第6章 追憶(3)
ひんやりとした感触を額に感じて坂木は目を開けた。
「ごめんね、寝てた?」
陽が氷嚢を作ってくれているほんの少しの間、坂木は昔の夢を見ていたようだ。
「ああ、悪いな」
「医者に行った方がいいんじゃない? 付いて行こうか?」
「行かないよ。医者は性に合わない。余計具合が悪くなっちまう」
「・・・しょうがないな」
少し呆れたように笑う陽を、坂木はぼんやり見つめた。
昔の夢を見たせいだろうか。
この何でもない時間が何とも言えず暖かなモノに感じられる。
ずっとこのままこうしていられたら・・・。
「じゃあ薬買ってくるから、ちゃんと寝ててよ」
「今度は子供扱いか?」
可笑しそうに笑いながら部屋を出ていく陽をベッドの中から見送りながら、
坂木はまた辰巳の話を聞いていたときのザラリとした不快感を思い出していた。
あの室田カイトが殺されていた。
坂木は霞のかかったようなあの当時の記憶を辿ってみた。
陽に名前を付けたあの日からまた坂木は施設に行く機会を失ってしまったが、元気にしているという連絡は受けていたので安心していた。
辰巳が坂木の来るのを快く思っていなかったこともあり、結局再会の日まで会うことはなかった。
だから室田を見たのはあの日が最初で最後だった。行方不明になったと言う話も聞いていない。
陽は室田がいなくなった事は当然知っていたはずだ。子供が一人いなくなったのだ。施設内で騒ぎにもなっただろう。
さっきの反応の意味が分からない。単に興味がなかっただけなのだろうか。
何かが引っかかる。頭の奥がズンと重く疼き始めた。
その時携帯のバイブが激しく唸った。
辰巳からだ。
坂木は陽がいなかったことに少しホッとして電話に出た。
「陽はいないのか?」
「出かけてる。薬を買いに行ってくれた」
「そうか、熱があるんだったな。手短にするよ。・・・さっきの話だが、お前はどう思う?」
「もう15年も前の話だろ。今更蒸し返してもどうしようもないだろ?」
「もちろん、そうなんだがな。・・・お前は気にならないのか? 俺たちはターゲット以外の人間を殺して平気でいる悪魔を育てたのかもしれない」
「どういう意味だよ」
「お前が思っている通りだよ。陽は俺たちが思っているような人間じゃないのかもしれない」
「いい加減にしろよ辰巳! 憶測でモノを言うな」
何も食べてない胃がキリキリと痛んだ。
「陽を疑ってるのならどうかしてるよ。あいつにそんなことが出来ると思うか?」
「その1ヶ月前に人ひとり殺した子供だがね?」
辰巳は容赦なく続けた。
「今思えば室田が居なくなったあたりから陽は別人のように生気を取り戻していった。昔のことだがよく覚えているよ。あの時変だと気付けば良かった。てっきり室田は逃亡したんだとばかり思っていたからな」
辰巳の声を聞きながら坂木は呼吸が苦しくなっていくのを感じた。
「お前はどう思った?」
「・・・俺は一度会いに行ったきり会ってないし、そんなこと分からないよ」
「そうか? 室田が居なくなる少し前、お前は施設に来てたぞ? 最後だからって言って」
「・・・?」
「そう言えば今日みたいに熱を出した時だったんじゃないか? ・・・そうだよ、思い出した。陽に会った後お前は熱のせいでぶっ倒れて俺が医務室に運んだんだよ」
・・・・辰巳は何を言っているのだろう・・・・
坂木は言葉が出てこなかった。
「陽が真っ青になって俺を呼びに来たんだ。後にも先にもあんなに取り乱したあいつを見たのは初めてだったよ」
耳鳴りのせいで辰巳の声が遠くに聞こえる。急にその言葉が知らない言語のように感じられた。
そんな記憶は坂木の中に存在しなかった。
あのあと会いに行ったことを忘れてしまったのだろうか。
あんなに気にかけていた陽との再会を?
熱で倒れたことまでも?
「辰巳・・・お前の記憶違いじゃないのか?」
“もうそれ以上 踏み込むな”
坂木の中で何かが低く唸った。
「覚えてないのか? 俺は付き合わなかったが、随分長いこと居たんじゃないのか?」
頭の中でザラザラとノイズの混ざった記憶が、無理やり自動再生されようとしている。
“もう 逆らうなよ”
坂木の中の別の何かがそう言った。
「お前が倒れて陽はかなりショックだったんだろうな。医務室のベッドから丸二日動こうとしなかったよ。食事さえもしなかった。あんな短い間にどうやったらそこまで懐いてしまうんだか」
少し呆れたように笑う辰巳の声を坂木は幻のように聞いていた。
体中が痺れるような感触。激しい動悸。込み上げる吐き気。
・・・・・思い出したよ 陽・・・・・・・・
忘れ去っていた記憶の扉が坂木をあざ笑うかのようにゆっくり大きく開いた。
名前を付けてやって数日経ったあの日、確かに坂木は再び陽に会いに行った。
けれど施設内のどこを探しても陽はいなかった。不安がよぎる。
あの室田という少年もいない。
以前つるんでいた二人に聞くと少し坂木に怯えながらも含み笑いをして地下じゃないかと言った。
朝からあった熱の為に頭が少しボーッとしていた。階段を降りていくだけで動悸が激しくなった。
暗い地下に降りると始めは目がくらんで何も見えなかったが、やがて微かな光の中に二人の少年が向き合っているのが見えた。
小さな影は壁際に追いやられている。
イジメは執拗に続けられていたのだ。
けれど陽の目はこの前とは違っていた。
必死に室田に立ち向かおうとしている。
自分を守ろうとしている。
それは坂木との約束だった。
「陽!」
室田が陽に掴みかかるのと同時に坂木は叫んだ。坂木を見た陽の目に安堵の色。
けれど室田は坂木を見て笑った。
およそ少年とは思えないゾッとする目で笑った。
そうして坂木に見せつけるように、持っていたナイフを陽のその目の上に振りかざした。
そこまでで限界だった。
坂木の理性はそれ以上働かなかった。
陽はどんな思いでその後の光景を見ていたのだろう。
どれほどのおぞましい記憶をあいつの中に刻み込んでしまったのだろう。
俺は・・・どうやって償えばいい・・・。
ふわりと目の前を何かが動いた。
きれいな指が坂木の握っていた携帯の通話ボタンをOFFにする。
いつの間にか帰ってきていた陽が、坂木の座っているベッドの横に静かに立ってた。
坂木はゆっくりと陽を見上げた。
「思い出しちゃったんだね」
こんな悲しそうな陽の目を見たのは初めてだった。
「ずっと、忘れていてほしかった」
もう、坂木には陽にかける言葉がなかった。
その資格もないと思った。
頭は絶えず何かで殴られたように激しく疼き、体中が痛んだが、坂木はもう、そんなことどうでも良かった。
ふいに首筋にひんやりとした感触。
「ひどいな。熱がすごく上がってるよ。頭、痛いんじゃない? また氷持ってくるからすぐ横になって」
言われるままに横になった坂木をのぞき込みながら陽は静かに言った。
「あの夜も、こんなふうに熱を出したんだよ。大丈夫。ちゃんとまた忘れられる。
目が覚めたら、きっとすべて忘れてるからね」
再び頬に触れてきた手の冷たさが心地よかった。
雲に包まれていくような安心感。
いったい何の魔法なのだろう。
その手が全てを許してくれるような気がした。
どんな罪も浄化させてくれるような気がした。
・・・俺は本当の天使を拾ってしまったのだろうか。
もう何も言わなくていいような気がして坂木は静かに目を閉じた。
そして包まれるような不思議な安堵感のなかで眠りに落ちていった。
陽は坂木が起きないように氷枕をそっと取り替えたあと、ベッドの横の小さなソファにひざを抱えて座った。
15年前のあの日のように。
『まったく、主人に忠実な犬みたいだな』
昼間の辰巳の声を陽はなんとなく思い出した。
「・・・ひどいな、辰巳さん」
そして小さく、クスッと笑った。
第6章・END
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