第8章 渇望(4)
予感はあった。
だがその暗闇での襲撃はあまりにも突然で、笠原はとっさに身を守ることができなかった。
角材か何かによる頭部への一撃のあと急激に意識が薄れ、路地のアスファルトの上にうずくまった。薄く開けた瞼の隙間で、どこかの店の寂しげなネオンが歪んで瞬いた。
鼻の奥に血の臭いが広がる。
そのあと強い蹴りが腹部に入り、笠原は防御のために全身に力を入れて丸くなった。
けれどそんなものは何の抵抗にもならない。
何度も振り下ろされる角材に打たれ、顔になま暖かいものを感じながら、ただひたすら石のように体を硬く縮めた。
息ができない。
意識が遠のいていく。
けれど不思議と笠原には悲壮感はなかった。
金と退屈しのぎのために危ない橋を何度も渡った。
酔狂が過ぎると女に言われ、愛想をつかされた。
いつこんな日が来てもおかしくないと思っていた。
閉じているのに目の前が真っ白になっていく。
ああ、やっと・・・。笠原は痺れた口元に笑みを浮かべた。
・・・やっと渇きが止まる・・・
けれど、急に音が消えた。
体への衝撃も途絶えた。
チラチラと小さな丸い光が泳ぐ。
バラバラと数人の足音が乾いた音を立てて遠ざかっていく。
助かったのだろうか。奴らはもう、俺が息絶えたと思って引きあげたのか。
硬直した体をアスファルトに投げ出したまま、笠原は思った。
奴らの正体の検討はついていた。
例の組織の情報屋に取り引きの予定を高く売りつけた。出所が自分であることにバイヤーの元締めが気付いたのだろう。
笠原はゆっくり目を開けた。
深夜の寂れた路地は陰鬱な闇に包まれている。
通りに面した方向からチラチラ光が揺れた。
誰か立ってこっちを見ている。
光はその人物が手に持っているライトから放たれていた。
その人影はゆっくりと近づいてくる。
通りがかりの奴なのか、それともさっきの仲間なのか。
冷たいアスファルトの上で笠原は目を凝らした。
「こんなライトを怖がって逃げて行っちゃった。巡回の警官とでも思ったのかな」
まるで友達にでもするように、その声は軽く話しかけてきた。
その人物はさらに近づいてくる。
建物の隙間からこぼれてくるネオンの灯りがちょうどその男を浮かび上がらせた。
男はゆっくりと笠原のすぐ側にしゃがみ込んだ。
ボタンを開けたシャツの胸元で、銀色のクロスが鈍く光りながら揺れている。
「・・・あんたか」
安堵とも恐怖ともとれる声が笠原から漏れた。
陽は冷たく静かな視線を笠原に落としながら、小さく目の前の血だらけの男に尋ねた。
「助けて欲しい?」
「・・・・・・」
体を貫くような寒気を感じて笠原はじっと陽の目を見上げた。
「ねえ、助けてほしい?」
陽はガラスのような目を笠原に向けて、もう一度繰り返す。
近くのビルからこぼれたブルーのネオンの光がその瞳の中で冷たく揺れた。
「いや、・・・助けはいらない」
喉の奥から絞り出すように笠原は声を出した。
自分でも滑稽に思えるほど、それは本心だった。
「・・・そう? わかった」
そう答え、陽はそのままの姿勢で横たわる笠原をじっと見つめていた。
まるで悪魔が命のこときれる人間の最後を見届ける時の目のようだ。
笠原は重く疼く痛みの中でそう思った。
悪い癖だ。直面しているこの構図がおかしくさえ思えてきた。
“やはり、マヤ。天使はもういない。だが、極上の悪魔が生まれたよ”
笠原は痺れる口元で少しニヤリとすると、まだ動く左手をゆっくりと陽の方に差し出した。
陽の胸元に揺れるクロスに笠原が触れようとした瞬間、陽は拒むようにほんの少し体を退いた。
「ギリシャ正教の十字架。ナザレのイエス。そんなリアルなデザインのクロスはめったにないんだよ」
「・・・・・」
笠原の言葉に、陽はそっと手を自分の胸のクロスに持っていった。
「何より君は本当にあの人によく似ている。生きていて嬉しいよ。探していた。ずっと」
「あなたはどこまで知ってるの?」
「・・・どこまで? どっちのことを言ってるのか・・分からないが・・・そうだな、たぶん・・・君が想像する通りだよ」
陽はほんの少しその目に困惑を表した。
「・・天使の名を持つ・・・悪魔たち。 探していた・・・堕ちた天使。その二つが・・・むすび・・つくなんて・・・ね・・。おもしろすぎて、・・わら・・えてくる」
笠原の声はだんだんか細く弱くなっていった。意識が落ちていっている。
陽はさらにゆっくりと体を離し、立ち上がった。
「そう。よかったね」
抑揚のない声で冷たい地面に転がっている男を見おろすと、そう呟いた。
もう何をする力もなくなった笠原は目を閉じて黙り込んだ。
絶望感も、恐怖も、悲壮感もなかった。
こんなもんだろう、自分の人生なんて。
悪魔に看取られるのも悪くない。
薄れてゆく意識の中で笠原はそう思った。
◇
途中でタクシーを引き返し戻ってきた坂木は、事の顛末をじっと黙って物陰から見つめていた。
何も手出しをするつもりは無かった。ただ、陽のケリの付け方をじと見守っていた。
陽は事を済ませると、坂木のいる方へ歩いてきた。
携帯を後ろポケットに入れながら、ふとこちらを向いた陽と目が合った。
「・・・帰らなかったの?」
少し驚いたように陽が呟いた。
「帰れるか。あんな状態で」
「そう?」
陽が少し困ったように笑う。
その時、坂木の背後でいきなりサイレンを響かせて救急車が近づいてきた。
赤色灯をせわしなく回しながら坂木達の脇を徐行気味に通り過ぎ、遠のいてゆく。
しかしある地点まで行くと、ピタリと音は止まった。
気に止めるでもなく大通りへ歩く陽に続くようにして、坂木も足を早めた。
背後から無言のつぶやきのように赤いライトだけがチラチラと瞬いている。
「救急車呼んだのお前だろ? なんで助けた」
坂木は前を歩く青年の後ろ姿に聞いた。
陽はしばらく無言で歩き続けたが、やがて前を向いたまま少し面倒くさそうにポツリと言った。
「助けなくていいって言ったから」
「・・・」
坂木は少し足を速めて陽の横に並ぶと、もう一度聞いてみた。
「じゃ、助けてくれって言ったら?」
陽はチョロチョロとまとわりついて来る坂木が可笑しかったのか、
目をそらして一瞬クスッと笑ったが、すぐに真顔になって坂木に向き直り今度は真面目に答えた。
「ちゃんと自分の目で見ればいいんだ、あの人は。 自分の悲劇の結末を」
陽の瞳が冷たい光を宿した。
坂木は一瞬息を呑んで、そのまま黙り込んだ。
いつもは決して見せない扉の奥をほんの少し垣間見た気がして坂木は目をそらした。
「ホテルに帰って飲もうか、坂木さん」
「・・・・ん?」
「僕も付き合うよ」
そう言って陽は何も無かったように笑うと、脇を走り抜けようとしたタクシーを止めた。
その笑顔に救われ、坂木も無言で笑い返す。
遠くで再びサイレンが唸りを再開した。
まるで誰かの悲しい叫びのようにそれは夜明け前の寂れた街にいつまでも響き続けた。
◇
・・・・渇きが止まらない。
体を満たす水の中に飛び込めると思ったのに。
生まれる前のような無の海へ。
またこのホコリっぽい世界に引き戻された。
俺は殺風景な病室の小さな窓から、色のない曇った空を見上げた。
すべてを話したはずだ。
もう最後だと思ったし。
生かしておいて良いはずはないのに。
忌むべき、憎むべき、狂った存在だ。
なぜ助けた。
それがおまえのやり方か?
俺が出会うはずだった悪魔は、意に反して白い羽根のままだった。
恐ろしいほど。残酷なまでに。
あの時手を伸ばして触れていれば良かった。
すべての罪を許してくれるという正教の十字架。・・・そしてマヤの天使。
狂って行く自分がイヤだった。
腐っていく心がイヤだった。
触れて、浄化されて、一瞬のうちに消えて無くなりたかった。
けれど、それを許さないとあいつは言った。
言葉ではなく。
全てを裁くようなあの目で。
もう一度会えるだろうか。
白い羽根を持つ、あの冷たい悪魔に。
いつまでも・・・ 渇きが止まらない・・・・ ずっと・・・・・・
(END)
第9章に続く




