第1章 背徳の夢(1)
美術館前の天使像の前に、今日もその男の人は立っていた。
いつものように所在なさげにブロンズの台座によりかかりながら。
朝の光を受けて、ふわりとウェーブした髪は栗色に光り、彼の横でかしずいている少年天使のそれによく似ていた。
白いシャツにジーンズ、大きなくりっとした目は時折人の流れを追いかける以外は、
疲れたように伏せられていた。
通勤途中の人の波の中でなぜか、彼の周りだけ時間がゆっくり過ぎているように感じ、
初めて見たとき少しハッとした。
いつもは会社へと急ぐ足を止めずに行き過ぎてしまうのだが今日は違う。
小学校5年生の時以来のズル休みをした。
家は出たものの、あてもなくフラフラとここへ来てしまったのだ。
見るともなく彼を見ていると、携帯を取り出したポケットから白いカードがひらりと落ちた。
ゆるい風に乗ってそれは吸い寄せられるように私の足元まで来て止まった。
彼は全く気づいていない。
「何だろう。ポイントカードかな」
二つ折りになった白いそのカードを拾い上げ、何気なく開いて私は一瞬息をのんだ。
「サワダ ケイイチ 10.3 PM10:00 」
ボールペンで走り書きしたような文字でそう書かれていた。
その名は正に今日、私を憂鬱にさせている張本人。
会社の上司、沢田課長の名だった。
しつこいセクハラ。そしてそれを上司に報告したために受けた陰湿な嫌がらせ。
数日前から私の部署は、沢田が流したありもしない噂で持ちきりだ。
今朝は会社に行く気力もなくなり仮病を使った。
自分が負けたような情けなさでじっとしていられなくなり、こうやって彷徨っているのだ。
その忌まわしい名が、ここに書いてある。
何ともいえない不快感を覚えながら、私はそのカードの落とし主に近づいた。
「これ・・・落としましたよ」
ハッとしたように顔をあげて私を見た彼は、さっきとは別人のように愛嬌のある笑顔を浮かべた。
「ありがとう、失くすと大変だったよ」
男の人にしてはツルリとしたきれいな手でカードを受け取ると、少し慌てたようにうしろポケットに入れ、「美術館に行くの?」と、人なつっこく聞いてきた。
「え?・・・ええ、そう」そんな気などないのだが。
「今日はね、臨時休館なんだって」
「・・・・」
ちょっといたずらっぽく笑ったかと思うとその人は、
「じゃぁ」と言って少し急ぐように人の流れの中に消えていってしまった。
誰かと待ち合わせじゃなかったのだろうか。
ぽつんと取り残されたブロンズ像の少年の目が、さっきのイタズラっぽく笑った目にやけに似ている。
「あなたなの?」
言ってみてバカバカしくて笑った。心が現実逃避しようとしている。
落ち着こう。あんな名前どこにでもある。思い出すのもやめよう。
私は青年が消えた人混みを見つめながら、ひとつ深呼吸した。
次の日の朝、出勤しようかどうしようか迷いながら開けた携帯に会社からのメールが入っていた。
『沢田圭一課長が昨夜,お亡くなりになりました。葬儀、並びに今後の業務についてお知らせ致します』
パタンと携帯を閉じた。
もうその先は読めない。
リビングのTVではローカル局のアナウンサーが抑揚のない声で朝のニュースを読み上げている。
「昨夜遅く発見された沢田さんの遺体には不審な点も多く、警察では自殺、他殺の両面から捜査を進めるもようです。なお、死亡推定時刻は3日午後10時頃と見られており・・・・・」
昨日の白いカードの感触がまだ手に残っている。
『サワダ ケイイチ 10.3 PM10:00』
10月4日・・・携帯の今日の日付を確認したあと会社に病欠の電話を入れた。
今日は行かなきゃいけないところがある。
もう一度あの人に会いたい。