと断言できる?答えは否。
ずっと、京が好きだと思ってた。いつでも隣にいて、いつでも一緒に行動して、夫婦なんてからかいだって満更でもなかった。もっと近づきたくて、もっと触れたくて、触れて欲しくて、胸を焦がす炎に耐え切れず、距離を掴めずにいたこともあった。確か、中一のときだっけ。
けど、今は違う。もっと近づいて、もっと触れられて、触れてもらえて、憧れてた恋人になって。その後、どうしたいの?ずっとこのまま?手を繋ぐだけで満足する程度の気持ちで、恋人ですなんて胸を張れるの?あの炎は、どこへ消えたの?
それを、ずっと抱えてた。初めて手を繋いで、自分の満足に気づいてから。たぶん、京も。笑顔が強張ってるのに気づいたのは、一度や二度じゃない。悩んでたんでしょ?だから、海に行ったときも、声が震えてたんでしょ?分かってる。言葉になんてしなくても。だって、『幼馴染』だから。
あなたが、何を言い出すかも、ね。
本当は知りたくなんて無いけれど。お互いの、幸せのために。
断言できない中途半端な気持ちで、相手を縛り付けるのは本意じゃないから。
第四章
残暑もいつの間にか薄れて、暦はとっくに秋。僕は紗代に連れられて、少し遠くのデパートまで足を運んだ。昼食をとりつつ、紗代の興味の向くまま、デパート内を散策する。最後にたどり着いたのは、ゲームセンターだった。
「……ねえ、あれやらない?」
空気が重くなっているのは、きっと僕も紗代も同じことを考えているから。
「おー、いいね。じゃ、やってみよっか」
シューティングゲームにコインを投入し、拳銃型のコントローラーを握る。数十秒のチュートリアルの後、ゲームが開始された。画面の奥から続々と迫ってくる標的を、どれだけ正確に打ち抜けるかを競うゲーム。チュートリアル通りに照準を合わせ、引き金を引いた。
二分後。
僕側の画面には敗北を告げる青文字が、紗代側の画面には勝利を告げる赤文字がそれぞれ躍り狂っていた。
「あれ、負けちゃったかー。結構がんばったんだけどね」
「僅差だったみたい。残念でした」
勝ち誇るその顔も、少し硬い。その理由は、今はまだ、触れてはいけないものだ。
「じゃあ、どうするのー?そろそろ帰る?」
「そうだね。もう五時になるし。帰ろう」
連れ立ってゲームセンターから出る。その際に、色の無い肌をした二人とすれ違った。
「……綺麗な肌だったね」
「彼女の方は青白い、って感じだったけどねー」
どちらかと言えば赤い目の方が気になったんだけど。カラーコンタクト?
肩が触れ合いそうな距離で歩いていても、手は繋がない。恥ずかしいとかじゃなくて、少しでもぬくもりを感じてしまえば、決意が揺らぐから。まだいいじゃないか、なんて思ってしまうのは、互いの幸福にはならないから。
デパートを出て、バスに乗って、少し歩いて。帰ってきたのは見慣れたY字路。いつも行動の拠点だった、この場所を。一番勇気のいる行動に、使わせてもらおう。
「ねえ、紗代」
いつもの作り笑いは引っ込めて、真正面から目を合わせる。その目には疑問と、不安と、悲しみと、そして僅かばかりの安堵が浮かんでいた。
「……何?」
震えを必死に押し隠した声。これを言うのはやめようか。そんな気がしてくる。けど、その甘えに乗ってしまったら、もう戻れない。中途半端な心を抱えたままずるずると先延ばしにしていたって、いつかは限界が来る。その限界まで長い時間が経ってしまえばしまうほど、お互いの幸せを壊し合うことしか出来なくなってしまう。そんなのは、悲しすぎる。
だって、僕は紗代のことが好きだから。近くにいるだけで幸せになる、それくらいの気持ちでも。君を好きな気持ちは本物だって、胸を張れるから。だから、無理に『恋人』じゃなくても。『幼馴染』なんて、友達より少し近い位の位置にいさせて欲しい。この半年で、そう思えたんだ。それを、今から伝えるよ。
「……この半年くらい、恋人だったけどさ。今までと、変わらなかったよね。二人でどこかへ出かけて、遊んで」
「……そうだね」
「家族だって、気づいて無かった。僕たちもさ、それで悩んでたんでしょ?」
「……うん」
「でさ、僕も、ずっと考えてたんだ。答えは、出たよ」
俯き加減だった顔が、緩慢な動作で上がってくる。さっきから一言での返事しかしていないけれど、話はしっかり聞いてくれているはずだ。
「僕はさ、紗代のことが好きだよ。でもね、それは胸を焦がすような恋慕じゃないんだと思う。近くにいてくれるだけで、並んで歩くだけで、胸の奥が暖かくなるような幸せをもらえる。それをなんて言うのかは分からないけど……でも、『好き』にかわりはないんじゃないかな」
「……そうだね。私の気持ちも、そんな感じだよ」
「それでさ、『好き』の種類が違うから、無理に恋人であろうとしても失敗するんだと思う。僕は、この気持ちを壊したくない。だからさ、無理に恋人でいるんじゃなくて、『幼馴染』に戻らない?」
それは、とても難しいことだろう。一度でも変わってしまえば、元に戻すのはほぼ不可能なのが人間関係だ。今までの『恋人』としての関係を、リセットボタンで一発白紙、なんてことは出来ないし、やりたくも無い。
「……そんなの、無理だよ。私は、京が好きなんだよ?その気持ちを抱えたまま、明日から今まで通り幼馴染、なんてできっこないよ……!」
僕にも、ふざけたことを言っている自覚はある。だからきっと、今の紗代の涙も、僕のせいなんだ。綺麗だったはずの感情を、ここまで捻じ曲げてしまった僕の。今まで怖がって踏み出さなかった、その代償。だから、僕は毅然と、それを受け止めなければならない。
「けどね、紗代。いつか、『現在』だったこの関係も、『想い出』になる時が来るんだ。僕の『すべて』だった君が、僕の『一部』になる時が。それが、いつなのかは見当もつかないけれど。だから、さ」
僕たちの関係は、今は確かに現在で、目の前のことだけど。いつかアルバムにしまわれて、思い出しては懐かしむときがくる。僕の世界の中心で、僕の心のすべてを占めていた君が、経験として僕の一部となって、僕の心を、世界を豊かにしてくれる一つのものに変わる時が来る。
そのときはきっと、紗代も一緒にアルバムをめくって、懐かしめるだろうから。幼馴染として、共有している記憶の一つとして、「こんなこともあったね」って。
だから、いつかそんな日を迎えるために。そのときに笑いあえる関係でいるために。
「今は、さよならしよう」
アスファルトに染みを作りながら、紗代はゆっくりと僕を見る。涙に濡れたその目は、とても綺麗だった。
「……いつか、また、幼馴染に戻れるよね?」
どうかは分からない。今までみたいに、無邪気で無意識に、友達よりも近い関係を『幼馴染』と言うのなら、たぶんそこには戻れない。こんな傷――というのは不本意だけど――を抱えてしまった以上、そこには何かしらの確執や隙間が出来てしまう。けれど、一度崩れた関係の上に、もう一度新しく、友達よりも少し上くらいの関係を築いてはいけると思う。それだって、条件付きだけど。
「……焦らず、ゆっくり、時間の流れに任せていれば、いつかきっとね」
この傷に、かさぶたができて、それが自然にはがれる頃。また、笑いあえることを願って。
「……じゃあ、またね」
「……うん……!また、ね」