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白昼夢  作者: 佐崎らいむ
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第10章 エレジー(後編)

片山は銀の鎖を握りしめたまま、また口をつぐんでしまった坂木をじっと見つめた。

彼が語りだすのを、ただじっと待っていた。

何故だかわからないが、今はそれが自分の仕事のように思えた。


坂木は一つ息を吐くと、ゆっくり口を開いた。

「自分の身に何が起ころうと、どんな運命に左右されようとも、いつもあいつは真っ直ぐ目を見開いていた。

One Eyed Angel。天使が閉じているのは自分を見つめる真実の目だ。自分の本当の姿を見る目を閉じていなければここでは人間としての心を保てないからだよ。そうすることは組織の理想であり、俺たちの生きるすべだった。

でも、あいつは・・・陽は自分を偽ったりできないんだ。いつも胸に痛みを抱きながら生きていた。自分が手に掛ける奴らの罪を、同じ人間である自分の罪だとして全部その身で受け止めていた。そうしないと自分を許せなかったんだよ」

坂木は苦しそうに一つ息を吸った。

「人が人を裁くなんて馬鹿げてる。神を気取るなんて具の骨頂だ。だけど、死に値する奴らは確かに存在するんだ。自分の手はもう汚れてる。だからこの仕事は僕がやるんだ…って。あいつはそう言った」

坂木はゆっくり片山の方に向き直った。

「そんな奴でないとこの仕事はやっちゃいけない。必ず大きく道を踏み誤る。わかるか? 俺たちは悪魔と紙一重なんだよ」


片山は手にじっとりと汗をかいていた。

背中が強張るほど緊張しているのを感じた。

「服部さんが・・・こんど指導してくれる服部さんが言ってたんです。もうここにはいないけど、すごく尊敬する人がいたんだって。そんな名前だった。・・・その人なんですね? オレ・・・会ってみたいです。会えば坂木さんの言ってる事がわかるかもしれない」

「もう会えないよ」

坂木は諭すように片山に言った。

「あんたはまだ間に合う。犯した罪があるのなら償え。死にものぐるいで真っ当な人の道に引き返せ。俺はもう、・・・いやなんだよ」


「営業妨害だぞ、坂木」

ドスの利いた声が後ろから響いた。

坂木と片山が振り返った先で、辰巳は腕組みをして立っていた。けれどその表情は穏やかだ。

「片山、もうお前は部屋にもどれ」

片山はまだ坂木と話したい様子だったが、あきらめた表情をしたあと坂木に敬意のこもった一礼をすると、重いドアを開けて帰っていった。


「相変わらず新入りを戸惑わせてくれるな、お前は」

辰巳は静かに坂木の横に立つと言った。坂木は辰巳を見上げることもせず不満そうな声を出した。

「いつからここは罪を犯した奴らの再生施設になったんだ?」

「まあ、そう言うな。片山はエリートなんだよ」

「一番危険なタイプだ」

「だからお前に会わせた」

「俺には何の力もないよ。だれも救えない。だれも・・・救えなかった」

辰巳は坂木の手に握られている銀の鎖をチラリと見た。

坂木はそれを隠すこともせず、ゆっくりと視線だけ眼下の街並みに移した。


「もう・・・・大丈夫か? 坂木」

辰巳は視線をあげて坂木を見た。

「ああ、大丈夫だ」

「そうか。ならいいんだ」

辰巳は静かに少しやつれたように感じる坂木の横顔を見つめていた。

ビルの屋上から見る街は殺風景で味気なかったが、五月の太陽は絶えず柔らかな陽射しで坂木を包んでいた。

ふいに坂木はベンチから立ち上がり、フェンスの所まで行くとゆっくりしゃがみ込んだ。

コンクリートの隙間から太陽の光を求めて葉を広げる小さなタンポポ。

ボールのように白く丸いフワフワしたわた毛が弾けんばかりに膨らみ、微かに揺れている。

そっと触れようと坂木がのばした指の先で、

わた毛は何かから解き放たれたようにフワリと空中に舞い上がった。

ゆるい風にさらわれて坂木の指の間をすりぬけ、青い空へ吸い込まれていく。


もう 手に届かない。


・・・・・・陽。


坂木はクロスを握りしめた。

辰巳にもう一度『大丈夫か?』と聞かれたら坂木は大丈夫だと言える自信はなかった。

またあの感覚が体の中心でよみがえる。

鉛を呑み込んだように胃の辺りが重く、息が苦しい。

フェンスをつかんでゆっくり立ち上がる。

空が少し近づいた。


・・・坂木さん


坂木は息を止めて振り返った。


けれどそこには青い空があるだけだ。

あの優しい、いたずらっぽい笑顔はそこにはなかった。

いつも坂木を気遣い、そばにいてくれたあの青年はもういなかった。

坂木はそれでもまだ何かを探すように幻聴の方を見つめている。

辰巳はそんな坂木を見ていられなかった。


「坂木。さあ、行くぞ。まだお前の仕事はいっぱい残ってるんだからな。お前にしかできない仕事だ。

俺たちが道を踏み誤らないようにしっかり舵をとってくれ」

坂木はゆっくり辰巳を見た。

「ああ・・・わかってるよ」

坂木は背を丸めるようにゆっくり辰巳の方に歩いてくる。

すれ違う時、辰巳はつぶやくように言った。

「お前は あいつの最後の言葉だけ覚えていろ」

「・・・」

「仕事上、俺も聞いてたんだよ、あの時。あいつはお前に“ありがとう”って言ったろ?」

坂木は辰巳をじっと見た。

「あいつはそう言ったんだ。その言葉だけ忘れずにいろ。それがすべてだ」

辰巳はそれだけ言うと足早にドアを開け、階下へ降りていった。


まぶしい光の中一人取り残された坂木は、ゼンマイの切れた人形のように、しばらくその場に立っていた。

「俺は何も言ってやれなかった。・・・何も言ってやれなかったんだ」

坂木は手のクロスをそっと胸ポケットに戻すと、その上からギュッと握りしめた。


…あいつは確かに小さく「ありがとう」と言ってくれたのに。…


あの日。

久々の「組み」の仕事だった。

『大丈夫。ちゃんと守るから』

潜入の前にそう言って笑った陽を、坂木はいつものようにムスッとして受け流した。手間は掛るが、さほど危険を伴う仕事ではないはずだ。武器弾薬、非合法ドラッグの密売組織の初期潜入調査だった。

けれどその幾重にも張り巡らせたトラップは、侵入者を見逃しはしなかった。

坂木には見えていた。

警備員の構えた銃が捉えていたのは坂木だった。

けれど、サイレンサー特有の鈍い発砲音と同時に自分に体当たりしてきたのは弾丸ではなかった。

坂木は崩れ落ちる陽の体を支えながら、今まで一度も使ったことのない護身用のコルトを抜いた。

何が起きているのか、理解ができなかった。

ただ、長年の訓練に体が従うのに任せた。

理解できなかったのではない。

頭が拒否していたのだ。

自分の足元で動かなくなった青年を、坂木が抱き寄せるまでにどれくらいかかったのだろう。

インターフェイスを通じて辰巳が何かを指示したが、それすらも坂木は記憶になかった。

ただ、坂木は陽の名を呼んだ。

ただ、声を震わせて叫び、抱きしめ、涙を流すことしかできなかった。

生気に戻る意識のはざまで、陽の背からあふれ出す血を止めようとするが震える手は何の役にも立たない。

青年がその腕の中で、やっと小さくつぶやいた言葉にも、冷静さを失った哀れな男は、まともに答えてやることもできなかった。

辰巳が応援を要請して彼らを見つけ出すまで、坂木は青年の名を呼び続けた。

けれど何度名前を呼んでも、もう陽は二度とその瞼を開けることはなかった。

気の狂いそうなほどの絶望と悲しみが坂木を貫いた。

そんな日が来るのを覚悟していないわけではなかったのというに。

坂木は赤く染まった手を握りしめ、声を震わせ、陽の体を抱きしめたままいつまでも泣き続けた。


あれから2年が経とうとしている。

後処理をし、移動をし、事務的手続きをし。

抜け殻だった体に、時間という悲しい薬がなんとか血肉を与えてくれた。

けれど。

もう決して泣くまいと思っていたのに、あの日を思い出すだけで、あの笑顔を思い出すだけで、あとからあとから涙が溢れてくる。


今でもあのときの感触は坂木の体から離れない。

初めて出会ったときに抱きしめた頼りない細い体は、最後に抱きしめたあの日も同じように儚かった。

自分は、どれほどその華奢な体に頼っていたのか。

どれほど酷いことをしていたのか。

すべてが悔やまれてならなかった。

後悔と悲しみ以外に、何一つ残らなかった。


『ありがとう』

どうしてそのたった一言、苦しい息の下でやっと言ったあいつの最後の言葉に答えてやれなかったのか。

憎らしくて腹立たしくて、自分自身を殴りつけたくてたまらなかった。


「ごめんな、陽」

坂木は、もう何千回、何万回言ったかわからない言葉をつぶやいた。

ただ、ただその言葉を届けたかった。

何もしてやれなかった自分にいつも寄り添い、支えてくれた青年に。


「陽。ごめんな。許してくれなくていい。俺を恨んでくれていい。ただ、いまだにどうしていいかわからないんだ。この馬鹿な男を叱ってほしい。殴り飛ばしてほしい。俺は・・・おれは・・・」

坂木は胸のクロスを握りしめながら、突き抜ける青空の下、コンクリートの床に崩れ落ちた。



  (第10章 エレジー END)


                  ・・・最終章へ続く

 

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