第9章 天使の称号(1)
深夜のマンションの一室。
夜景からこぼれてくるわずかな灯りの中で、その二つの影は凍り付いたように動きを止めた。
クローゼットの影から覗き見てしまった事実が理解できず、放心した女の口から声にならない声が漏れる。
男はピクリとも動かず、ただじっとその女を見つめていた。
薄い、肌の透けるようなナイトドレスに身を包んで座り込んでいる女の、腕や手首には無数の傷跡が浮かび上がってた。視線をほんの少し動かしその傷をとらえると、男は戸惑いとも悲しみともつかない表情を浮かべた。
女は『次は自分の番』なんだと思った。
そっと無意識に下腹に手を当てる。
不思議と怖くはなかった。
女はもう一度、立ったまま自分を見つめている男を見上げた。
男は一瞬辛そうに顔をゆがめた後、何か言いたそうに口を開いた。
けれどもその大きな瞳を伏せた後、何も言わず静かに背を向け、ゆっくりと部屋を出ていってしまった。
女はまだ少し放心したように男が出ていったドアをしばらく見つめた。
思いもよらなかった。どうして自分を生かしておいてくれたのだろう。
目撃者だというのに。
女はゆっくり部屋を見渡す。
いつも見慣れている美しいディテールのキングサイズのベッド。
その上には誰もいない。
“それ”はそのベッドと壁の間に体を折り曲げて転がっていた。
ゆっくりと立ち上がり、その姿を確認する。
ベッドの上でなく、ホコリのういた床の上で硬直し始めている“それ”をじっと見つめながら、
不思議と女は安堵の笑みを浮かべた。
解き放たれた。そして自由と不自由が手の中に残った。
これからどこへ向かって歩き出そう。
女は答えを探すように、もう一度あの若い男の消えていったドアを静かに見つめた。
◇
ホテルから少し離れた場所にある公園のベンチに座り、坂木はタバコをふかしていた。
秋らしい雲の浮かんだ穏やかな朝の空。
蝉の声もいつしか消え、時折心地よい乾いた風を感じる。
坂木の座るベンチに、がっちりした長身の男が近づいてきた。
坂木はチラリと見上げて確認すると、鬱陶しそうに眉根を寄せた。
「なんだ」
「相変わらずお前はいつも機嫌が悪いな。坂木」
辰巳は少し苦笑しながら坂木の横に座ると、缶コーヒーをその手に押しつけた。
「こんな所でお前に声をかけられるとは思ってなかったからさ。しかも朝っぱらから。第三支部に出張か? 総合管理部長に就任したってのに、ご苦労なこった」
坂木は鬱陶しそうに言い、缶コーヒーを受け取るとベンチの端にコンと置いた。
「嫌味な言い方はやめろ。階級は関係ない。デスクワークは嫌いなんでね」
「あんまりポンポン昇進したら妬みを買うぞ。本部を空けっぱなしにするのも感心しない」
「忠告は参考にするよ。本部は代理を立ててある。少し内部調査なんだ。支部上層部に不審な動きを見つけてな」
「やめてくれよ。こっちは支部に命預けてんだ。まあ今回の仕事は昨夜終わったからいいんだが。昨日その話を聞かなくてラッキーだった」
「昨日聞いてたら陽に仕事をさせなかったか?」
「かもな」
「軍事裁判ものだな」
そう言って辰巳はおかしそうに笑った。
「・・・で、何なんだ、その不審な動きってのは」
興味深そうにチラリと視線を向けてくる坂木に、辰巳は声のトーンを少し落としてよく通る低い声で話し始めた。
「OEAにロシア支部があるのを知ってるな。去年までそっちの指揮をとらせていた上層部の中に、どうもあちらさんの諜報部と密に繋がりを作って裏工作を始めた奴がいるらしくてね」
「諜報部・・・KGBの残党か?」
「旧体制崩壊後はSVR。だが中身は相変わらず旧態善としたもんさ。一年前敵対しているグルジア特務機関の参謀2名と補佐官が消された。まったくきれいな手口だったそうだよ。まるで特殊な訓練を受けたような」
「・・・まさか」
「まさかと思いたいね。けど、時を同じくしてOEAの使徒が二人行方不明になった。ロシア支部のな。逃亡と見なして探していたが、数ヶ月前遺体で発見された」
「・・・誰なんだ。裏で糸を引いてた奴は」
坂木は声をひそめて身を乗り出した。
「残念ながらまだ絞り込めていない。この支部の奴かどうかも分からないしな」
「金が動いたのか?」
「そう言うことだ」
坂木は腹立たしそうにタバコを地面に投げつけると足で踏みつぶした。
「末端の人間は使い捨てってわけか。金のために」
けれど辰巳は何も言わず自分の中の怒りを静めようとするかのように眉間に皺を寄せている。
坂木は苛立ちを辰巳に向けるのをやめて小さく息をつき、ぬるくなった缶コーヒーを開けて一気に飲み干した。
少し陽射しが強くなったが、それでもきな臭い話はまるで似合わない、穏やかで心地いい朝だった。
「・・・おまえの相棒、のんきに犬と遊んでるぞ」
ふいに辰巳が少し笑いながら公園の反対側の植え込みの辺りを見ながらつぶやいた。
「ん?」
辰巳の視線を辿る坂木。
見ると、頑丈な木製の柵にもたれるように座っている陽の足元に、一匹の白い痩せた犬が
じゃれつくでもなく静かに座り、声をかけて貰うのを待っているように見上げている。
「今朝起きてから、あいつの姿を見なかったんで心配だったんだ」
坂木は真顔でポツリと言った。




