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白昼夢  作者: 佐崎らいむ
28/44

第8章 渇望(1)

・・・・・・

狂気と正気の境目など誰が決めるのだろう。

子供の頃から、か弱く脆く美しいものが好きだった。

自分がほんの少し手をひねれば壊れ去っていく命。

それなのにすがりつく哀れな生き物たち。

手を下したりはしない。魂の抜け殻はいらない。

美しく哀しいものだけ見ていたい。

身勝手で冷酷な、けれどもどこにでも転がっている欲望。


遠い昔、俺に救いを求めてきた女がいた。

ある夜、震えながら俺の前に現れ、冷え切った体で自分の身に起きている悲劇を語った。

体の芯が痺れるほど美しい悲劇を。


彼女の語るあまりにも甘く切ない狂気。

俺は酔い、うわべだけの優しい言葉をかけながら、その女の胸元に揺れる銀のクロスを眺めていた。

「私、どうしたらいい?」

涙の止め方も分からなくなったその女を、俺は優しく炎の中へ返した。


夜ごと震えればいい。

美しいまま苦悩すればいい。

狂っているのは誰だったのか。

その先にある悲劇を見てみたくなった。


あれから随分月日が過ぎたが俺はまだ探しているのかもしれない。

甘く切なく美しい、彼女が解き放った悲劇の結末を。

・・・・・・


       ◇


繁華街から少しはずれた飲屋街。

時代遅れの看板やネオンが寂しげにまたたく裏通りの地下にそのバーはあった。

8人程度が座れるカウンターと4人がけのテーブル席が4つだけの狭い店だった。

照明は奥のテーブルの客の顔が確認できないほどに落とされ、客の吸うタバコで空気自体も霞んでいた。


坂木と陽はカウンターの中程の席に座り、緩やかに流れるジャズを聴きながら静かにウイスキーを傾けていた。他の客と何ら変わりない。仕事帰りの同僚が、ほんの少し憂さ晴らしに酒の力を借りている、そんな雰囲気だ。

けれど雑談をしながらも彼らの意識は常に自分たちの斜め後ろ、壁際のテーブルに座る二人組に注がれていた。

一人はサラリーマン風の日本人、もう一人は色の浅黒いタイ人だった。


「間違いないな。情報通り奴らは繋がった」

グラスを見つめたまま、中央でカクテルを作っているマスターに聞こえないように細心の注意を払いながら坂木は呟いた。

「こんなところで取り引きなんて無防備じゃない? この店、誰でも出入りできるのに」

陽も極力声のトーンを落とし問いかける。

「まあな。だが昼間話したようにタイ人バイヤーには巨大なバックがついている。いざとなっても守ってもらえるって高をくくってるんだろうよ」


その日の昼下がり、第二支部のロビーで坂木は陽に今回の仕事の内容を話していた。

ターゲットはバンコクからのバイヤー。日本人顧客と接触を確認後にタイ人に「仕事」を慣行する。

日本人はその後薬物などの別件を警察に通報し、検挙させる。

「タイ人のほうも警察にまかせられないの?」

「取り引きのブツがただの麻薬ならばな。だが、今回はバンコクマフィアが絡む臓器売買だ。東南アジアの貧困が生み出した人身売買市場は昔の話じゃない。現在進行形だ。しかも政府も警察もグルだ。昨年バンコクの社会民主党の一人が対策委員会を発足させようとして消された。法なんてなんの役にも立ちやしない」

坂木は苛立ちを露わにしてその時、陽にそう言った。


相変わらずテンポの良い軽妙なジャズが微かに流れ、テーブル席を半分くらい埋める客の話し声が、聞き取れない呪文のように澱んだ空気とともに揺れている。

グラスの氷をころんと揺らしながら陽が聞いてきた。


「ねえ、臓器売買って・・・子供?」

「そう言うことだ。正規の日本の法律では小さな子供からの臓器移植は禁じられている。莫大な予算をかけて海外に出たとしてもドナーに巡り会う幸運は限りなく低い。じゃあ、どうする? 金持ちの日本人はどうする? もしも、金さえ積めば開かれるルートがこの世にあるんだと悪魔にささやかれたら、かわいい子供の命を救いたい親はどうする?提供する方も、される方も、悪魔に心を売る羽目になる。俺は許せないんだよ。悲しみにつけ込んで、善良な心を引きずり落として金にする奴らが。そんな連中が法の手出しのできない領域でぬくぬくとしてるのが!」

「・・・坂木さん」


陽がじっと坂木を見つめた。

坂木も目線をチラリと陽に向けた。そのあとで斜め後ろの二人組も確認してみる。

「ああ・・・すまない。声が大きかったか?」

「大丈夫」

陽はほんの少し笑って見せた。

「こんな至近距離でスリル満点だけどね」

「・・・そうだったな」

いつの間にか熱くなっていた自分に坂木は少し恥ずかしくなった。


やがてそのテーブル席の二人は静かに席を立ち、マスターと少し挨拶を交わすと店を出ていった。

坂木達はそれを目の端でちらりと確認したが、自分たちはそのままカウンターを動かなかった。

店内にはまだ7、8人の客。

それぞれに雑談を交わし、酒を飲み、煙のように漂うジャズを聴くとも無しに聴いていた。


「日本人バイヤーの方はよくこの店を利用してるらしいな。なあ、陽。どう思う? ここのマスターは取り引きの事を知ってるんだろうか」

坂木は声が漏れないように陽の耳元に顔を寄せて聞いてきた。

「さあ、どうだろうね。気になるなら聞いてみる? マスターに」

いたずらっぽく今度は坂木の耳元でささやく陽。

「バカか、お前は!」

坂木は思わず笑ってしまった。

陽は空になった坂木のグラスを指先でコンと突くと「もう少し飲む?」と頬杖をついたまま聞いてくる。


こんな時の陽を坂木はかわいいと思った。

自分とは違って、緊迫したミッションの途中でも陽はいつも冷静さを失わない。

無意識なのだろうが自然と坂木の苛立った気持ちを柔らかくほぐしてくれる。


「何か作りましょうか?」


ふいに声をかけられ視線を上げた坂木の前に、さっきからカウンターの中央でグラスを拭いていたマスターが立っていた。

40は越えていそうだが、彫りの深い整った顔立ち、優しそうな目元。物腰も板に付いていてこの仕事が長いことを感じさせた。


「いや、もうそろそろ帰るからいいよ。明日は早いもんでね」

坂木がそう言うとマスターは了解しましたと言うように口元で営業的に笑うと、今度は体を陽の方へ向け、じっとその目を見つめた。

陽もそれに気づき、そのクルリとした目でまっすぐその男を見あげる。


けれど男は何も言わず視線をゆっくりと陽の胸元に落とし、吸い寄せられるようにカウンター越しに手を伸ばしてきた。

それがまさに陽に届く寸前、その手をぐっと掴んで坂木は男を睨みつけた。


「何のまねだ」


低く鋭い坂木の声にほんの少しハッとした表情を浮かべたが、男はまた元の穏やかなマスターの顔に戻り、申し訳なさそうに笑った。

けれどそれは媚びてもいない、悪びれてもいない笑いだった。


「ああ、すみません。お客さんのネックレスをよく見たくて。良く似たものを昔の知り合いの女性が身に付けていたものですから・・・つい」

「どこにでも同じような物はある」

少しムッとした口調で坂木はマスターを睨んだ。


陽はテーブルに乗せていた手をゆっくり下に降ろすと坂木をちらりと見、またマスターに視線をもどした。


「そうですよね。すみません、この方があまりにその女性の面影に似ていらっしゃったものですから」

マスターは口元の笑みを消し、再び陽の目をじっとみつめた。

まるでその瞳を見つめることで陽の心まで読みとろうとするかのように。

坂木は少し気味の悪いモノを感じて、陽の腕をぐっと掴むと立ち上がった。

「帰るぞ、陽。悪酔いしそうだ」


けれど陽はじっとマスターを見つめたまま、ひとつゆっくり瞬きをすると静かに尋ねた。

「その女性は?」


マスターは笑みを消したまま答えた。

「自殺しました。15年前。男の子をひとり残して」


陽の腕を掴んでいた坂木の手に一瞬力が入った。


ふいに終わった曲の切れ目が、寒々とした痛いほどの静寂をその空間にもたらしていた。




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