第8章 渇望(3)
坂木はただ黙ってその話を聞いていた。
グラスの中の金色の液体は、ただ見ているだけで酔わせる効果でもあるかのように、じわじわと脳を痺れさせる。
いや、そうではなかった。
笠原の語る「あの夜」の真実が坂木の五感を麻痺させていく。
耳を塞げば良かったのだろうか。
淡々と朗読でもするかように語る笠原を、もういいと止めても良かったはずだった。
けれど坂木はただじっとその話を聞き続けた。
・・・狂っているのは誰だったのか。
その母親か。
その悲劇を楽しんでいるこの男か。
その話をじっと聞いているこの俺なのか。・・・
笠原は全てを語り終えると微かに微笑み、坂木にロックをもう一杯作るか聞いてきた。
坂木はそれには答えずにようやく顔を上げ、笠原の目を見た。
「あんたは救うことができたんじゃないのか? その女を。そしてその子供を」
笠原は端正な口元をふっと歪ませるように笑った。
「さあ。命は救えたかもしれませんが、魂は救えません。魂が色あせれば命も光を失います。それを止めることはできない。ただ、彼女の狂気は美しかった。どんな宝石よりもね。私はただ、美しい悲劇の続きが見たかったんです」
坂木はその男のゾッとするような含み笑いを見ながら、怒りとも悲しみともつかない感情がざわついているのを、どうやり過ごして良いのか分からなかった。
この男を責める資格が、自分にあるとは思えなかった。
ただ1つだけ後悔が残った。
どうして最後まで聞いてしまったのだろう。あの夜の真実を。
「もう一杯作ってくれ」
そう言い終えるか否かのところで、坂木は後ろに気配を感じた。
「マスター、もういいです」
一瞬で坂木の頭の中の澱んだモヤが消えた。
「・・・・陽・・」
坂木のすぐ後ろにいつの間にか陽が立っていた。
その目はまっすぐ静かに笠原を見つめている。
坂木は声も出せず二人を交互に見た。
「あまり飲ませたくないんです。もう、連れて帰りますね」
落ち着いたトーンで言った陽の言葉に笠原は営業的な笑みを浮かべると、
「お引き留めはいたしません」とホテルマンのように丁寧に答えた。
陽は無言で精算をすませると、まだボーッとしている坂木の元にやってきて、
子供にするようにそっと顔を近づけて話しかけた。
「どうしたの? さあ、帰るよ」
そしてニコッと笑う。
「・・・ああ」
坂木は視線を合わせられずに目をそらすと、ジャケットを手にとって立ち上がった。
陽は坂木を誘うように少し前を歩き、店の出入り口まで行った。
「ありがとうございました」
後ろから笠原の何の感情もこもらない声がしたが、二人はもう振り返ることもせずに店を後にした。
「いつからあそこに居たんだ」
坂木はやっとの思いで前を歩く陽にその質問を投げかけた。
「・・・・いつからって?」
分からないはずはないのに陽は話をそらした。
「・・・・いや、いい」
坂木はそのまま口をつぐんだ。
前を歩く青年の肩を思いきり抱きしめてやりたい衝動と、指一本触れてはいけないような気持ちとが胸を締め付ける。
タクシーを拾える通りまで来ると陽は急に立ち止まり、クルリと坂木を振り返って歩道の柵に腰掛けた。
「坂木さん、先にホテルに帰ってて」
まるでちょっと寄り道でもするような軽い口振りで陽は言った。
「何でだ? お前は?」
「うん。もう少ししたら帰る」
「・・・・・」
怪訝そうな坂木を見て陽は優しい表情をつくった。
「随分前からあそこに居たんだ」
「・・・」
坂木は目を見開いて陽を見た。
「マスターは僕に気付いてたのに、話を止めなかった」
「そりゃ・・・笠原はお前の事だなんて思っちゃいないからだろ?」
「さあ、どうかな」
そう言った瞬間、陽から微笑みが消えた。ゾッとするような冷たい横顔だった。
坂木は思わず息を呑む。
暗闇に浮かぶライトに眩しそうに目を細めると、陽は手を上げて通りかかったタクシーを止めた。
「陽・・・・笠原は・・」
そう言いかけた坂木の肩を抱くようにして、開いたドアの方へ促す。
運転手にホテルの名を告げると陽はスッと車から離れて坂木に軽く手を振った。
動き出すタクシーの中から、もう背を向けて来た道を引き返す陽を見つめながら、坂木は心の中で呟いた。
「わかってるよな、陽。 母親を殺したのは笠原じゃない」




