冥府の淵で
「かえして」と彼女は願った。
それは願うにはあまりにも高慢で常識はずれな過ぎた願い。けれど誰もが大切なものを失ったときに脳裏によぎる想い。
私はそれを否定も肯定もしない。
けれど一つ断言できることは、「死」は覆らないということだ。
…*…
声が聞こえる。
お母様の声?
ううん、違う。そもそも、お母様は幼いころに亡くなったから、その声は記憶の彼方に霞んでいる。だからそれがお母様の声なのかそうでないのかなんて判断できない。でも私を呼んでいる。
あなたはだぁれ?
「ねぇ、大丈夫?」
「う…」
「ああ、良かった。意識はあるみたいね。ぶっ倒れてるからどうしようかと思っちゃった」
うっすらと目を開けると目の前に可愛らしい顔立ちの少女が見えた。少女が言ったように私は倒れているようだった。床に横たわったまま話すのは失礼だと思って起き上がろうとしたけれど、首や体が痺れていて満足に手足を動かせない。
痺れに顔をしかめていると、にこにこしながら手を差し伸べてくれた。
「起きられる?」
「あ、ありがとうございます」
ゆっくりと腕を動かし、少女の手を取る。
その手は、温かかった。
「恐れ入ります」
「ううん、気にしないで。倒れてるのに素通りするのは、なんていうのかな、すっごい罪悪感に駆られちゃって。そういうのって放っておけない性分なのよ。あたしってば親切だから!」
「はい、優しい方ですね。ありがとうございます」
「どういたしまして。というかあなた、あたしと同じくらいの年っぽいのに災難だったわね。しかも、いいところのお嬢様でしょ?」
「え。どうして私がお嬢様だと…」
「だって着ているものが上等だもん。これシルク? ゴテゴテした宝石とか身につけてないけど、言葉遣いとか動作が上流階級っぽい。それに金髪もサラサラしてて綺麗ね…うらやましい」
「髪ですか? その、褒めていただけて嬉しいです。ありがとうございます。煌びやかなものは、あまり好みではないのでつけていないのです」
「ふーん。お嬢様が飾り立てないっていうのは本当だったのね」
「あなたは、その、せ、扇情的な格好ですね」
「ん? ああ、あたし踊り子だから。踊り子の衣装なんてみんなこんなもんでしょ。あとキラキラしたものが好きだし。第一、着こんだら踊りにくいし、腕や足首の飾りも見えなくなるし。ま、お嬢様はこんなに布の面積が少ない服は着ないよね」
少女はくるりとその場で舞った。その舞は軽やかで、まるで精霊がふわりと飛んでいるようで、見とれてしまった。艶やかな結い上げた黒髪もその幻想さを表しているようだった。
「綺麗です」
「え?」
「とても、素敵だと思います」
「ありがと。まさかお嬢様にそんなに真面目な顔で褒められるなんて思わなかったなあ。結構蔑んだ目とか下非た目で見てくる奴多いんだよね」
「職業に貴賤なんてないですもの。素直に美しいと思いますよ」
「ふふ、照れちゃうわ。あ、そうだ。自己紹介がまだだったわね。あたしの名前はルル。あなたは?」
「リーアです」
「よろしく! そうだ。ねぇ、あなたはどうやって死んだの?」
その言葉に、ギュッと手を握りしめた。
ここは死者の国。
私が予想していたところとはずいぶん違う、というのが第一印象。
もっと暗くてジメジメした陰鬱な場所かと思っていたけれど、まるきり逆だった。光で溢れていた。きょろきょろと見回すと、広くて縦長で真っ白な部屋だということがわかる。天井は遥か遠くに見える。見上げていて首が痛くなった。
何人か人が座り込んでいたり談笑していたりしているのも見える。
ルルさん曰く、同じ部屋が何個もあるのだとか。
「あたしは流行り病で若い生涯を閉じたの。薄幸の美少女って言葉はほんとあたしのためにある言葉よね」
「そうでしたか。あの病気は今すごく猛威を振るっているらしいですね。何人もの人が亡くなっているって聞いています…はやく効く薬が見つかるといいのですが」
「効く薬が見つかったところでもうあたしには関係ないけど。ねぇ、リーアも病気で?」
「え? あ、私は…」
病気ではない。そもそもここに来たのは偶発的なものではないのだから。
そうだ、どうして私は一人で倒れていたのだろう?
「どうして、いないの」
「え?」
「な、なんでもないです」
『彼』がいないのだ。
確かに直前まで一緒にいたのに。
「そうだ。ルルさんは、踊り子でしたよね」
『彼』は気がかりだけれど、私の身の上はルルさんに聞かせられるようなものではない。ひとまず思考を切り替えなくては。
「そうよ。人気の踊り子だったんだから! そうねぇ、暇だからあたしの生き様でも聞いてくれる?」
コロコロ笑いながらルルさんはここにやってきた過去を教えてくれた。
「あたしさ、何にもないド田舎で生まれたの」
…*…
あたしは踊りがすべてだった。
物心ついたときから音楽に合わせてくるくる踊るのが好きだった。旅芸人一座の踊り子の舞を見るのも大好きで、一座が来たときは真っ先に駆け出して見に行ってた。
自分でも踊りたかったんだけど、あたしの住む地域は純然な田舎。娯楽なんてほとんどないところで、とても踊り子になりたいなんて夢は果たせない場所だった。
あたしの家は農家で、あんまり裕福でもないし、綺麗な服は買えないし、夢は追えないし。あたしは五人兄妹の末っ子で、お兄ちゃんたちよりは甘やかされて育ったけど、それでもこんな閉鎖された単調な生活から逃げ出したかった。
だから必要最低限の荷物だけ持って家出を決行した。
「ルル。舞台を作るの手伝ってくれ」
「はーい」
そして立派な踊り子に!
…と言うのはちょっと言い過ぎで、とある旅芸人一座の一員になったの。知名度はあんまりないけれど温かい場所よ。
家出をして町に出たはいいものの、お金もあんまり持ってなかったあたしは案の定すぐに食べるのにも困ってしまった。そんなときにたまたま町に来ていた一座に拾ってもらったのが始まり。今考えるとよくあたしを受け入れてくれたなって思う。お腹をすかせてぶっ倒れたあたしを見つけてくれた姉さんに感謝しなきゃ。
あ、姉さんは一座の結成初期メンバーなんだって。そしてあたしの踊りの師匠! とっても綺麗に踊るんだから。
姉さんを目標に、日々特訓中だったの。その一座に入って三年くらい経って、「ルルちゃんの躍りが好きだ!」って言ってくれる常連の人も出来始めたんだから。
「ルル」
「あ…団長。なんですか?」
団長はどこにでも居そうな普通の青年。見た目は、まぁ、中の上くらい。優しい人よ。あたしを一座にいれてくれたから恩を感じてるの!
でも、いつの頃からか、あたしをねっとーりとした目で見るようになったんだよね。
それゃ、あたしは可愛いし、入った当初に比べたら子ども臭さも抜けて素敵だもの、そんな目で見るのも仕方ないよね! 別に何もされないし、恩がある人だし。
「ルルの黒髪は綺麗だ、とお客さんが言ってたよ。結んでまとめているのも可愛いが、おろした髪型も素敵だと」
「そうですか、お客さんが。嬉しいです。ありがとうございますって伝えてください」
「うんうん、ルルは可愛らしいし、声も鈴の鳴るような澄んだ声だし、踊りは綺麗だし、とても好きだよ」
「…それもお客さんが?」
「…ああ、お客さんが」
「そうですか」
「ああ」
「…」
「…」
「ええと、もう行きますね?」
「…ああ」
やっぱりちょっと怖いかも。
「よし、片付け終わり。うーん、今日もなかなか綺麗に踊れた!」
満足いく踊りが踊れて良かった。
姉さんに比べたらまだまだだけど、それでもたくさん練習したんだもの。踊りを踊るって本当に楽しい! 苦しくて、でも楽しい、
あたしの生きる意味は踊りが中心。
そんな人生をこれからも歩んでいくのよね!
「ルル」
「だ、団長。もう、急に現れるからビックリしましたよ」
「今日ファンの客と親しげに話していたな」
「ええ、まぁ。あたしの踊りが好きって言ってくれて、」
「ルルは悪い子だな」
「は?」
「妬かせようとしているのかい?」
「ちょ、団長?」
団長が距離を詰めてくる。
って、近い近い近い!
「本当に悪い子だ。俺が好きだと伝えているのに他の男と仲良くするなんて」
「え」
聞いてない、聞いてない!
団長から好きだなんて一度も言われたこと無いわよ!
「そんな面積の少ない服を着て、誘っているんだろ?」
「ち、近いです団長! あと思い出してください、服は姉さんのものと同じようなデザインですよね? それにここ暑い気候だし、第一そんなに着こんだら踊りにくいし、腕や足首の飾りも見えなくなるし」
「ああ、ルル、君はなんて可愛いんだ」
人の話を聞け!
ジリジリと迫る団長を避けようとしたけれど、背中にドンッと壁が当たるのを感じて、逃げ場がないのだとわかった。
「踊りを極めようとしているのも俺に気に入られるためなんだよな?」
「違いますよ!」
「ええ? 違うの? じゃあどうして? 踊り子なんて男の格好の餌食だよ。もしかしてルル、君は男達に好いてもらおうと踊り子になったのかい」
この言葉には心底ムカついた。
あたしの踊りへの情熱が汚された気がした。
何よりも…あたしと、姉さんの誇りが傷つけられた気がして。
「ふっざけんなあああ!」
あたしは渾身の右ストレートを団長に叩き込んでいた。団長もあたしが殴りかかってくるとは思わなかったのか、殴られて放心状態になっていた。その隙に脱兎の如く逃げ出して、急いで手荷物を持ってその一座から逃亡した。うしろから団長が「逃がさないぞ!」と叫びながら追ってきたけれど、振り向かずに全速力で走った。
ただもう一度だけ、姉さんに会いたかったな、なんて思いながら、あたしは夕闇に染まりかけている空を見上げた。
しばらくは遠くに逃げることに専念しないと。でも所持金はあまりない。
もたもたしていると追いつかれる。
捕まったらどんな目に合わされるか。あの狂った団長の目を思い出して、ぶるりと体を震わせる。
しばらくは踊れないかもしれない。
その瞬間、あたしは生きる意味を見失った
**
「それで、いろんな町を転々として逃げてる最中に体がだるいなーって感じるようになってさ。そしたらある日高熱が急にカーッと出てきたの。流行り病の特徴でしょ、それ。それであたし死ぬのかなって考えて目をつぶったら、いつの間にかここにいたわけ。最初はわけわかんなかったんだけど、周りの人たちの話を聞いて、やっと自分が死んだことを理解したのよねぇ」
「そうだったんですか…」
ちらりと辺りを見回す。ぽつぽつと点在する人たちは、同じように何らかの事情で亡くなった人たち。ルルさんのように流行り病で命を落とした人が多いはずだ。
私は、違う。
「リーアったらきょろきょろしてどうしたの? もしかして誰か探してる?」
「えっと、あの」
口ごもってしまう。ルルさんは良い方だと思うけれど、それでも自分の話を聞かせていいのか悩んでしまう。
決して褒められるものではないということは自覚している。
これは、私のエゴだから。
言いあぐねていると、バタバタという大きな足音が後ろから聞こえてきた。わずかな音でも通りやすい静かな世界だからか、ひときわ目立った。そうして、後ろを振り向いたとき、とてもほっとした。
「良かった…」
「リーア! やっと会えた」
ああやっと、『彼』と再会できた。一人きりだったらどうしようと本当に不安だったのだから。
私の顔を覗き込みながら、ルルさんが首を傾げる。
「知り合い?」
「はい。私の家で雇っている方です。主に私の身辺警護をしてもらっています」
「へぇ」
『彼』…ローが私の手を優しく取る。
「同じ場所で薬を呷ったのに、随分離れたところでお互い目を覚ましたみたいだな」
「そうみたい」
「同じ? ま、まさかあなたたち」
「あ、あの、実は」
こうなったら話してしまった方が楽かもしれないと、決意を固めて口を開いたのだけれど。
「身分違いの恋の末の心中なのね!」
とんでもない誤解を招いてしまったようだ。
「えっ、ち、違いま、」
「いいのよ隠さなくて! そっか、だからそわそわと落ち着きがなかったのね。『一緒に薬を呷ったのに彼がそばにいない…もしかして私は騙されたの? 一緒にあの世で結ばれようって約束は嘘だったの? でも彼に限ってそんな』って思っていたのね! 会えて良かったわね」
ルルさんはうんうんと頷き、そっと私の手を握る。そのあまりの力強さに、つい本当のことが言えなかった。
「まぁ、そんなところだと思ってくれていい」
「やっぱり!」
何を思ったのかローまでルルさんの言葉に頷いた。
私はただただオロオロするばかり。
「俺はリーアのためなら死ねる」
「わ、情熱的ね」
「本当に、俺の生きる意味なんだ」
「ふーん。愛されてるわね、リーア」
「そうですね」
ローとは三年ほどの付き合いになる。私のどこが彼の琴線に触れたのかわからないけれど、必死で私を守ろうとしてくれる。それはこの冥府に来る時も同じだった。私が頼んだら、理由も聞かずに実行に移してくれた。本当に感謝しているの。ただ、私自身にそんな価値はないと思うから、少し心苦しくなってしまう。
「リーア、顔色が悪いぞ」
「疲れたんじゃない?」
「でも、ここは死者の国だからそういう感覚は無いのではありませんか?」
「いや、自分の記憶から暑さとか寒さとか、痛みとか苦しさとかを作り出してしまうそうだ」
「あら、よく知ってるわね。そうなのよ、自分の思い込みから体調やらなんやらが変化するんだって」
「なるほど」
「少し休もう」
ローに連れられ、部屋の隅に歩いていった。
そこにはソファがあり、しばらくそこで休むことになった。
そっと背もたれに身を預け、目を閉じる。自分の記憶とこれから成し得たいことが、浮かんで消えた。
「寝ちゃった。恋人に会えてホッとしたんじゃないかしら」
「…」
「あーあ、暇になっちゃった。そうだ、あなたたちの馴れ初めは?」
「別に聞かせるような話じゃない」
「いいじゃない教えてよ!」
「嫌だ」
「ケチ」
「ケチで結構だ」
「倒れてるリーアを見つけてあげたの、あたしなんだけどなぁ」
「…」
「ね?」
「そんなに他人の過去に興味があるのか?」
「あるある!」
…*…
俺は独りぼっちだった。
いつから独りだったかなんて覚えていない。物心ついたときから独りで、それが普通だった。服も食べ物も自分で手にいれなければいけないし、安心して眠れる場所も自力で探さなくてはいけない。そんな生活。
生きるのに必死だった。
食べられそうな植物は片っ端から口にしてみたし、泥水をすすったこともあるし、冬の厳しい寒さをかき集めたわずかな布きれで過ごしたこともある。
物の取り合いになったときは、喧嘩になった。ボコボコにしたこともあるし、ボコボコにされたこともある。
我ながらよく死ななかったなと思う。悪運が強いんだろう。
だけど、「その日」は死にかけていた。
その日もしょうもない理由(確か肩がぶつかったとかなんだかだった気がする)で喧嘩していて、簡単に倒せるような奴らだったけれど、いつの間にか仲間を呼んでいたみたいで、袋叩きにされてしまった。いくら喧嘩慣れしているとはいえ、やっぱり多勢に無勢。無理だ。
「痛ぇ…」
ああ、俺はこんな薄汚れた路地裏で死ぬのか。まだ死にたくないなっていう本能と、別に生きてたって仕方ないよなと諦める心がごちゃまぜになって、なんか、疲れた。
「あの…」
か細い、雑踏の煩さに簡単に書き消されてしまいそうな弱々しい声が聞こえてきた。
鋭い痛みに耐えながら首だけ声の方に向けると、路地に差し込む光がキラキラ反射して輝く金髪が目に入った。
その時俺は天使が迎えに来たのかと思ったんだ。笑えるだろ? お世辞にも良い生き方をしてきたとは言えない俺が天国なんかに行けるわけがないのにさ。
それで、その天使にぼーっと見とれて、年は一五、六才くらいか俺と同じくらいかな、なんて考えていたら天使がオロオロしはじめて。
「生きて、る?」
泣きそうな声で言うからさ、
「…生きて、る」
「あ、良かった」
にこりと笑う笑顔が可愛い。
そんな綺麗な存在にそっと手を伸ばし、触れようとした間際。
「お嬢様!何をなさっているのです」
耳障りなおっさんの声が俺を現実に引き戻した。
「…なんですか、その男は…。お嬢様、さぁ帰りましょう」
まるで汚いものでも見るような視線を受けて俺がどんな存在なのか改めて痛感させられた。死にそうな奴に向ける目じゃないな。
あんたが俺よりどんだけ偉いっていうんだよ。
「怪我してるから、手当てしないと…」
そしてこの天使は『お嬢様』、ね。
「…なるほ、ど…お金持ち様が、同情して、くれてるわけか」
「え?」
「なぁ…あんたが、俺に何してくれんの?」
「止血、しないと」
「俺さぁ、腹減ってるし、怪我は痛ぇし、職もないしさぁ…なんもねぇんだ。なんかくれんの?」
「お、お腹が空いているのでしたら、パンがありますけど」
パン。
惨めだから、可哀想だから、なんか施してやろうってことか。
随分上から目線じゃねぇか。
『お嬢様』の襟首をぐいっと掴む。
「きゃっ」
「パンなんていらねぇよ。なぁ、金持ちなんだろ? あんた。じゃあ金くれよ」
「…っ」
「はは…ビビってんじゃん。お金持ち様はこんな汚ぇ奴になんか金を渡したくねーだろ。できねぇよな、無理だよなぁ」
ぱっと手を離し、ずるずると壁沿いに身を預ける。
一気にまくし立てたせいで、苦しくなってしまった。もともと体力もほとんど残ってないんだ。
なんか遠くの方でさっきのおっさんが怒りながら何か言ってるけど、言葉が耳を通り抜けていく。
「なぁ…もうどっか行けよ。何もできねぇくせに、話しかけてんじゃねー」
言葉を発することができたのはそこまでだ。意識が途切れる前、天使みたいな『お嬢様』が辛そうに顔を歪めていたのだけわかった。
結論から先に言うと、俺はまた意識を取り戻した。どれだけ『死』に嫌われているんだ、と思わず苦笑する。
「あ? ここどこだよ」
見知らぬ白い天井。
身じろぐと、ふかふかのベッドに寝ているのだとわかった。
「…」
「あっ、目が覚めましたか」
ぼんやりと天井を見上げていると、か細い声が聞こえてきた。
「お前…」
「痛いところはありませんか? あ、お腹空いていますか? それともまだ寝ますか? 起きますか? 私としては少しだけ起きてお話して欲しいのですが」
「は?」
この声は間違いない。
こいつは、意識を失う前まで話してた『お嬢様』だ。
俺が怪訝な顔をしていると、『お嬢様』は控えめに紙を一枚差し出した。
「何だよ」
「雇用契約書です」
「はぁ?」
「私の自由になるお金はないので、あなたにお金を差し上げることはできません…。でも、職なら、どうにか。うちで、あなたを雇います。働けばお金は払われますし、服は貸与できます、食べ物もあります。お金が入れば、好きなものも買えます」
「待て、ちょっと待て」
「やっぱり、これでは代わりにならないでしょうか?」
「違う、そうじゃない。あんた、本気で俺を雇う気なのか?」
『お嬢様』は、不思議そうにこてりと首を傾げる。
「はい。爺やにもきちんと承諾をもらいましたし」
嘘を言っているようには見えない。
たぶん、本気なんだろう。
「同情でここまでやるかよ…」
「同情、なんでしょうか」
「は?」
「倒れている人を見たとき、助けたいって思うのは、同情っていうのですか? 私、よくわからなくて…私が『お嬢様』だから、ですか?」
『お嬢様』は悲しそうな顔をしている。
演技には見えない。
「同情だと思ってもいいです。同情なのかもしれないし…でも、私はあなたを助けたいって思ったのです。だから、うちで働きませんか? ええと、ごめんなさい、あなたの名前を知らないです」
なんて純粋で綺麗なんだと思った。
「助けたい」なんて初めて言われた。
俺には眩しすぎて、目をそらしてしまう。
でも、
「…ローバルトだ。ローでいい」
俺はその瞬間、生きる意味を得た。
…*…
「へぇ、じゃあ命の恩人なのね」
「そうだ。おれにとっては恩人以上だ」
「いいわね、そういう関係って」
「…う、」
ぱちりと目を開けるとルルさんが顔を覗き込んできた。
「おはよ。少しだけ顔色良くなったわね」
「眠ってしまっていたのですね。ごめんなさい」
「いいわよ。おかげで馴れ初め聞けたし!」
「?」
「さぁ、もう行くぞ」
ローはおもむろに私に近づき、そっと抱え上げた。
うわあ、とルルさんが絶句する。
「お姫さまだっこを生で見たのは初めてだわ」
「リーアに無理はさせられない」
「だ、大丈夫よ。降ろして」
「ダメだ」
ローは頑なに降ろしてくれなくて、このまま進むことになってしまった。そういえば私が体調を崩したり怪我をしたりすると、必ず飛んできて私をお姫さまだっこしてくれた。そしてお医者さまのところへ連れて行ってくれていた。
あれは屋敷内だったからまだ羞恥はなかったけれど、見ず知らずの方に見られていると思うとなんだかとても恥ずかしい。
歩いても歩いても同じ部屋ばかり。同じところをぐるぐる回っているような錯覚をしてしまう。
「ロー、もう大丈夫ですから降ろしてください。自分で歩きたい」
ローは渋い顔をしたけれど、仕方ないな、と呟いて私を降ろしてくれた。
次の部屋に続く扉に手をかけて開く。
目の前に広がっていたのは、今までと同じ部屋だったけれど、様子が違った。
「この部屋はたくさん人がいるのですね」
「そうね。ごちゃごちゃしてて息苦しいくらい」
人が所狭しとひしめいている。広々とした部屋が息苦しいと感じるくらいには混みあっている。どうしてここだけ人数が多いのだろうか。
「よし、なんでこんなに混んでいるのか聞いてくるわ!」
「あ、ルルさん!」
ルルさんは近くに固まっていたグループ向かって走っていってしまった。
「落ち着きのない奴だな」
「私はルルさんの行動力がうらやましいです」
「俺にしてみればリーアも行動力に溢れてると思うが」
「そんなことないですよ。私は自分からは動けないもの」
「俺を助けてくれただろ」
「それとこれとは違います」
「同じだ。理由はどうあれ『助ける』って選択肢を選んだのはリーアの意思だろう」
「私は、」
「聞いてきたわよ!」
私はそんな褒められた人間じゃない、そう言おうとしたときにルルさんが手を振りながら走って帰ってきた。
「順番待ちだって」
「順番?」
ルルさんの話を概括すると、この部屋は死者が最後に訪れる場所のようだ。そうしてここで名前を呼ばれた死者は一番奥の豪奢な扉をくぐり、現世での行いを審査されて天国か地獄に行くかが決まるそうだ。
「どうもここ最近名前を呼ばれる人が少なくて、冥府の王が怠慢しているんじゃないかって怒ってたわ」
「冥府の王ですか」
「そう。その王が死者の行く末を決めるんだってさ」
「ここだと騒々しくてゆっくり話もできない。どうせこの人数なら呼ばれるのは後の方だ。違う部屋に移って待った方がいい」
「そうですね。少し移動しましょう」
三人で元来た道を戻る。やっとここまで来た。ここに来るために、会うために私はここまで来た。ちらりと後ろを振り返る。もしかしてあの中にいるのだろうか。もし会えたら、私は何を伝えるのだろうか。
「リーア、どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
きっと、何も伝えることは出来ないと思う。
「冥府の王様が怠慢してるんじゃ、あたしたちが呼ばれるのはいつになるかわかんないね」
「そうですね」
「怠慢してるんだ?」
「えっ」
急に近くで聞こえてきた声にびっくりした。透き通るような綺麗な声が印象的で耳に残る。顔を向けると、青年が立っていた。肩につくくらいの黒髪。黒いYシャツで黒いズボンに靴も黒で、上から下まで全身真っ黒。光が溢れるこの真っ白な世界では浮いた存在に見えてしまう。
「やぁ。面白い話をしていたみたいだから、つい声をかけてしまったよ」
「面白いって、何が?」
「冥府の王が怠慢しているって」
「向こうの部屋の人たちはそう言ってたわ」
「王サマだって大変なんだと思うよ。流行り病でたぁーくさんの人が死んだだろ? しかも人だけじゃないんだ。動植物も数えきれないほど冥府にやってきた。だから、もう王サマはてんてこ舞いさ」
「ふうん。そうなんだ」
「あなたは一体誰ですか?」
質問を投げかけると青年はきょとりとした顔になり、私をじっと見つめた後ににこりと笑った。そうして心を見透かしたような瞳で見つめられ、ギクリと身を竦ませてしまう。
「キミはどうして此処にいるの?」
「え」
「何それ。死んだからに決まってるじゃない」
「ルルちゃんはそうだね。流行り病だ」
「そうよ。あれ? どうして私の名前を知ってるの?」
ルルさんの問いかけにはにこりとした笑みを向けただけで答えず、私にまた目線を戻した。
「キミはずいぶん無茶なやり方で此処に来たんだね」
その透き通った瞳に見つめられると気持ちがざわついて落ち着かなくなる。ギュッと手を握りしめていると、ローが私をかばうように前に出てきた。
「あんたを探していた」
「おや、また会ったね少年。いや、もう青年か」
「なぁに、ローの知り合いなわけ?」
「過去に二、三回会った」
「此処での記憶は夢か幻と思って忘れてしまう人がほとんどなのに、良く覚えていたね。随分とキミは夢見がちだ」
青年は何が楽しいのか、くすくすと笑う。
「ねぇ、あたしにも分かるように説明してよ。全然状況が理解できないわ」
「彼らは自分の意思で此処に来たということさ」
「知っているわ。心中でしょう?」
「違う。そもそもその表現は当てはまらない」
「どういうこと?」
「彼らは死んでいない」
「は?」
「仮死状態になる薬を呷ったんだろう。そうすれば此処に来ることができる」
「そんなことできちゃうの?」
「『死』に身体が近づくと此処に辿りついてしまうんだ。過去に彼は何度か死にかけて此処に来たことがあるから、仮死状態になれば来ることができると思ったんだよね? その推察は正しかった。だからキミ達は此処にいる。しかし一歩間違えれば本当に死んでしまうから、危険な賭けでもある」
「ああ」
ローがそっと私の手を握ってくれた。それをぎゅっと握りしめかえす。
「なんでわざわざ此処に来たのかを詮索するつもりはない。僕が言うことはただ一つだ。早く現世にお戻り。そこの可愛いキミの大切な子を連れて」
「言っただろう。あんたを探していた」
「へぇ、僕を」
「あたしを置いて話を進めないでって言ってるでしょ。大体この人誰よ!」
「王」
「王?」
「冥府の王。死を司る番人だ」
「ええっ?」
「この方が、冥府の王」
想像していた王と随分イメージが違う。でも会ったことがあるローが言うのだから間違いない。
「ああ、確かに僕がこの冥府の番人だ。ルルちゃんの言う通り、怠慢している王サマ」
「し、失礼なこと言っちゃってごめんなさい!」
「いや、怠慢しているのは確かだから構わないさ。流行り病で死んだ生命の数が本当に膨大でね。終わらない仕事が嫌になってきたから放り出して休憩中だ」
くすくすと王が笑う。
「王様」
「なんだい?」
「私、あなたにお会いしたくてこちらに参りました」
「危険を冒してまで来たことだし、一応聞いてあげよう」
「かえしてください」
「もちろんキミはちゃんと現世に帰すとも。すぐに帰れる」
「違います。返してください。父を、返してほしいのです」
「悪いがそれは無理だ。キミの父親は、もう死んでしまったのだから」
「無理だということは重々承知しております。でも、どうしても返してほしいのです。そのために私が命を失っても構いません」
「命は足し引きで計算できない。代わりの命を貰ったところで、その願いは叶えることができない。そもそもどうして父親を返してほしいんだい? キミの父親はキミのことなど見向きもしなかったじゃないか。死の間際でさえ」
「本当は優しい人なのです。愛する人を失って心が壊れてしまっただけです」
「健気だね。必要とされていなくても、父親のために自らの命を捧げようとするだなんて」
「お願いです、返してください!」
「ダメだと言っているじゃないか。『死』っていうのはね、覆してはならない自然の理なんだよ。このルールを破ってしまったら、現世はめちゃくちゃになってしまうじゃないか」
「それは」
「何を言われても答えは『否』だよ。私は死の番人としてそれだけは変えるわけにはいかないんだ。だから、もう帰りなさい」
冥府の王はそれだけ言うと、すうと消えてしまった。
「いなくなっちゃった」
「そうですね…」
「驚いた、二人とも死んでなかったのね」
「はい。騙してしまって、ごめんなさい」
「別にいいわよ。なんかフクザツな事情がありそうだし。お父さんと何かあったの?」
「…」
語るには、色々なことがありすぎた。ひとつひとつ思い出すと、ぎゅっと胸が締め付けられるように苦しくなる。
ただ一つ言えるのは、私は望まれない命であったということだ。
…*…
私は何も持っていなかった。
違う、何でも持っていたから、何も持っていなかった、が正しい。
「失礼いたします」
朝日が差し込み、部屋がきらきら輝いているのをぼんやりと眺めていると、軽いノックのあとに爺やが入ってきた。
「おはようございます、リーア様」
「おはよう」
「今日はリーア様のお誕生日をお祝いしようと、多くの方が集まっております」
「…そう」
そういえば、今日は私の誕生日だった。
自分が生まれた日…普通は喜ぶべきなのだろう。でも、私はその喜びを忘れてしまった。幼い頃、お母様が亡くなる前までは楽しかったような気がするけれど、それはごく短い期間。私が七つの時にお母様は亡くなり、そのあと私の周りは色を失ってしまった。
「では、お召し物をお変えになってください。メイドもリーア様のお支度の準備をしております。もう皆様お集まりですよ」
「わかったわ」
ああ、今日もお飾りの1日が始まる。
私の家は、小さいながらも豊かな国の由緒ある侯爵家。何代にもわたり、国王に仕えてきた騎士の家系。後継ぎは私。
お母様が男児を産まないまま亡くなってしまったため、周りの縁者たちは後妻を迎えるようにとお父様に散々進言したらしいのだけれど、お父様は頑なにそうしなかった。お母様を、心の底から愛していたから。
女児を跡継ぎとしてはいけないという決まりはないものの、慣例として男児が跡目を継ぐことになっている。でも、もう男児は望めない。
私が男児であったなら、もっと簡単にことが済んだのだろう。事実、何度も「リーア様が男の子だったら良かったのにね」と陰で言われているところを何度も聞いた。
幼い頃から言われ続けた結果、私は自分の出生を喜ばしくないものと考えるようになった。それに、お父様はお母様が亡くなってから私に興味を示さなくなった。お父様の世界はお母様中心だったから、その世界が崩壊するとともにお父様自身も壊れてしまった。まるで魂が抜けてしまったようになってしまって、私が話しかけても気の抜けた返事しか返ってこなくなった。そして段々家よりも仕事に比重が置かれるようになり、帰宅することも稀になった。
私は今まで自分自身の存在意義を見出せずにいる。生きる意味を得ることができない。
そもそも私が生まれてしまったのが間違い。
だから誕生日は嫌い。
だってみんなが祝福してくれているなんて真っ赤なウソ。
みんなが望まない子なのだ、私は。
それでも、役目がある以上それを全うしなければいけない。
そっと、重い扉を開ける。
「リーア様、十五歳の誕生日おめでとうございます!」
華やかなパーティー会場には、着飾った人々がたくさんいた。そしてみんなが口々に言う「おめでとう」という言葉。そのウソの言葉に辟易としながらぺこりと頭を下げる。
彼らは私に取り入って懇意にしようと企む人たちばかり。この家の跡取り娘は私だけだから、皆にこにこと下心を隠しながら寄ってくる。大体が自分の息子を紹介しようとしてくるから疲れてしまう。
「さぁ、リーア様。皆様にご挨拶を」
「今日はお越しくださり、ありがとうございます。こんなに盛大に祝われて、幸せです」
心にもない言葉を述べ、微笑んでみせる。そうやって生きてきた。きっとこれからも。
夕刻が過ぎ、パーティーがお開きになった。夜まで続けるのはとても体力が持たないので断った。
「リーア様、お疲れですか?」
「少しだけ。ねぇ爺や、町に出かけたいのだけれど」
「何か入用ですか? わたくしが買って参りましょう」
「違うの、気分転換したいの」
この鬱屈した気分はおいそれと変えられるものではないけれど、それでも町の活気溢れる空気に触れれば少しは何かが違うのかなと思った。
そうして町に出て、『彼』を見つけたのは本当に偶然だった。
露店を何ともなしにぼんやり見つめていたときに路地裏でうずくまっている『何か』が見えた。私は気付いたらその『何か』に近づいていた。そして目前まで近寄ってようやくその『何か』が人であると分かった。すすけた灰色の布をまとっていて、しっかり見ないとその場に溶けて消えてしまいそうなくらい周りと同化してしまっていた。壁を背にうずくまり、俯きぐったりしていた。
死んでいるのかと思った。
この辺りは貧富の差が激しくて、身寄りのないものが病気や暴力でなくなるのは珍しいことではないと聞いていたから。
でも私は『死』に直面したことはなくて。お母様が亡くなった時は理解するには幼すぎる年齢だったし、それ以外の近しい人が亡くなったことがない。近しい人なんてほとんどいないせいもあるけれど。
恐る恐る顔を覗き込むと、その人はゆっくりと顔を上げた。
その目は朦朧とした歪みがあったのにとても綺麗な漆黒で、見つめられた瞬間に思わず息をのんだ。なんて綺麗な瞳を持つ少年。同じ年くらいだろうか。
「生きて、る?」
でもそれよりも、意識があったことにほっとした。
「…生きて、る」
「良かった」
ほっと胸を撫で下ろしていると、彼はゆっくりと腕を上げ、そっと私に向って手を伸ばした。血まみれの手が痛々しくて思わず凝視してしまう。
「お嬢様! 何をなさっているのです」
その時、爺やの焦ったような声が路地裏に響いた。
「…なんですか、その男は…。お嬢様、さぁ帰りましょう」
「怪我をしているから、手当てをしないと」
爺やの見下すような目線は気になったけれど、そんなことよりも彼から流れる血が気になった。人間はどれほどの血を流しても生きているのだろうか。
「…なるほ、ど…お金持ち様が、同情して、くれてるわけか」
「え?」
「なぁ…あんたが、俺に何してくれんの?」
「止血、しないと」
「俺さぁ、腹減ってるし、怪我は痛ぇし、職もないしさぁ…なんもねぇんだ。なんかくれんの?」
その鋭い眼光に怯んでしまう。
「お、お腹が空いているのでしたら、パンがありますけど」
彼は私の言葉に一瞬顔を歪め、不思議に思っていたら急に襟首をぐいっと掴まれた。
「きゃっ」
「パンなんていらねぇよ。なぁ、あんた金持ちなんだろ? じゃあ金くれよ」
「…っ」
「はは…ビビってんじゃん。お金持ち様はこんな汚ぇ奴になんか金を渡したくねーだろ。できねぇよな、無理だよなぁ」
彼はぱっと手を離し、ずるずると壁沿いに身を預ける。
「な、なんと無礼な! お嬢様に掴み掛るなど身の程知らずにも程がある!」
「やめて爺や。私は大丈夫だから」
「しかしお嬢様!」
今にも彼に掴み掛りそうな爺やを押さえる。
「なぁ…もうどっか行けよ。何もできねぇくせに、話しかけてんじゃねー」
そう言うと彼は目を閉じてしまった。このままでは本当に死んでしまうかもしれない。
「爺や、この人を助けたい」
「は?」
「馬車に乗せて頂戴。家に連れ帰ります。あとお医者様の手配を」
「正気でございますか? このようなどこの誰とも知らぬ下賤の者を」
「そんな言い方は失礼よ。今にも死にそうになっている人を放っておくなんてできない」
「しかし」
「…命令です。この人を乗せなさい」
爺やは渋い顔をしていたけれど、結局彼を家に連れ帰ることに成功した。
騒ぎになるといけないから、家の者には内緒で彼を私の部屋に連れて行ってベッドに寝かせた。そして彼に対して何ができるかを考える。お医者様に見せたから怪我は治るだろう。食事も温かいものを渡せる。あとは、職。
「お嬢様、それは無理です!」
「どうして?」
「あんな得体のしれない無礼者は雇えませんぞ!」
「きっと怪我をしてご自分のことで精一杯だったのよ。お願い、彼を雇って」
「お嬢様は純粋すぎます。彼が危険人物であったらどうするおつもりですか。命を取られる可能性もあるのですよ!」
「危険人物なんかじゃない可能性もあるわ」
「お嬢様…」
「これ以上の我儘は言いません。お願いです、雇ってください」
「…」
爺やは黙ってしまった。
分かっている。この世は綺麗なものばかりじゃないし、爺やの言うとおり彼はどこの誰とも知らない初対面の人。危険人物かもしれない。それでも、助けたいと思った。もっと彼と話してみたかった。だってあんな風に感情をぶつけられたのは初めてだったから。色を失ったと思った世界に、突然現れた色だったから。
「お嬢様がそこまで主張なさるのは珍しいですね」
「そうね。私も不思議です」
「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、考えましょう」
「考えるだけじゃだめです。ここで決めてください」
爺やに困った顔をさせてしまった。
「仕方ありませんな。では、雇いましょう」
ため息を吐きながらも、爺やは彼を雇うことを了承してくれた。そして雇用契約書を渡してくれた。
「ありがとう、爺や!」
「お嬢様がこんなに必死に仰っていることを無下にできませぬ。久々に心からの笑顔を見ることができて、爺は嬉しく思いますぞ」
爺やが嬉しそうに呟く。
そういえばこんな風に物事に熱心になるのは久しぶりだ。その感覚にドキドキする。
「じゃあ、彼の所に行ってくるわね」
「あ、お嬢様お一人では、」
「大丈夫よ」
止める爺やを振り切って、彼のもとへ駆け足で向かった。
契約書を受け取ってくれるか不安で緊張しながら扉を開けると、彼は目を覚ましていた。ベッドに横たわり、天井をぼんやりと見つめている。
「あっ、目が覚めましたか」
「お前…」
「痛いところはありませんか? あ、お腹空いていますか? それともまだ寝ますか? 起きますか? 私としては少しだけ起きてお話して欲しいのですが」
「は?」
話せることが嬉しくて矢継ぎ早に質問をすると、怪訝な顔をされてしまった。起き抜けだからきっと頭が上手く働いていないのだと思う。
視覚に訴えたほうが早いかと思って、そうっと雇用契約書を彼に差し出す。
「何だよ」
「雇用契約書です」
「はぁ?」
「私の自由になるお金はないので、あなたにお金を差し上げることはできません。でも、職なら、どうにか。うちで、あなたを雇います。働けばお金は支払われますし、服は貸与できます、食べ物もあります。お金が入れば、好きなものも買えます」
「待て、ちょっと待て」
「やっぱり、これでは代わりにならないでしょうか?」
「違う、そうじゃない! あんた、本気で俺を雇う気なのか?」
「はい。爺やにもきちんと承諾をもらいましたし」
「同情でここまでやるかよ…」
「同情、なのでしょうか」
「は?」
「倒れている人を見たとき、助けたいって思うのは、同情っていうのですか? 私、よくわからなくて…私が『お嬢様』だから、ですか?」
ただ必死に彼を助けたいと思った。助けたかった理由はわからない。でも、彼をうちで雇ってもらおうと思った理由を問われたら答えられる。もっと彼と話したかったからだ。この白黒の世界に色を当ててくれるのではないかと思ったから。
「同情だと思ってもいいです。同情なのかもしれないし…でも、私はあなたを助けたいって思ったのです。だから、うちで働きませんか? ええと、ごめんなさい、あなたの名前を知らないです」
そうだ、私は彼の名前さえ知らなかった。それなのに助けたいと言われても、信じがたいかもしれない。
黙り込んでしまった彼の顔をそっと覗き込むと、彼はわずかに頬を染めて俯いていた。
「ローだ」
「ローさん」
「呼び捨てでいい。さん付けなんてむず痒くて嫌だ」
「わかりました。では、ロー」
「なんだ」
「これからよろしくお願いします」
「…ああ」
また少しだけ、世界が色づいた気がした。
それからというもの、ローは爺やにしごかれてせっせと仕事に励むようになった。
「あの爺さん元気だよな」
「ふふ、そうですね。あ、ここの生活は慣れましたか?」
「まぁまぁだな」
ここにローが来てから三ヶ月。ローはその腕っ節の強さが認められて、私のボディーガードの仕事をしてくれている。私としてもたくさんお話しできるからその方が嬉しい。
「良かったです」
「嬉しそうだな」
「はい」
「変な奴」
「そうかもしれませんね」
他愛ない会話が楽しい。爺やは「お嬢様に何という口のきき方を!」と叱っていたけれど、私はこうやって特別視せずに話してくれるのがたまらなく嬉しい。今までにないくらい毎日が楽しい。これがずっと続けばいいと思っていた。
「今日、お父様が帰ってこられるの」
「ふうん。会うのは初めてだな。どんな人だ?」
「厳格だけれど、優しい人ですよ」
お母様が亡くなるまでは、という言葉は飲み込んだ。
ローにお父様のマイナスイメージを植え付けてしまうのも気が引けたし、もしかしたらまた昔のような優しいお父様に戻っているかもしれないから。また、昔のように笑ってくれると信じているから。
「リーア様、旦那様が帰ってこられましたぞ」
「わかったわ。すぐに行きます」
ドキドキしながら階段を下る。誕生日会にもいらっしゃらなかったから、会うのは半年ぶりになる。どうか、しっかり会話ができますように。
久しぶりに見たお父様の顔は、以前より少し痩せこけていた。かろうじて髪は整えてあったけれど、やつれているようにも見える。
仕事に打ち込みすぎなのではないだろうか。無理を重ねているのではないだろうか。
「お父様、おかえりなさいませ」
お父様の目の前に立ち、そっとお辞儀をした。「ただいま」という、たった一言を期待して。でも、
「入用なものが出たから寄るだけだと言っただろう。用意しておくように伝えておいたものは? 受け取り次第すぐに出る」
それは叶わなかった
「旦那様、リーア様と少しお話を」
「早く渡せ」
「…こちらです」
「ああ、これだ。では私は戻る。屋敷のことは頼んだぞ」
お父様は書類を受け取るとすぐに歩きだし、バタンと目の前の扉が閉められた。
私に目線を移す事すら、1度もせずに。
顔を上げることが、できなかった。
「リーア様」
「今日、予定はありませんでしたよね」
「はい」
「部屋に戻ります。少し一人にして」
「…かしこまりました」
そうだ。何を浮かれていたのだろう。
私はいらない存在だってことを、すっかり忘れていた。
部屋に帰り、扉をぱたんと閉めてその場にずるずると座り込む。
「馬鹿みたい」
泣きそうだ。
でもいくら自分の部屋とはいえ、誰が聞いているかもわからないから泣くことさえもできなかった。自分の弱みをさらけ出すのは怖かった。付け込まれる隙になってしまうから。
「リーア?」
ぎゅうと膝を抱え込んでふるえていたら、扉の向こうからローの声が聞こえてきた。
潤んだ視界でローの前に出ることが憚られて、精一杯普通の声色を作ろうとする。
「す、少し、疲れてしまったみたいです。久々にお会いしたから緊張して」
「無理をするな」
「え」
「俺は、リーアの親父さんのこと知らないし、リーアがどんな風に育ってきたかも分かってない。でも、リーアが頑張ろうとしている気持ちは伝わってくる」
優しい声色が聞こえてくる。
やめて。
私はそんな風に優しくされる価値などない存在なの。
「あと、そんなに無理ばかりすると、心配だ」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。俺が勝手に心配しているだけだ。ここなら誰も来ないし、誰か来ても俺が近づかないようにするから、少しくらい泣いてもいいんじゃないか?」
「…っ」
その日、久しぶりにぽろぽろと大粒の涙をこぼして泣いた。
ローに聞かれるのも少し恥ずかしかったから声を殺して泣いたんだけれど、ローには「意地っ張りなお嬢様だな」と苦笑されてしまった。
お父様とはその後も結局会話を交わすことはなかった。ただ時間だけが過ぎていった。
そうしてそれから二年と少し。
お父様は、流行り病で亡くなったと、聞かされた。
**
「お父様は、私などいらない。私は、いらない存在なんです」
「そうかなぁ…」
「はい」
「ローは?」
「え」
「少なくともローはリーアが必要なんじゃないの?」
「私、そんな価値ないです。ローは誤解しています。私が必要だなんて勘違いです」
「ちょ、本人の前で」
「別に構わん。前からずっと言われ続けてるし。そんな事言われたところで離れるつもりもないけどな。信じられないなら一生かけて証明するまでだ」
「薄々分かっていたけど、あんたたちの温度差ってすごいわよね」
「そうですね」
「そうだな」
「息はぴったりなのね」
ローは私に「好き」という温かい感情も、私が「必要な存在」だという肯定もくれる。
でも、それはやっぱり私のことを買いかぶりすぎだと思う。
卑屈なのかもしれないってことは分かっているの。でも、どうしても信じきることができない。
「ああもう暗いわね! こんな時は明るく楽しくするためにこのルルちゃんが踊ってあげるわ!」
「いらん」
「うるさい! 踊るっていったら踊るのよ!」
ルルさんがステップを踏みながらくるりくるりと踊り始める。
すると、その舞を見ていたひとりの青年が、おもむろに持っていたギターを弾き始めた。
元気になるような、身体が自然と動き出すような踊りと伴奏。
そして、いつの間にか楽しい音楽につられて周りの人が集まってきて、お祭り状態になった。
ああなんて、すごいんだろう。
あれから隣の部屋からもどんどん人が集まってきて、どんちゃん騒ぎになった。
私はそんな喧騒から少し離れて、ソファで座っていた。
周りの喧騒から離れると、途端にその世界から切り離されたような錯覚を覚えた。このまま消えてしまいそうだなと考えていたら、ぽんと肩を叩かれた。
「ぼんやりしてるけど、大丈夫?」
「はい」
「みんな待たされすぎてストレス溜まってたみたいだから、こういう風に発散できるのはいいわね」
「そうですね。皆さんをそんな風に惹きつけられるなんて、ルルさんはすごいです」
「別にすごくないわよ」
達成感に溢れた顔。とても楽しかったのだと分かる。
「会った時に話してくれたお師匠様も、素敵な舞を踊られるのでしょうね」
「そうね」
ルルさんは誇るように胸を張った。でも、すぐに笑顔は消えて、しゅんと肩を落としてしまった。
「ルルさん?」
「姉さんの踊りは、もう見られないよ」
「え」
「怪我して、踊れなくなっちゃったから」
ルルさんは服の裾をちょいちょいといじりながらふうとため息を吐いた。
「それでも、あたしに『私の分まで頑張れ』って言ってくれた。衣装も全部くれて、自分は一線から引いたの。団には残ってたんだけどね、できることは雑用くらいで、辛かったと思う。それでもいつもニコニコしていてさ」
「そうだったのですか」
「だから、団から逃げたこと後悔してる。あんなことがあったとはいえ、団から逃げ出したあたしを、姉さんは怒ってるんじゃないかって。逃げないで、話し合えばよかったかなって。簡単に逃げることを選ぶなんて、失望されたかなって」
「そんなこと」
「今となっては分かんないけどね!」
あははと笑うルルさんは、上手く笑えていなかった。
「見てみる?」
「きゃっ」
「ごめんね、驚かせた?」
いつの間にか私の隣に冥府の王が座っていた。一体いつどうやって現れたのか、全く分からない。
「さっきぶりだね」
「神出鬼没ね」
「まぁね。そうだ、見てみる?」
「何を?」
「現世」
「見られるの?」
「この鏡に現世を映すことができるんだ。すごいだろう。本当は死者に見せると現世に未練が残って冥府から動けなくなってしまうことがあるから、普通はあまり見せないんだ。でも、ルルちゃんには特別に貸してあげよう」
「すごいわね。でも」
「はい」
王がルルさんの手にぽんと鏡を乗せた。ルルさんは躊躇っていたけれど、恐る恐る覗き込んだ。私も立ち上がり、ルルさんの隣で鏡を覗き込む。
『ルルが死んだって実感が湧かないわ。でもこれは確かに私があの子にあげた衣装ね』
『亡骸は?』
『町の神父様が弔ってくれたみたい。遺品を処分しているときに偶然通りかかったのは奇跡だったわ』
『ルル、可哀そうに』
『誰のせいだと思ってるの?』
『誰?』
『団長のせいでしょ!』
『なんでだよ!』
『あんたが襲ったから逃げたのよ、この馬鹿! 襲ったりしなければ流行り病になんてかからなかったわ!』
『ルルが可愛いから悪いんだ』
『馬鹿! こんな馬鹿のせいであんなに素敵な舞を踊る子が死んでしまうなんて、本当に嫌な世の中。ルル、無念だったでしょうね。ああそうだ、私、この一座を抜けますから』
『え』
『もうあなたと仕事をする気はないわ。あと、最近のあなたのセクハラ行動に嫌気がさしてる子たちも連れていくから』
『困るよ!』
『自業自得よ』
『そんな…』
『ルル、見守っててね。天国にも届くような楽しい踊りが出来るように、頑張ってみんなのこと鍛えるから。だから、見ててね』
その笑顔は、とても温かかった。
「姉さん」
ぽたぽたとルルさんが涙をこぼす。
「優しい方ですね」
「うん」
ルルさんの涙をハンカチでそっと拭う。
「もっと生きたかったな」
ぽつりとこぼされた言葉に、胸がきゅっと軋んだ。
「でも、死んだのは仕方ないし、姉さんたちにまた会えるまで待ってようかな。天国に行けるか地獄に行くかはまだ分かんないけどね! もう、姉さんったらあたしが天国に行くと思ってるんだから」
ルルさんは強い。ううん、強くあろうとしている。
その輝きが眩しかった。
「キミも見る?」
「いえ、私は結構です」
見たくなかった。見なくても何となく察しがついた。だから鏡を押し返したんだけど、ほんの一瞬ちらりと見えてしまった。
そこに映し出されるのは、親族の人たち。
『当主の遺産はどうなるんだ』
『リーア様が全て相続するのか?』
『リーア様お一人じゃ荷が重いのではないか』
『では、伴侶をお作りになればいいのではないか。もう十八歳になったのだし、そろそろ必要だろう』
『それならば私の息子を』
『貴殿では家柄が釣り合わない』
『なんだと!』
『ここは地位から考えて我が息子と』
『貴殿こそ身の程をわきまえよ!』
『伴侶を今すぐに決めずとも、しばらくは我らがリーア様をお支えすればいいではないか』
『そうして実権を得るおつもりか?』
『そうではない』
『またこの手の話ですか。貴殿らも飽きませんな。どうしてこんなに揉めてしまうのか』
『リーア様が当主にふさわしいならこんなに揉めないのに』
「やめて!」
聞きたくない。
聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
私を道具としか見てない人の言葉なんて聞きたくない。私が私でなかったら良かったのになんて思う人たちの言葉なんて嫌だ。存在を否定する言葉も聞きたくない。嫌なの。やめて。
「リーア!」
耳を塞いでしゃがみこんでいると、ローが慌てて駆け寄ってきた。
「貴様、リーアに何を」
「ロー」
「大丈夫か? 俺はここだ」
そっと手を握られる。
その温かさに戸惑う。
「私、あなたに嘘をついていました」
ローの手をそっと振り払い、うつむく。
「お父様に会うために此処に来たのは本当です。でも、お父様のために来たわけじゃない。自分のため。一人じゃやっていける自信がなかったからなの。道具として使われるのが嫌だったから。私を必要としているから道具にするのではないでしょう? その裏に私の存在を否定している気持ちがあるのでしょう。だからそんな人たちから離れて楽になりたかった。私の命を代わりに差し出すと言ったのはただ楽になりたいからです。あそこに帰りたくなかったから。私が存在していい場所なんてないの。でも一人で生きるのは怖いの。死ぬのも怖いの」
「リーア」
頭の中がごちゃごちゃになる。私のどろどろした脈絡のない言葉たちを、ただローは何も言わず受け止めてくれている。
ああ、なんて優しい人。
「私は綺麗な存在じゃないの。ローが思うような綺麗な存在じゃない。だからお願い優しくしないで。優しくされる価値なんてないの。ローが私に好意を持ってくれているのは、きっと死にかけていたときに私が助けたからなの。勘違いしているの。そこまで恩義を感じてくれなくていいの。私を、好きだなんて言わないで」
「…」
ローは黙っている。何も言わない。顔を上げることができなくて表情を見ることはできない。
これ以上ローを縛り付けたくなかった。
「馬鹿にするなよ」
向けられたことのない低い声にびくりと震える。でもそれと同時に安心もする。
やっと、嫌いになってくれた?
「これまで俺はリーアに遠慮して、ゆっくり歩み寄ろうとしてきた。でも、やめた、もうやめたからな。俺の気持ちをそこまで否定されて黙っているほど俺は大人じゃない。この三年を勘違いで済まされてたまるか!」
ぎゅっと抱きしめられる。
ああ、ローは本当にどこも優しい温かさだ。
「リーアが綺麗なだけじゃなくてかなりのひねくれ者だなんてこと、もうとっくの昔に知ってるんだよ。泣いていいって言ってるのに泣いてるの隠そうとするし、好きだって言ってるのに『勘違いだ』なんて言うし」
優しい声色で私に話しかける。
「でもな、倒れてる奴を放っておけなかったり、嫌いな奴らにだって精一杯向き合おうとしたり、一生懸命に生きようとしていることも知ってる。必要とされたいって、存在を肯定されたいって願ってることも、知ってるんだ」
優しい温度で私を抱きしめる。
「あまり俺を見くびるなよ。リーアのことならリーアより知ってる。綺麗なところも卑怯なところも全部ひっくるめて、好きだ」
ああ、どうして、こんなにも、私に、優しくしてくれるんだろう。
これが永久に続くものだなんて信じられない。いつか、離れていってしまうんじゃないかって不安になる。だったらいっそのこと最初から無い方がいい。
だからお願い、優しくしないで。
「ねぇ、会う?」
「え」
ふいに、頭上から王の言葉がかけられる。
「お父さんに」
お父様に会う?
「生き返らせるのは無理だけど、会わせることはできるよ」
「でも」
「このままだとキミは何回もここに来てしまいそうだし、誤って死んでしまったら未練で動けなくなりそうだし、そうなると面倒なんだよね」
王は綺麗に微笑んだ。
「…」
どんちゃん騒ぎに参加している人が多いからか、隣の部屋はガランとしていた。
お父様は、そこにぽつんと立っていた。
そろりと近づき、目の前に立つ。
目線が合わない。
「お父様」
返事もない。
「お父様」
お願い返事をして。
「リーアです」
あなたの娘です。
視界にすら、入れてくれないのですか。
「どうして、何も言ってくれないのですか。私はもう、お父様の中にはいない存在なのですか」
ぎゅっと拳を握りしめる。
かける言葉を探すうちに、気持ちが溢れて、溢れて、気が付いたらお父様の服に掴み掛っていた。
「私を見てください。私と話してください。生きているうちから、もっと、もっともっともっと話したかった。お母様のこともお父様のことも私のことだって、他愛ない話でもくだらない話でも楽しい話でも辛い話でも、なんでもよかった。なんでもよかったから、色々話したかった。 私を見てほしかったの。たくさん伝えたいことがあったの。お父様の話だって聞きたかったの。それなのにどうして。どうして何も言わずに死んでしまったの。どうして。いらない子だから見てくれなかったのですか。必要ないからですか。だから何も言わなくてもいいって、そう思ったのですか。私は、私の願いは、一つだけだったのに、私は、」
愛して、欲しかった
お父様はゆっくり顔を動かし、私と目線を合わせた。
「ごめんな」
そうしてぽつりと呟き、一筋の涙を流した。
でも、それきり、また視線は宙を彷徨い、目線が合うことはなかった。
「…」
「リーア」
ローが私の手を握る。
ルルさんも心配そうに私の顔を覗き込み、反対の手を握る。
温かい。
「あったかい?」
「温かい、です」
「そっか、じゃあ大丈夫ね」
きょとりとしてルルさんを見る。
「言ったでしょ、此処は自分の記憶が感覚を作るの。あったかいと感じられるってことは、リーアはあったかさを知ってるのよ」
だから大丈夫、とルルさんは笑う。
「近くにいるあったかい奴の存在も気が付いてあげなさいよ?」
ルルさんがローを肘で小突く。
そして神妙な顔になって、私の目をじっと見つめる。
「あたしの分も、生きて」
「ルルさん…」
「約束ね」
私は、生きてもいいのだろうか。
まだ迷いは消えない。
そっとお父様を見る。相変わらず目線は合わない。
お父様はどうして謝ったのだろうか。私への謝罪? 愛せなかった後悔? 本当は愛していたのだという弁明? 今となっては分からない。もうお父様の真意を聞くことはできないのだから。お父様と会って言葉を交わせることは、これから先もう二度とない。
ずっとお父様は止まったまま。
もし仮に連れて帰っても、苦しみを続かせるだけなのかもしれない。それならば、もうそっとしておいて差し上げたほうがいのかもしれない。
「この先にいるお母様と、会えるといいですね」
生きている私にできるのは、祈ることだけ。
さようなら、お父様。
「もうここに自分から来てはいけないよ」
冥府の王の楽しげな言葉が、はじけて消えた。
そうして、視界が真っ暗に暗転した。
そっと目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
身体が重い。呷った薬の影響だろうか。
ぼんやりと天井を見上げていると、優しい手つきで頭を撫でられた。こんな風に触れてくるのは一人だけ。
「ロー」
「リーア、大丈夫か?」
顔を傾けると、心配そうな表情のローと目があった。
「うなされていたぞ」
「大丈夫ですよ」
今までのことは夢?
ううん、違う。分かっている。あれは夢なんかじゃない。私は確かに冥府に行った。
ローに支えられて上半身を起こし、じっと手を見つめる。あの時感じた温かさはもう感じられない。でも、覚えている。
ローが私の手に自分の手を重ね合わせる。
「リーアは、頑張った」
「うん」
「俺が、これからも守る。今はこの言葉が信じられないかもしれないが、いつか信じさせてみせる」
「優しいね」
「リーア限定だけどな」
「変な人」
「リーアに言われたくないな」
顔を見合わせて笑う。ああ、温かい。
二人でくすくす笑っている途中で、コンコンというノックの後につづいて、ドアを開ける音がした。
「リーアお嬢様、おはようございます、本日は、」
「あ」
空気がぴしっと凍った気がした。
「ロー? き、貴様リーア様のお部屋で何をしている!」
爺やの顔がカーッと赤くなる。血圧が心配だ。
「リーア様に夜這いなど百年早い! そこに直れ、切り捨ててやろう!」
「や、やめて。違うの爺や」
はっと我に返ってローと爺やの間に割って入る。
「お嬢様そこをお退きください!」
「面倒だから、一回帰る」
「ええ」
ローはふうとため息を吐くと、私の頭にぽんと手を置く。そうしてひと撫でしてから、爺やの横を通り過ぎた。
「待て!」
ローを追いかけようとする爺やの腕を掴む。そうして何か良い言い訳は無いかと思案する。
「わ、私が呼んだの!」
「リーア様が?」
「ええ、急にのどが渇いて、近くを通りかかったローに持ってきてもらったの。それでここに居たのです」
「わたくしをお呼びくだされば良いものを」
「ごめんなさい」
爺やは納得していないようだったけど、私がしゅんとうなだれると、諦めたようにため息を吐いた。
「ローのことについては後で奴に直接問いただすとして、わたくしは自分の職務を全うしましょう。こちらに参りましたのは、ひとつ確認したいことがあったからです」
「何でしょうか」
「実は、本日は親戚の皆様がいらっしゃいます。おそらく家督の件かと」
「そうですか」
ぎゅっと服の裾を掴む。本当は会いたくない。
私の変化に気付いたのか、爺やは心配そうな顔つきになった。
思えば爺やは幼い頃から仕えてくれていて、主従関係ではあるけれど、時に厳しく時に優しく接してくれた。
「理由をつけてお帰りいただいても構いませんが」
今日もそう。言葉にこそ出さないけれど、私の身を案じてくれている。温かいと思う。でも、どうして私に温かさをくれるのか分からない。そんな価値が私のどこにあるというのだろう。
「いいえ。お話を聞きます」
「よろしいのですか?」
「はい」
ただ、分からないから逃げるというやり方はやめようと思う。私はこの現実を受け止めなければならない。自分がどう「行動」したいのか考えなくては。考えて考えて、自分の意思で決めよう。
そうして私の生き方を見つけよう。
それが私の生きる意味だ。
終
読んでくださってありがとうございました。「生きる」って難しいことだよなぁと思いながら書き進めていきました。
リーアがこのあと「生きる意味」を見つけられたかどうかは、ご想像にお任せします。