挿入話 序曲・本当のプロローグ
「私、あの子の首に手をかけたの」
マヤは冷え切った細い指を口元に当てながら、声を震わせて言った。
深夜。いつもより早めに店を閉めようとした俺の前に、彼女は現れた。
吐く息も白くなるこの時期に、ラメのキャミソールにダウンをじかに羽織った姿で店の裏口に立っていた。
彼女は6年ほど前までここに勤めていたホステスで、バーテンとしてこの店に来た俺とも親しくしてくれていた。
けれど、ただそれだけの間柄だ。
4、5歳の男の子を育てながらだったが、彼女はまだ若く、美しかった。
突然別の店に移り、風のうわさで金回りのいいパトロンを見つけたと聞いていたが。
尋常じゃない彼女をとりあえず店に入れ、ヒーターをつける。
けれどもその体の震えは何時までも止まらなかった。
ただ年季の入った大型のオイルヒーターが寂しげに電気音を響かせていた。
「あの子って、マヤさんの子供? 一度ここに連れてきた事があったけど。あの男の子?」
マヤはやはり震えながら頷いた。
子供は嫌いだが、なぜだかその子を良く覚えている。くるりとした目の人形のように可愛らしい男の子。
白人の子のような癖っ毛のせいなのか、まるで宗教画の中の天使を思わせた。
「あの子が、どうしたんです?」
「あの子・・・・私、あの子を殺そうとした」
あとからあとから流れ落ちる涙。
黒のダウンコートの下の白い首筋。
震える肩。
俺はその衝撃的な言葉を聞きながら不思議と、とても頭が冷静になっていくのを感じた。
「何があったんです?」
たぶん俺ほど冷たい人間はいない。
「あの子・・・あんなひどい目に遭ったっていうのに」
泣き続けるその人に何の哀れみも持たず、綺麗な不思議な生き物を見るように、ただ見つめていた。
「落ち着いて、マヤさん。話してみて。何があったんです?」
たぶん、誰も頼る人を思いつかぬまま、彼女はここに来てしまったのだろう。
「私だけが耐えていればいいと思ってた。あの男にどんな酷い扱いを受けたって、仕事と思って私が我慢していれば、あの子と生きて行くくらいのお金はできる。そう思ってあの牢獄のような部屋で暮らしてたの」
運が悪いよね。あんたは、とことん。
「あなたの身受け人は、ひどい男だったの?」
そこに居たのが俺で。
「私はいいの。あの子が居たら生きていけると思った。
あの子はいつも私を気遣ってくれたの。小さな頃から、いつも。
まだ11歳だけど、いつも私を守ろうとしてくれている。
たぶん、時々現れるあの男と私が普通の関係じゃないって事も知ってると思うのに」
まだ声を震わせている彼女の言葉を聞きながら、俺は何となくその日常を想像してみる。
マンションの一室に閉じこもる母親。
たまにふらりとやって来る中年太りの男。
卑げた笑いを浮かべ、母親の体に触れる汚らしい男。
別室で、あるいは外に出て、一人で凍えながら耐え難い時間を過ごす少年。
ゾクリとした感覚に襲われ、さすがに俺は罪悪感を感じた。
「でも、その子をどうして?」
俺はさも心配そうな表情を作り、そう聞いてみた。
「常用している睡眠薬を少し飲み過ぎたせいで、今日、目を覚ましたのは昼過ぎだったの。
リビングにはあの子が居るはずなんだけど・・・他にも数人の気配がする。
変に思ってドアを開けると、あの男ともう一人知らない中年男がいた。
そいつらは振り返って、ゾッとするような嫌な笑いを浮かべて私を見たの。
あの子は・・・・床の上に座ってた。毛布を体に巻いて・・・・人形のように動かずに窓の外を見ていた。
血の気の失せた青白い顔をして、じっと外を見ているの。あいつらは、・・・あいつらは笑いながら出ていった。」
マヤは呼吸の仕方を忘れてしまったかのように何度も息を吸い、苦しそうに肩を振るわせた。
「落ち着いて、マヤさん。ゆっくり息をして」
「怖くてたまらなかった。・・・・あの子の毛布に・・・いくつも血のあとがついていて・・・・。
毛布の下には何も着ていなくて・・・・」
過呼吸になりかけている。
「あの子は・・・・」
落ち着かせた方がいいだろうか。
「声も出さなかった」
いや。
「許せない!」
その唇からつづられる言葉を聞き続けたかった。
「優しい子なの。小さな頃から。私が疲れてると静かに一人で遊んでくれた。ひざに乗ることもしないで、ただニコッと笑ってくれた。うたた寝していると、いつの間にか、そっと毛布をかけてくれた。
私の宝物。神様がくれた天使」
天使か・・・・。
いつもの俺ならくだらないと鼻で笑うところだが何故か笑えなかった。
この人にとってはそうなんだろうな。
俺はマヤの胸に揺れる銀のクロスのペンダントをボンヤリ見つめながらそう思った。
「あの子、その肩に触れるまで私に気がつかなかった。私に気がつくとね、ゆっくり振り向いてじっと目を見るの。きっと・・・なんでもないよって笑おうとしたんだと思う。唇が震えてた。笑う事なんて出来るわけないのに」
さっきまで不規則に繰り返されていた、荒い息づかいが止まった。
肩や指先の震えも止まっていた。
呼吸さえ止まってしまったのではないかとドキリとして彼女を見ると、彼女はどこか一点を見つめたまま、静かに言葉を続けた。
「気がついたら あの子の首に手をかけていた」
マヤはじっと目を見開いて、そう言った。
俺はただ吸い込まれるように彼女の発する神聖な言葉を聞いていた。
シンとしているのに何かザワザワと心地よいノイズがまとわりついて来る。
もう、罪悪感は感じなくなっていた。
「自分でも何をしているのか分からなかった。気がついたら、その細い首に両手をまわしていた」
「それは、汚されたから?」
「汚された?」
「あいつらに」
「わからない」
「わからないの?」
「守れなかった」
「守れなかったから?」
「ここにいてはいけないと思った。私のそばに。私の血があの子を汚していく。私はあの子を守れない」
彼女の頬を止まることなく涙が伝う。
まるで酒に酔った時のような気だるい陶酔を感じながら俺はそれをじっと見ていた。
「あの子は私が首に手をかけても少しも怖がらずに私の目をじっと見つめてきた。
それどころか、どこかホッとしたように表情を柔らかくして。笑っているように見えた。
あの子の首から温かい体温が伝わってくる。その温もりさえも愛おしいのに。
私はゆっくりと握る指に力を入れていった。あの子は『いいよ』とでも言うように目を閉じた。
その肩も、その首も、本当にまだ細くて、頼りなくて。あの子はその全てを私に委ねるように、目を閉じたの」
その光景が一瞬にして映像化され、俺の脳裏に焼き付いた。
背徳的な、なおかつ神聖なその情景にゾクリとする。
「でも、指先に伝わってくるの。 トクン、トクンって、命の鼓動が。
あの子を守ろうとする何かが、私を現実に引き戻してくれた。
私・・・とんでもないことをしてしまうとこだった。取り返しの付かないことを・・・」
マヤはその子をベッドで寝かせた後、マンションを出てきたという。この寒い中を、何時間彷徨ってここに辿り着いたのだろう。
「私、どうしたらいいだろう。ねえ。私、どうしたらいい?」
「それを俺に聞きたいの?」
「・・・・うん」
弱い人だ。
「俺が言うとおりにする?」
「うん」
自分で立つことも出来ずにいる。
「帰りなさい。あなたの家に。あの子・・・・待ってるよ」
このまま返してもきっとまた心を乱してしまう。
「帰る?」
「そう。一人で帰れるね」
きっとまた。繰り返される悲劇。
「うん、・・・・わかった。あの子、待ってるもんね」
マヤは一生懸命笑ってみせると、少しおぼつかない足取りで店を出ていった。
まだ若く、美しく、儚く、悲しい背中。その先に待っている闇を見たくなった。ただじっと。
この世に天使がいるのかは知らないが、悪魔ならいる。
その結末は全くあっけなく俺の元に届いた。朝のニュースという形で。
彼女は手首を切り、マンションの一室で遺体となって発見された。
寝室ではもう一体の死体。彼女の内縁の夫だった。
結末はあまりにもあっけなく、ただもの悲しく、よそよそしかった。
俺が求める悲劇はこんなんじゃない。こんな陳腐で安易で無機質なものじゃない。
けれどニュースは続く。
子供の姿はどこにも無かったらしい。
あの子は、どこに消えたのだろう。
彼女が天使だと言ったあの子は。
その羽根はまだ白いままだろうか。その手はまだ清いままだろうか。
薄汚れたボロアパートの窓から俺はくすんだ空を見上げた。
天使はいない。でも悪魔ならたくさん生まれる。
物語はまだ終わらない。これからだ。
悲しく、どこまでも切なく陰惨で無情で。
けれども体の芯が震えるほど甘く美しい、俺好みの悲劇が。
やっと始まる。
(序曲 END /第8章へ続く)




