第9章 天使の称号(7)
陽は自分が連れて来られたその部屋をぐるりと見渡した。
第三支部地下2階。
薄汚れたコンクリートの壁にはむき出しの錆びた鉄筋が張り巡らされている。
澱んだ空気はしばらく人の出入りがされてないことを感じさせた。
腕を掴んで乱暴に陽をこの部屋に招き入れたスーツの男はドアの外に消え、
替わりに黒崎が靴音を響かせて入ってきた。
「お前の相棒も一緒に来るように端末に連絡を入れたはずだが」
黒崎は能面のような表情で陽に言った。
「あの人には関係ありません」
少し強い口調で答えた陽をじっと見据えて黒崎はわざとらしく溜息をついた。
「俺がナメられてるのか、お前に言葉が通じないのか、どっちだ?俺はお前に女を消して来いと言ったんだ。素直に行く振りだけして時間稼ぎしやがって」
「やっぱり聞いてたんですね」
陽はクスッと笑った。
黒崎の目がギラリと光って陽を睨みつけた。
「どうやら本当にナメられてるらしいな。お前は自分の立場を分かってるのか?」
陽は真っ直ぐ黒崎を見つめると、はっきりした口調で言った。
「彼女が警察や誰かに口外したりすることは絶対にありません。彼女に手を出しても無意味です」
「無意味かどうかを決めるのはお前じゃない。すべてこの俺だ! 仕事を一瞬でも見た人間が存在するだけで組織にとって大きなマイナスなんだよ。あんな男に金で買われて生きているような腐った女、一人や二人消してなんだって言うんだ?」
「・・・」
陽は左手をぐっと握りしめて怒りを堪えるように体を強ばらせた。
黒崎はニヤリと下卑た笑いを陽に向ける。
「おっと、すまなかった。お前の母親も同じだったな。堕落した世界の人間だ。それであの女に同情したか? 自分の母親を殺すようで、嫌か?」
そう言って喉の奥でカエルのような籠もった笑いを漏らす。
陽は握った手に更に力を入れ、目の前で笑っている男を睨んだ。
「まあいい。あの女が見たのはお前だけだ。OEAの存在さえ知られなければ問題ない。あの女を始末できないのなら、お前が消えろ」
黒崎は腰の後ろに手をやると、その分厚い手にすっぽり収まるくらいの小さなリボルバー式拳銃を取り出し、ゆっくり銃口を陽に向けた。
陽は一瞬ピクリと体を反応させたが、さらに挑むように黒崎を真っ直ぐ見た。
「俺はお前みたいな奴が大嫌いなんだよ。自分の立場もわきまえずに上に楯突くような奴がな。本部のやり方が生ぬるいからそんな奴が出てくる。使えない奴は一掃すればいいんだ。それが合理化ってもんさ。なあ、そう思わないか?」
黒崎はアゴを上げ、見下したような視線を再び陽に向けた。
「最後にもう一度聞いてやる。俺の命令に従え! YES か、NO か!」
耳の痛くなるような静寂がその場を満たした。
陽は迷いのない真っ直ぐな目を黒崎に向け、強い口調で言った。
「NO」
黒崎は鼻にシワを寄せるようにして顔を歪ませ、忌々しそうに言葉を吐き捨てた。
「使い魔ごときが。 お前のような奴は必要ない」
黒崎は太い親指で撃鉄を起こすと引き金に指をかけ、陽の額に銃口を向けた。
陽の脳裏に一瞬、あの男の顔が浮かんだ。
唯一自分を理解し、ずっとそばに居てくれると言った男。
何も無い自分に、生きろと言ってくれた。
“勝手なことをして”と、彼は怒るだろうか。
心臓を掴まれるような痛みを感じて陽は、ゆっくりと目を閉じた。
「そいつに少しでも傷を負わせて見ろ。その頭をぶち抜いてやる!」
ふいに低くよく通る声が響いた。
ハッと息を吸い込む音をたてて黒崎が振り返る。
勢いよく体を退いたため足がもつれ、不格好に大きくよろけた。
陽も顔を上げ、声の方向を見た。
辰巳が黒崎の顔にピタリと照準を合わせ、慣れた手つきでコルトを構えている。
黒崎はチッと小さく舌打ちをして構えていた銃を下ろすと、口の端に薄笑いを浮かべながら辰巳に向き直った。
「やめてくださいよ辰巳さん。OEAのルールに従わないこいつを指導してただけです。そんな物騒なもの私に向けないでもらえませんかね」
口元にさらに卑屈な笑いを浮かべながも黒崎の目は憎々しげに辰巳を睨んでいた。
辰巳はコルトの照準をぴくりとも動かさない。
「二度とそいつを使い魔などと言うな。悪魔はお前の方だ」
辰巳は極限まで達した怒りを辛うじて抑えながら、静かに言った。




