第5章 サクラ(2)
落ち着いたアンティーク調のインテリアの並ぶホテルの一室。
その中を、まるで落ち着きのない熊のように坂木は行ったり来たりしていた。
タバコはくわえたまま火を付けるのも忘れている。
部屋の外から鍵を開ける音がすると、弾かれたように坂木はドアの方へ走った。
いつものように入ってきた陽は、飛び出してきた坂木に少し驚き、クスッと笑った。
「どうしたの? 坂木さん」
「いや、どうもしない。・・・帰って来たんならいいんだ。お帰り」
何気なく平静さを装おうとしている坂木。
陽はそんな坂木をチラリと見ながらジャケットを脱いだ。
「隠さなくてもいいよ。聞いていたんでしょ? ノゾミと会った所まで」
「・・・いや、いつも聞いてる訳じゃないんだ。いつもは仕事が終わったらOFFにしてるんだ」
「いいよ別に、そんな事。僕を監視するのも、あなたの役目だ」
「お前を監視しようなんて思ったことは一度だってないぞ。インターフェイスはお前の安全のための通信機器だ」
少し苛立ったように言った坂木にもう一度視線を送った後、陽は無言で背を向けた。
坂木はクローゼットを開けて着替える陽をなんとなく見つめながら、どう切り出そうかと迷っていた。
「あの後の僕らの会話が気になるんでしょ?」
けれど、坂木の心を読んだかのように陽の方から話題を振ってきた。
「ノゾミがOEAを抜けたがっているって話は、辰巳さんから聞いたことある?」
「・・・まあな」
「じゃあ、想像通りだよ」
陽は背を向けたまま抑揚のない声で言った。
「僕に一緒に逃げてくれって」
坂木は陽の真意が分からずにその背中をじっと見つめた。
「俺にそんな話打ち明けてどうすんだ? 辰巳にバラすかも知れないぞ?」
「ああ、そうだったね。あなたには報告の義務がある」
こちらを向かずにそっけなく言う。
坂木は大きく一つため息をついた。
陽の悪い癖がまた頭をもたげ始めている。
自分の意識の中に他人を決して入り込ませない。
たとえ坂木だろうと心の中を覗かせない。
しばらくはそっとしておくしかないな。
坂木は何も言わずベッドルームに引き揚げた。
・・・ノゾミという女は本当にOEAを抜け出せると思っているのだろうか。
あり得ない話だ。
きっともう辰巳も彼女をマークしてるだろうし、陽もその事は充分わかっているはず。
この茶番はどこに繋がっているんだろうか。・・・
坂木は頭まで毛布を被り、無理矢理目を閉じた。
◇
次の日の朝は近頃めずらしい快晴だった。
TVのニュースでは桜の開花がかなり北上してきていると告げている。
何気なくロビーに降りていった坂木は玄関を出ていく男女に気が付いた。
陽とノゾミだった。
こうして見てると普通の恋人同士なんだがなあ。
ぼんやりそんな事を考えながら坂木はただ二人を見送っていた。
ホテルから通りを越えてすぐの所に土手があり、その下にはゆったりと幅の広いきれいな川が流れていた。
土手沿いにポツポツと並ぶ大きな桜の木が、薄いピンク色の花を枝いっぱいに咲かせている。
平日の朝とあって人通りも少ない。
二人は桜の下に座ってしばらく上を見上げていた。
満開の桜は匂い立つように美しく、一番綺麗な自分を誇示しているかのようだった。
「こうやって桜を見上げたの初めてよ。満開の桜の下には魔物が住むって聞いたことがあるけど、何となく分かる」
朝の光の中で見るノゾミは昨夜とは別人のように幼く、頼りなげに見えた。
「あなたは抜け出したいと思わないのね」
ノゾミは桜を見上げたままポツリと言った。
「OEAの報復が怖いの? それともあのヒゲの男のため?・・・まさか人を殺すのが楽しくなっちゃった?」
陽は川面に遊ぶ光をじっと見つめたまま、黙っている。
ノゾミは構わず続けた。
「訓練施設にいる時、あの坂木って男があなたに陽と言う名を付けてくれたでしょ?
私、うらやましくってね。年下のあなたに、私の呼び名を付けてって頼んだのよね。覚えてる?
あなたはニコッと笑って“ノゾミ”・・・って言った。
友人を殺して罪も償わずに転がり込んだ私に、あなたは“希望”をくれようとしたの。
凄く嬉しかった。笑っちゃうでしょうけど、天使を見つけたって思っちゃった」
微かな風にゆすられてヒラヒラと桜の花びらが舞い落ちてくる。
ノゾミはひとつゆっくりと深呼吸すると、遠くの河原で子犬とじゃれている小さな女の子を見つめた。
「もう、ふつうの生き方、できないのかな。私たち」
陽が何かしゃべり出すのをノゾミはそのまま静かに待っていた。
小さな女の子は母親に抱きかかえられてキャッキャと笑っている。
楽しげな甲高い声は吸い込まれるように高い空に消えていった。
「逃げてみればいいよ。 誰も追いかけて来ないから」
「え?」
ふいに陽がぽつりと言った。
「僕はもう、ふつうに生きちゃダメなんだ。それはOEAのせいでもないし、坂木さんのせいでもない。
初めて人を殺してしまった時にそう思ったんだ」
陽はノゾミの方を向いて柔らかな表情で言った。
「あれを罪だと認めることができないからなんだよ。いま時間が戻っても僕は同じ事をする。
あの日から、人間じゃなくなったんだ」
太陽に掛かっていた薄雲が流れて川面につよい光が乱反射する。
ノゾミは光を受けた陽の目を見つめ返した。
その奥にある想いをすべて読み取りたかった。
「OEAは君を監視するけど、危害を加えるほど酷いことはしないよ。君を追ってくるのは別のモノだ。もっと・・・もっと恐ろしいモノ」
「・・・私は 逃げられるかしら。ひとりで」
「さあ」
ぬけるように青い空を一機のセスナが走り抜け、耳鳴りのように辺りにその音を残した。
ノゾミはその行く先を目で追いながら、少しだけ明るい声で言った。
「ありがとう、陽。私、行くね。さようなら。・・・最後に一つだけお願い聞いてくれる?」
陽がノゾミを見ると、ノゾミも振り返って微笑んだ。
「キスして。 お別れのキス」
一陣の風が緩やかに駆け抜けた。
二人の上に雪のように白い花びらが舞い落ちる。
陽はそっとノゾミの肩を抱き寄せると、優しくキスをした。
ほんの少し唇が触れるだけの、優しいキス。
・・・サヨナラ。
音もなくヒラヒラと舞い落ちてくる花びらはその巨木の魂のようだった。
魔物の住むと云うその美しい木は優しい春のにおいを放ちながら、
白昼夢のような光の中、静かに二人を包み込んでいった。




