第9章 天使の称号(6)
黒目がちの、どこか儚げな印象の目を見開いて希美子は男を見た。
自分は聞き間違いをしたのだろうか、と。
「逃げろって言ったの? 今」
男はこくんと頷く。
「私を殺しに来たのかと思った」
希美子は自分が少しもその男に恐怖心を抱いていない事を不思議に思いながら、そう言ってみた。
「そんな事しない。とにかく時間がないんだ。できれば誰にも言わず、この街を出ていって欲しい」
「勝手ね」
希美子は思わずクスッと笑った。
「ぜんぶあなたの都合なのね」
まるで恐れていない自分と、自分よりも戸惑っている様子の人殺し。その構図がやけにおかしかった。
「申し訳ないけど、私はここから出られないのよ」
そして今度は自嘲気味に笑った。
「あなたが何故あの晩あんなことをしたのかも、なんでまたそんなこと言いに来たのか分からないけど、実のところとても感謝してるのよ。変でしょ。だけど」
希美子はそこで少し言葉を区切った。
「あなたが自由をくれたというのに、私は他の生き方がわからないの。・・・大丈夫よ。警察になんて喋らない。どうせ心臓発作で片づけられた事件なんだから。変に混ぜ返すと私が疑われちゃう」
「そんなこと通用する連中じゃないんだ。逃げなければきっと殺される」
「お腹にね、赤ちゃんがいるの」
一瞬、息を呑むように男は黙った。
「どこまでもバカな女でしょ? でも、殺すことなんてできないじゃない。絶対にできない。
だったらここで生きるしかないの。他に生き方知らないんだもん。わかるでしょ?」
男は言葉に困ったように希美子を見ている。
希美子はそれに優しく微笑み返した。
「それに逃げたって、一緒なんでしょ? 危険なのは。ほら、そんな顔しないで。心配してくれなくても大丈夫よ。自分の身は自分で守る。何とか生きて行くから。二人で」
希美子は時間を気にするようにドアを振り返る仕草をしてみせた。
「もう行かなきゃ。ママに叱られる」
男は静かな悲しげな目で希美子を真っ直ぐ見つめると、微かにかすれるような声で尋ねた。
「その子は・・・あなたの重荷なの?」
希美子は一瞬戸惑うように男を見つめた。
どうしてそんな事を聞くのだろう。
けれど真剣なその声に、できるだけ優しく希美子は答えた。
「いいえ、この子は・・・希望よ」
◇
何か空気の動く気配を感じて坂木はソファから起きあがった。
空きっ腹で飲んだせいか、不覚にもすっかり眠ってしまったようだ。
陽が帰ってきたのだろうか。
坂木は立ち上がって部屋を見渡したが、陽の姿はどこにもなかった。
確かにさっき気配がしたと思ったのに。
寝室とバスルームを覗いたが、やはり誰もいない。
夢でも見たのだろうか。
けれど少ししてリビングのテーブルを見た坂木は、黒崎に持たされた端末が消えているのに気が付いた。
やはり陽は戻って来て、また出ていったらしい。
声をかけてくれなかったことに腹を立てながら、坂木は陽の携帯に電話をかけてみた。
今ならかけても差し支えないだろう。
けれど、陽の携帯は寝室の隅のカウンターで唸っていた。
「あのバカ、ワザと置いていきやがった!」
唸るのをやめたその携帯をよく見ると、その下にまたもやメモのような紙が挟んである。
『一度帰ってきました。
ちょっとまた出かけてきます。
すぐ戻るので心配しないでください』
「・・・ったく、これだけかよ! 人を散々心配させておいて」
坂木は頭に来ていったんそのメモをクシャッと握りつぶしたが、もう一度拳を開き、ゆっくりと掌で伸ばした。
強情なまでの優しさがそこにあった。
怨むべくは耐えられずアルコールに頼った自分なのだ。
スルスルと手の中をすり抜けていく。
助けようにも、まともにその手を掴ませてもくれない。
時刻は午前5時。
窓の外はまだ明けきれずにくすんだ色に沈んでいた。
「今度帰ってきたら延々と説教してやる」
坂木はメモをポケットに突っ込むと、ベッドに倒れ込んだ。
ポケットの中のメモが、一枚増えた。
・・・支部がこの後どう出るかはわからない。逃がしたとしてもいずれは突き止めるだろう。
危険性は無いとして、あの女を放っておいてはくれないだろうか・・・。
無力感が坂木の思考を邪魔し、更に無気力にしていく。
空っぽのとなりのベッドを見ながら、坂木はもう一度酒のせいで重くなった瞼を閉じた




