第9章 天使の称号(2)
「ガキじゃないんだ。心配はいらんだろう」
少し呆れたように笑う辰巳をチラリと見て、また坂木は陽に視線を戻した。
「昨夜の仕事の後、様子がおかしかったんだ。いつにも増してしゃべらないし」
「気になるなら聞きゃあいいじゃないか」
辰巳が不思議そうに坂木を見る。
「ああ、まあ、そうなんだがな」
坂木は曖昧に笑いながら、ただじっと犬の横に座っている青年を見つめた。
「まったくお前も気苦労が多い性格だな。大丈夫だろ。あいつはそんなに弱い奴じゃない」
辰巳がそう言うと、坂木は目だけ辰巳に向けてフンと小さく溜め息のように笑って見せた。
「じゃ、俺は戻るわ」
腰を上げて去ろうとする辰巳を見上げ、坂木は小さく言った。
「俺みたいな末端の使いっ走りにさっきみたいな重要事項は漏らさない方がいいぞ」
辰巳はおどけたように眉を動かす。
「ああ、気をつけるよ」
口の端で少し笑いながらそう言うと背を向け、辰巳は木漏れ日の中に消えていった。
坂木は空になったタバコの箱と空き缶をゴミ箱に投げ入れると陽の姿を探した。
まださっきの場所に犬を従えて座っている。
話しかけるでもなく頭をなでるでもない陽を、それでも尻尾を振りながら痩せた白い犬は見上げている。
「陽」
坂木の声に、陽よりも先にその犬が反応し、警戒したようにひとつ吠えた。
その待遇の違いに少しムッとした表情で坂木が近づくと、陽は柔らかく笑っておはようとだけ言った。
坂木は、昨夜仕事が終わってから初めて声を聞いたような気がした。
「野良犬を手なずけてどうする気だ?」
坂木の言葉に陽はおかしそうに笑う。
「2日前に一度パンをあげたら懐いちゃったんだ。離れようとしないんで困ってる。どうしたらいいかな」
「野良犬に食いもんやるんじゃないよ」
「え? そうなの?」
「野良猫なんかは特にな、安心して子をたくさん産む。まあ、猫はともかく野良犬はそもそも居るのが変なんだけどな。こんな場所で保健所にも捕まらず生きてるのはめずらしいよ。よっぽど警戒心が強くなきゃすぐ捕まる。・・・でも、そうは見えねえな。お前に懐いてるし」
坂木が痩せて所々毛の抜け落ちている白い犬を覗き込むと、犬は喉の奥で低く唸った。
「なんだ、おまえにだけか」
再び坂木が不満そうな声を出した。
「保健所に捕まるとどうなるの?」
「何にも知らないんだな。一週間で処分さ。ペットや介助犬以外の犬は人間には必要ないんだろうよ」
「必要ないから殺されるの?」
陽の真っ直ぐな視線に一瞬ドキリとして坂木は口ごもった。
「・・・この世は理不尽なんだよ。いろいろとな」
陽はそれ以上何も言わず、汚れた白い犬をみつめるとそっと手を伸ばしてその頭をなでた。
犬は嬉しそうに目を細めてしっぽを左右にゆっくり振っている。
「ねえ、坂木さん。もうこの街を出よう?」
小さくポツリと言った陽の言葉に、坂木は何故か妙な感覚を覚えた。
「・・・まだ支部から移動の指示が出てないんだよ。でも、どうした? 何かあったか?」
「何でもない」
そっけなく答える陽。
坂木はあえてそれ以上何も聞かなかった。
触れて欲しくない部分にはなるべく触れないようにしてやりたかった。
後で支部に連絡をつけよう。ここに留まる意味も無いし。
そう思った時、電話の着信が鳴った。まさに、その支部からだ。
陽は一瞬反応し、少し緊張した表情を坂木に向けた。
「はい・・・・。はい、そうです。・・・・・え? 今からですか?・・・・いえ、そう言うわけじゃないです。はい・・・・わかりました」
電話を切った坂木が陽を見ると、やはりずっと真剣な目でこちらを見ていた陽と目が合った。
一瞬嫌な胸騒ぎがしたが、坂木は用件だけ陽に伝えた。
「支部長の黒崎がお前に話があるそうだ。すぐ来いってさ」
陽は目をそらさなかった。
「・・・・はい」
決心ともあきらめともつかない声で陽は小さく坂木に答えた。




