第9章 天使の称号(5)
夜11時。
ラウンジは客の吸うタバコとアルコールの臭いで満たされていた。
希美子は不意にこみ上げてきた吐き気に手で口を覆った。
店に出るのはもう半年ぶりだ。体が慣れていないせいもあるのだろう。
先輩ホステスが「もう上がりなよ」と声をかけてくれたので、
希美子は小さく頷きラウンジの裏からふらつきながら外に飛び出した。
目をぎらつかせた野良猫が驚いて矢のように闇に消えていった。
場末の路地は薄汚れて澱んだ臭いがしたが、今の自分にはお似合いだと思えた。
自由も尊厳もない屈辱的な日々から解放されたというのに、自分はまたここに舞い戻ってきた。
希美子は少し張るように痛む下腹を押さえて顔をしかめた。
“また私を責めている。仕方ないのよ。もう腐ってるんだから。”
その時、薄暗い建物の蔭で何かが微かに動いた。
ハッとして希美子は身を縮める。
「ごめん。何もしないから声を出さないで」
その影は希美子と距離を取りながら声を潜めて話しかけてきた。
「誰?」
希美子は目を凝らしてその人物を見つめる。
暗闇に目がなじみ、その男の姿を捉えると希美子は一瞬体を強ばらせた。
後ずさりしてゆっくりドアノブに手をかける。
「待って! 少しでいいから話を聞いて欲しい。お願いします」
思い詰めたようなその声に希美子は不思議な感覚に捕らわれ動きを止めた。
自分の目の前で人を殺した男が、それを見てしまった自分の所に再び現れた。
それがどういう事なのか誰だって予想はつく。
それなのに、その男が言ったのは意外な言葉だった。
◇
坂木はラジオのボリュームを上げてソファに沈み込んでいた。
食事をする気にもなれないまま、ただじっと時計を睨んでいる。
テーブルに置いてあったメモが、空調の加減かひらりと足元に落ちてきた。
それは陽が残していった走り書き。
坂木はそれを拾うと、急いで書いたらしい文字をもう一度眺めた。
『このメモを読んでも声を出さないで。
支部から渡された端末はそれ自体が盗聴器になっています。
GPSのついたこれを僕が素直に持っていかない事くらい分かっていると思うけど、
指示通りに動くかどうか彼らは監視したいんだと思う。
僕は、あの女の人を逃がしたい。
それがどういう結果を招くか分からないけど。
僕にはそれしかできません。
ごめんなさい。
どんな結果になっても、坂木さんには迷惑かけません』
坂木は再び時計を見た。
陽が出て行ってもう7時間が経つ。
テーブルに置いた忌々しい端末にずっと監視されているようで、
坂木はラジオの音量をさらに大きくして新聞を広げた。
バカが。
何が“ごめんなさい”だ!
こみ上げてくるものを何かにぶつけたくなって、坂木はその端末を手に取った。
もちろん叩き壊すわけにはいかない。
陽が見ていたファイルを開くとそこには陽を目撃したと思われるターゲットの女の情報が入っていた。
その情報を読み取る坂木の顔が次第に歪む。
酷似している。
坂木はファイルを閉じテーブルに端末をそっと戻すと、
今日はやめておこうと思った酒のボトルに手を伸ばした。
陽・・・・お前が逃がしたいのは“お前の母親”なんだろ?




