第8章 渇望(2)
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きれいな目をしていた。
けれどその瞳の奥のゾッとするほど冷たく深い湖は、決して覗かせまいと扉を閉ざしていた。
いつだったろうか。天使の名を騙る組織があると聞いたのは。
神に代わって忌むべき金の亡者どもを狩るのだと。そんな面白い余興があるのなら是非とも見てみたい。そう思い、自分の店に亡者どもを出入りさせた。
自分の張った蜘蛛の巣の上で、天使が亡者を食らうのだ。考えただけでも血が騒ぐ。
ただの興味本位だったのだが・・・。
けれど、張っていた蜘蛛の巣に、思いがけない獲物がかかった。まさかこんな形で出会えるとは思っても見なかった獲物が。
危険を承知で罠を仕掛けた事が報われる。
忘れかけていた懐かしい感覚。この目で確かめたかった悲劇の結末。
天使は悪魔に魂を売ったのか。
悪魔になり損ねて藻掻いているのか。
マヤ・・・感謝するよ。
悲劇はいつでも甘く、美しい。
翼をなくした天使の魂の震えを聞いてみたい。儚く脆い、哀れな闇の住人達の嘆きを。
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◇
「あの店は以前から何度も取り引きに利用されてるらしい。あのマスター・・・笠原って名なんだがな。今回裏で取り引きの情報を流したのは笠原本人かもしれない」
ホテルの部屋で坂木はソファに座って端末をいじっている陽に話しかけた。
「・・・・かも知れないって、曖昧だね」
陽は小さな画面から目を離さずに、坂木に返事をする。
「OEAの抱えてる情報屋も命がけさ。正確だが出所は簡単には語らない奴らだ」
「もしそれが本当なら、バレたときマスター危険なんじゃないの? バイヤーにも、OEAにも通じてるんだろ?」
「そうなんだ。そこが分からない。いくら金を積まれてもリスクが大きすぎる」
坂木はそう言った後、まだ端末でゲームをしているらしい陽をじっと見つめた。
不自然な沈黙と視線を感じて陽はやっと顔を上げ、坂木の方を見た。
「・・・・何?」
少し不思議そうな表情で坂木を見る陽。
「いいか、気になるかもしれないが笠原には近づくな。この間、帰り際に聞いた話は赤の他人の話だ。似たような話はどこにでもある。お前とは関係ない」
あの後すぐに店を出たが、坂木はその事を何も話題にしない陽が逆に心配だった。
蒸し返すのは嫌だったが、自分の心の内を全く表に出さない陽を見ているのが不安だった。
「わかってる。大丈夫だよ」
陽は静かに笑った。
いつもそうだった。坂木の意に反することはしない。優しい、従順なパートナー。
胸が痛んだ。気にならないわけがない。
もしもあの男の話が陽たちの事だったら。
もしも、それを確信してあの男が陽にその話を振ったのだとしたら。
ありえない・・・が・・・しかし。
二日後の夜、計画通りそのミッションは決行された。
陽はいつものように冷静でまったく揺るぎなく仕事をこなした。
ホッとする反面、坂木は気持ちの内側をまるで見せない陽が心配だった。
仕事をやり遂げ、疲れて寝入ったばかりの陽を見つめながら、坂木はただひたすらアルコールで気持ちを沈め続けた。
◇
・・・・・・
手応えはすぐそこにあった。
手に触れれば消えてしまう水面に映った月のような不確かさだが、確かに俺の手の中でバシャリと揺れた。
店に出入りしていたバイヤーが消された。天使達が動いた。
不確かな願望が確信に変わった瞬間だ。あいつが「天使」だ。
いや、「天使の名を騙る悪魔」だ。
この出会いは偶然なのか必然なのか。
吉と出るか、凶と出るか。
・・・・・・
◇
その夜坂木は笠原の店のドアを開けた。
陽にはああ言ったが、一番気になっていたのは坂木だった。
その夜は客も少なくカウンターに二人、テーブルに二人。
坂木は前と同じカウンターの中程に静かに座り、スコッチを注文した。
相変わらずくすんだ空気の中、あの日と同じように微かにジャズが流れている。
「今夜はお一人ですか?」
坂木の前に静かにダブルのロックを置くと、笠原は相変わらずマネキンのような感情の読めない表情で坂木に話しかけてきた。
「・・・あいつはあんたの昔話に何か関係あるのか?」
坂木は手元のグラスを見ながら小さく言った。
「さあ、そんなはずはありません。彼女の子供も行方不明のまま見つかりませんでした。生きてはいないでしょう、まだ11歳でしたから」
「・・・・・」
「ただ鮮明に思い出してしまったんです。私の記憶から拭い去れない、あの夜の彼女の告白を」
「告白?」
「酒の肴にどうです。昔話の続きをお聞きになりませんか?」
笠原の声はまるでエコーが掛かったように坂木の頭に響いてくる。
「フン・・・あんたが喋りたいなら勝手にすればいい。俺は酒を飲みに来ただけだ」
坂木はわざとそっけなく呟くとグラスに口をつけた。
大丈夫だ、この男は陽とその話を結びつけてはいない。漠然と坂木はそう思った。そう思いたかったのかもしれない。
ただ1つ分かるのはその「少年」はやはり陽であるということ。
そして自分は「あの夜」に何があったのか知りたいと思っていること。
漠然とした不安を坂木はアルコールを流し込んで飛ばした。
「15年前の冬です。ちょうど店を閉めようとしたしていた私の前に、彼女はやってきました」
笠原は静かにゆっくりと童話でも読むかのように、あの夜の悲劇を語り始めた。




