あなたが信じなかっただけ
夜更けの王都を酔うにまかせて千鳥足で進む。
先程まで紳士サロンで出会った旧友のコーンフリー……いまは友とも思いたくはないが、彼とカードに興じながらしこたま酒を飲んでいたのだ。
——今はお前も幸せだろう? 侯爵家の婿だもんな。羨ましいぜ。
そんなコーンフリーの言葉に少しモヤッとはしたが、立場が立場だ。やっかまれるのには慣れている。苦笑して言葉を受け取ると、酒のせいで口が滑ったのか過去の罪を懺悔するかのように話し始めた。
——お前は男爵令息とはいえ、見目もよく成績もよく、品行方正。そのうえ、幼馴染の伯爵令嬢の婚約者がいて、いずれ伯爵家に婿入りが決まってた。
——俺たちだって婚約者はいたが、お前ほど恵まれちゃいない。だから……ほんの少し痛い目に遭えばいいと思ったんだ。
その言葉に一瞬酔いが冷める。妬まれることに慣れているとはいえ、面と向かってこんな風に……しかも友人だと思っている人間に言われることはない。
アルスが黙っていると、相手は続けた。
——アイヴィーがある日持ち掛けてきたんだ。寄親のお嬢様が気になってる令息がいるって。それがアルス、お前だ。
——俺は当時アイヴィーと婚約してただろ? 婿入り先でもあるアイヴィーの家の意向は汲まなきゃな。それで、協力することにしたんだ。
そこでアルスがじっとコーンフリーを見つめると、彼は仕方なさそうに肩をすくめた。
「何をしたんだ?」
思いの外低い声が出た。震えてはいなかったが、この先の話が決して良いものとも思えない。ゴクリと唾を飲み込んだ。
しかし、アルスの様子には気がつかないのか、もしくはアルスが怒らないと思ったのか、さして悪いことではないようにまた話し始める。
——俺たちがしたのは一つの証言だけだ。……ああ、そうだよ。あの伯爵令嬢が連れ込み宿に入っていったっていう例のやつだ。
ヒュッと、アルスの喉が鳴った。途端に嫌な汗が滲む。これまですっかり忘れていた彼女の姿が頭をよぎった。
——侯爵令嬢に頼まれたし、アイヴィーの家も厚遇してくれるっていうし、逆らえなかったんだ。それに、アルスも伯爵家より侯爵家のほうがいいだろう? お互いの将来を考えたらそれが一番だって……な?
——まあ、まさか伯爵令嬢が死んじまうとは思わなかったが……。あの家、親戚が継いだんだって? まさか自殺するとは思わなくてさ。一人娘だったし、なんとか婿をもらって継がせるだろうって……。
目の前の男が急に人間と思えなくなってくる。何を言っているのか。お前が言ってることは犯罪じゃないのか? 冤罪で伯爵令嬢を……俺の愛する人を死に追いやったというのか?
何かを言おうとしても言葉が出ない。これは犯罪の告白で……それには妻が関わっているのだ。そして実行犯は友人だと思っていた男とその妻。
吐き気が込み上げてきて、席を立つ。相手が何か言っていた気がするが、もう何も聞く気にはならなかった。
*****
アルスは結婚して八年目でようやく授かった娘がおり、その誕生を機に家族で王都のタウンハウスで過ごすことにした。
代わりに領地に住まうのは義両親である妻のダチュラの両親だ。
始まりはただの政略ではあったが、一度婚約に失敗しているアルスにとっては、格上の家へ婿入りできたことは重畳だと思っていた。
例え妻が傲慢極まりない性格で敬遠される存在であっても、男爵令息が侯爵家に婿入りするなんて本来あり得ないのだから、妻の性格が多少悪くても目を瞑るのが当然と考えていたのだ。
……それが、まさか仕組まれていたものだと八年もの間気がつかなかった。政略結婚だと思い込んでいたものが、周到な罠であることも。
元婚約者であるローズマリーは、コールドウェル伯爵家の一人娘だった。銀髪に薄青の瞳。華奢で可愛らしい顔立ち。アルスの生家であるビーイング男爵家とは隣接する領地であり、両親同士も良き隣人として付き合いがあったことから、二人は小さな頃から遊ぶ仲だった。
アルスは男爵家の次子で、継ぐ家はない。文官になるか武官になるか、いずれにせよ仕官して身を立てることを考えていた。
幼い頃から一緒にいたローズマリーのことはとても好きだったし、愛してもいた。しかし身分差は埋められない。
たかだか男爵家の次男が伯爵家の跡取り娘に求婚するなど、恐れ多くて出来なかった。
十歳になり、醜聞にならぬよう領地の行き来も少なくなるにつれ、いずれローズマリーが結婚するときには、笑顔で祝福できるようにしようと……少しずつ心を整理することを決めた矢先にその話は持ち上がった。
「縁談……ですか?」
アルスの父は男爵家の当主としては平凡だったが、裕福な子爵家出身の母の生家の援助もあり、男爵家とは思えぬほど教育も暮らしぶりも豊かであった。
アルスも兄と共に子爵家の嫡男が受けていた、高位貴族の教育係をしていたという人物をつけられ、二人ともよく学び、結果を出していた。
その教育係の評価が、コールドウェル伯爵の耳にも入ったらしい。男爵家には破格の申し出、つまりローズマリーの婿にアルスを——と言ってきたのだ。
「アルスが嫌でなければ、という話だ」
父にそう言われたとき、すぐには返事が出来なかった。
嫌なはずがない。むしろ、夢のような話だった。
幼い頃から好きだった少女と結婚出来る。いずれ誰か別の男の隣に立つのを、笑って見送らなければならないと思っていた彼女を、自分の妻に出来るのだ。
「……僕で、いいんでしょうか」
「向こうが望んでいる」
「ローズマリーも?」
「ああ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で押し殺していたものが一気に溢れた。
後日、久しぶりに顔を合わせたローズマリーは、昔のようにはしゃいで駆け寄ってくることこそなかったが、それでも頬を赤らめて笑った。
「よろしくお願いいたします、アルス様」
貴族令嬢らしく淑やかに裾をつまみ、礼をする。けれど、そのあと人目を盗んで、小さく笑った。
「アルスが婚約者になって嬉しい。ありがとう」
「……僕もだよ。ローズマリー、大好き」
あのときの胸の高鳴りを、今でも覚えている。
忘れていたと思っていた。いや、忘れたふりをしていただけだったのだろう。
あんなにも嬉しかったことを。世界のすべてが自分たちを祝福していると思った日のことを。
アルスは将来伯爵家を支えられるよう必死に励んでいた。教育係が太鼓判を押してくれてはいたが、やはり実際に大きな領地の経営を支えるとなると、単なる座学では補えないことも多い。
ローズマリーも跡取りとして領地経営を学び、時には互いの課題を見せ合った。
その頃は、眩しい未来が当然のようにあると思っていた。
——十六歳の、あの日までは。
発端は、アルスの友人とその婚約者からの告発だった。ローズマリーが見知らぬ男と連れ込み宿へ入っていくところを見たという。しかも一度ではなく、何度か同じ男と会っていた、と。
最初に聞いたとき、アルスは笑った。
「何かの見間違いだろう」
ローズマリーがそんなことをするはずがない。誰よりも彼女のことを知っているつもりだった。だから、あり得ないと思った。
しかし、噂というものは恐ろしい。目撃したという者が二人いる。しかも一人はアルスの親しい友人で、もう一人はその婚約者。互いに別の家の人間でありながら、証言の内容は一致していた。
やがて「ローズマリーが男性と歩いていた」という曖昧な目撃談まで後から加わった。
——仕立屋へ入るところを見た。
——馬車から降りるところを見た。
——いかがわしい店が並ぶ前で男と話していた。
その男が誰なのか。本当に同一人物なのか。
今思えば、そんなものは一つとして確かめられていなかった。それでも、噂だけが形を持って膨れ上がり、アルスとローズマリーを襲った。
そしてある日、ローズマリーはアルスの前で涙を流した。
「アルス、信じて」
彼女の手は震えていた。
「私はそんな場所へ行っていないわ」
「……ローズマリー」
「あなたを愛してるの」
その一言を、今でも覚えている。
何度でも夢に見る。青ざめた顔、震える唇、縋るようにこちらを見る瞳。
信じる、と言えばよかった……それだけでよかったのだ。けれど、アルスは言えなかった。
友人が嘘をつく理由がないと思ってしまった。だって何の得もない。そのうえ、友人の婚約者まで口裏を合わせる理由も分からなかった。
そして何より、周囲の視線に耐えられなかった。お茶会でもサロンでも夜会でも、どこかへ行けば囁かれる。
——婚約者に浮気されたんだって。可哀想に。
——間抜けな男だな。
——伯爵家に婿入り出来るなら、俺だって目を瞑るね。
若かったのだ。たった、十六だった。
愛する女を守ることより、自分が笑われていることのほうが耐えられなかった。
「……婚約の継続を……考えさせてほしいんだ」
ある日勇気を出してそう言うと、ローズマリーの顔から、表情が消えた。久しぶりに見た彼女は以前より痩せたようだった。
「アルスも……信じないの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どうして!」
「証言があるんだ。僕だって何がなんだか……」
「私はしていないと言っているわ」
「分かってる。でも……」
「分かってないわ!」
ローズマリーはすぐに口元を押さえ、それから小さく謝った。
「……ごめんなさい」
互いに俯いて顔は見えない。落とした視線に、ローズマリーがぎゅっとスカートを握りしめるのが見えた。
「でも、他の誰に疑われても……アルスだけは、信じてくれると思っていたの」
アルスは、何も言えなかった。それが答えだった。
ほどなくして、コールドウェル伯爵家とビーイング男爵家との婚約は解消された。表向きは双方合意の破談だ。
だが、誰もが思っていた。不貞を働いた令嬢が捨てられたのだ、と。
そんな中、コールドウェル伯爵夫妻は、娘を遠方の修道院へ入れるつもりらしい——という話が聞こえてきた。
アルスは、それを聞いても会いには行かなかった。会いに行って何を言えばいいのか分からなかった。
まだ彼女を愛する気持ちはある。それでも、信じられなかった自分がいた。
結局、その程度の愛だったのだと、当時の自分は無理やり納得した。
そんな折、グレイソン侯爵家から縁談が持ち込まれた。相手は侯爵家の一人娘、ダチュラ。家格から考えれば有り得ない話だった。
男爵家が新たに興した紡績の事業に投資したいのだという。それでも、破談の醜聞がついた男爵家の次男に、侯爵令嬢が? 何か裏があるのではと訝しんでも仕方がない。
けれど、アルスは疲れていた。ローズマリーとの件で向けられる同情と嘲笑。伯爵家の婿になり損ねた男という評価。それらすべてを塗り替えられる縁談だった。
侯爵家の婿になれば、誰も笑えない。誰でもいい。ここから救い出してくれるなら。
顔合わせに訪れたダチュラは、侯爵令嬢らしく整った顔に、金色の巻毛、華奢な体に美しいドレスを身に纏っていた。アルスを見て頬を桃色に染め、以前からお慕いしていました、と告げた。
——だから受けた。逃げるように。
そして縁談を受けたその一月後に……ローズマリーは死んだ。自室で毒を呷ったらしく、発見されたときにはもう手遅れだったという。
一人娘を失ったコールドウェル伯爵夫妻は半狂乱となり、その後領地へ引き籠もった。
娘の葬儀さえ、身内だけで行われた。アルスは参列を許されなかった。当然だと思った。
そして後日、母から聞かされた。遺書があった、と。ローズマリーの両親へ宛てたものだった。
長い手紙ではない。たった一行だった。
『私は潔白です』
それだけ。
誰かへの恨み言も、別れの言葉さえない。
それを知った夜、アルスは何度も吐いた。
それでもなお、当時のアルスは自分に繰り返し言い聞かせた。仕方なかった、……と。
もし本当に潔白なら、どうして死ぬ必要があった。死んでしまえば、真実を証明することなど出来ないのに。
このままでは、自分が壊れてしまいそうだった。だから考えないようにした。
ダチュラと結婚し、侯爵家の仕事を覚え、領地経営に励み、妻と夫婦らしい関係を築こうと努力した。
決して仲睦まじい夫婦とは言えなかった。ダチュラは気位が高く、使用人にも領民にも厳しかった。
アルスにも高圧的で、自分が彼を選んでやったのだという態度を隠そうともしなかった。
二年も経てば、ダチュラはアルスに飽きて他の男の間を渡り歩いているようだった。
一年近く前から閨も共にしていないが、侯爵家はダチュラの血筋だ。彼女が産めば誰の子であってもアルスとの間の子として認めねばならない。
自分は恵まれている、そう思うことにした。
やがて八年目に娘が生まれた。もちろんアルスの子ではない。運良く妻に似た色合いで、誰からも責められないだろうことに安堵した。
娘の小さな手が指を握ったとき、アルスは初めて、今の人生を心から肯定出来たような気がした。
この子を守らなければならない。ローズマリーを救えなかった分、愛情を込めて育てようと決めた。
*****
帰宅したアルスは、眠ることが出来なかった。
酒に酔っていたはずなのに、頭の中だけが異様なほど冴えている。
ローズマリーが連れ込み宿へ入ったという話は、全部嘘だった。まさか騙されていたなんて思いもよらなかった。
——夜が明ける頃には、アルスは一つの決心をしていた。
今度こそ、きちんと調べよう。無論、本来はあの時にすべきだったことだ。人の言葉だけを真に受けて、醜聞が怖くて、逃げ回っていた己のツケを払う番だ。
それに、旧友の酔った戯言だった可能性もある。あるいは、自分をからかうためについた新たな嘘かもしれない。そうであってくれとすら思った。
調査は慎重に行った。
侯爵家の名を使えば相手に気取られる恐れがあるため、自身の生家と古くから付き合いのある商人を介し、信用のおける調査人を雇った。
そして半年が経ち、ようやく当時のことを調べ終えた。結果は出た。あまりにも明白な形で。
当時、ローズマリーが入ったとされた連れ込み宿は確かに存在した。しかし、問題の日にローズマリーと思しき貴族令嬢が来たという記録はない。宿の主人は几帳面さゆえか、はたまた誰かの弱味を握る意図でもあるのか、来客の特徴を事細かに記していた。
当時の記録を見返すと、貴族令嬢が利用することなど珍しく、もし本当に伯爵令嬢が来ていれば覚えているだろう、と主人はニヤついて答えた。
そして、例の友人は……彼は当時、婚約者のアイヴィーから話を持ち掛けられていた。アイヴィーの家はグレイソン侯爵家の寄り子だった。さらに支援という名目の金銭の授受もあった。アイヴィーの父が抱えていた借財の一部を、侯爵家と繋がりのある商会が肩代わりしていた証文が存在した。
さらにアイヴィー本人が、当時親しい友人に送った手紙まで見つかった。
『ダチュラ様の恋はきっとうまくいくわ。コーンフリーにも目撃者のふりをするよう頼んだし、あとはあの伯爵令嬢さえ退ければ、ね』
アルスは、その文面を何度も読んだ。
何度読んでも文字は変わらなかった。
それだけではなかった。
噂を広めた者たちを辿れば、いくつかの家へ金品が渡っていた。同じ時期に、同じ出所から。
「奥方様が、当時ご友人の婚約者であったアイヴィー夫人を通じ、ご婚約者様の排除を指示していたものと考えて間違いございません」
調査人の言葉に、アルスは目を閉じた。
「……そうか。確かなんだな?」
「勿論でございます」
「王の前で争うことになったとしても?」
「十分な証拠です。むしろこんなに杜撰でよく今まで隠し仰せたと思えるほどですよ」
最後の一太刀を浴びたように、アルスはもう何も発することが出来なかった。
ローズマリーは——本当に、潔白だった。
『他の誰に疑われても……アルスだけは、信じてくれると思っていたの』
彼女は、死んだから潔白なのではない。潔白だったのに、死んだのだ。
誰も信じなくても、自分だけが信じるべきだった。誰に責められようと、嘲笑されようと、そうしなくてはいけなかった。
最後まで信じてほしいと思っていた相手が、あっさりと別の女との婚約を受け入れたと聞いて、どんな気持ちだったのだろう。
もう遅い。彼女は帰ってこない。
——それでも、自分を憐れんでる場合じゃない。
*****
アルスは何かに取り憑かれたような日々を過ごしていた。繰り返し決意を固め、証拠を保全し、根回しをする。絶対に逃がさない。
コーンフリーとはその後ごくたまに手紙をやり取りし、今日は夫妻で侯爵邸に立ち寄りたいとのことで、アルスは快諾した。懐かしい話でも……などと嘯いてきたが、実際は周辺を探っていたことに気がついたのか、それを確かめたいのだろうと思う。
薄暗い侯爵邸の廊下を玄関ホールに向かって歩いていると、ふいに女の声がした。
「あなた、最近おかしくってよ」
珍しく侯爵邸に帰ってきたダチュラだ。
使用人もすでにほとんどを解雇し、掃除の行き届かない屋敷は幽霊の棲家のように暗く、荒んだ空気を醸し出している。
「……ダチュラ、お前」
「なによ?」
「ローズマリーを覚えているか」
ダチュラの手が止まった。
「俺の元婚約者だ」
「ああ……いらしたわね。地味な見目でしたのに、不貞をなさって婚約破棄されたのでしょう?」
まるで本気でそう思っているかのような軽い口調に、思わず笑みが漏れる。
「ははっ……まさか、お前がそんなこと言うとはね」
「何ですって?」
まだ侯爵位を継いでいないとはいえ、次期侯爵夫妻が廊下で睨み合って言うことがこれかと更に声を上げて笑った。
訝しげに眺めるダチュラに向かい、アルスはふいに真顔になった。
「ローズマリーは不貞などしていなかった。お前は知っていただろう? お前のように、誰彼構わず股を開くような女性じゃない」
八年間ともに暮らした妻、血のつながらない娘の母、自分の人生を救ってくれたと思っていた女。その女がすべての元凶なのだ。
ダチュラは驚きのためか、目を見開き口をハクハクさせる。それはそうだろう。これまでアルスはダチュラに従順だった。侯爵家にも。
妻の不貞を責めることもなく、産まれてきた娘が我が子でないことを知っていても、何も言わなかった。
「全部分かったんだよ」
「……何のお話かしら」
ダチュラの声音が、ほんの少しだけ硬くなった。
「コーンフリーがすべて話したよ。もちろん、やつの話だけじゃない。あらゆる面から証拠を集めたんだ」
「……は?」
「アイヴィーの家へ渡った金も、商会を通した借財の肩代わりも、噂を流した連中へ支払った金品も調べた」
「何を勝手に……!」
「人一人殺して手に入れるほど恋焦がれてたとは知らなかったな。今は顔を合わせることもないのに」
「私が殺したわけではないわ!」
ダチュラが叫んだ。
「勝手に死んだのでしょう!」
その言葉に不思議なほど何も感じなかった。やはり、この女はそうなのだと思っただけだ。
目を逸らし続け、口を閉ざし、その結果が娘という不幸な人間まで作り出してしまった。
なんと罪深いことか、なんと恐ろしいことか。
「確かに、お前も俺もあいつらも、直接手を下したわけじゃない」
ダチュラが怪訝そうに眉を寄せる。
「だが分かるだろう? 未婚の貴族令嬢にあんな醜聞が立って無事でいられないことはさ」
「だから何よ……」
「全員、直接手を下していない。ただ……確実に息の根を止めたんだ」
アルスは一歩近づいた。
「俺が何も言わなくて安心したんだろう?」
「……」
「自分は殺していない。あの女が勝手に死んだ。自分には関係ない」
「事実でしょう!」
「俺もそう思って安心してきたんだ」
自分へ向ける言い訳を、他人が口にする醜さが今更ながらにギリギリと胸を締め付ける。
「気持ち悪いんだよ。お前も、コーンフリーも、アイヴィーも……俺も」
八年もの間ローズマリーを忘れ、自分も被害者だったのだと繰り返し言い聞かせ、そうやって自分を慰めて生きてきた。目の前の女の醜さに目を瞑り、ここまで来てしまったのだ。
アルスが苦しげに顔を歪めると、ダチュラはイライラして言い放った。
「……今更何なのよ! あなただって加担したも同じじゃない! それなのに、なに被害者面してるのよ!」
「そうだな……すべてを正さなきゃ」
ゆらりとアルスがダチュラに近づく。彼女は意味が分からないという顔をし、次いで甲高く笑った。
「あなた、自分の立場が分かっているの?」
「ああ」
「あなたは婿なのよ!」
「そうだな」
「男爵家の次男だったあなたを、侯爵家に迎えてあげたのよ!」
「分かってるよ」
「私と離縁したら何も残らないのよ!」
「それも分かってる」
「なら——」
「だから?」
「娘はどうするの!」
その一言でアルスの表情が変わった。ダチュラはそれを見逃さず、どこからも使用人が駆けつけないことを訝しんだ。
「ほ、ほら! あなた、あの子を可愛がっているものね。私を追い出すなら、当然あの子の立場だって危うくなるわよ?」
「……かもな」
「母親が罪人なんて知られたら、あの子が苦しむだけよ。未来のない死人より、生きている娘でしょう? 死んだあの女と、私の産んだ尊い子じゃ命の重さが違うのよ! あの女は死んで当然だったのよ!!!」
その言葉を聞いた瞬間、アルスの中で何かが弾けた。
*****
国境を二つ越えた小国の、王都から馬車で半日ほど離れた小さな街に若い女性が住んでいた。
白壁の家に季節の花が咲きみだれる広い庭。窓辺には乾燥させるための薬草が吊るされている。
その庭で、女が花を切っていた。淡い栗色の髪と薄い青の瞳。かつては銀髪だったが、今は薬液で染めている。この国で元の色を知る者はいない。
「ロゼ」
門から入ってきたのは若い男だった。二十代半ばほどだろうか。背が高く、闇夜を溶かしたような黒髪と若葉色の瞳を持つ美丈夫だ。
整った容貌にはまだ青年らしさが残っているが、この辺りではよく知られた名家の次男だった。
「今日は早かったのね」
「ああ。珍しい新聞が届いてさ」
男は手にした紙束を軽く振った。
「お隣の国の新聞なんだけどさ……ほらここ、随分物騒な事件があったらしい」男は新聞を広げた。
女——ロゼは花籠を抱えたまま首を傾げる。
「物騒って?」
「侯爵家の婿が、妻とその友人夫婦を殺したんだって。それで本人も自殺。なんでも、昔の婚約者を陥れた連中への復讐だったとか」
「そうなの」
「その婚約者っていうのが、八年前に自殺した伯爵令嬢らしい」
強い風が庭の木々や草花を揺らす。まるで心の内を映すかのように。ゆらゆらと。
「君、あの国の出身だったよね」
「ええ……」
答えた途端、指先が冷えた。風に煽られた新聞が立てる、ぱたぱたと乾いた音が耳障りでならない。
まるで、ひどく遠い昔の扉を叩く音のように聞こえた。
——アルス、信じて。
心当たりのない醜聞に、どんなに弁明しても消えない悪意に、ローズマリーは追い詰められていた。
母は泣き、父は日に日に口数を失っていく。毎日のように舞い込んでいた誘いの手紙は途絶え、最後にはアルスから婚約を考え直したいと告げられた。
それだけではない。ローズマリーとの婚約解消から僅かの間にアルスが侯爵令嬢との縁談を受けたと聞いた。
あのとき、胸の中で何かが音もなく潰れた。身体中の血が地面に流れ出し、心臓が動いているのがおかしく思えるほどにすべてが凍りつく。
どれほど違うと言っても、誰もこちらを見なかった。
信じてほしかったたった一人も。
だから、逃げた。
運良く自国へ戻るという商団と根気よく交渉した父は、ローズマリーを託すことに決めた。貴族令嬢が一人で生きていくのは難しい。それでも、生きられる希望があるなら……苦渋の決断だった。
そして、両親は金も労も惜しまず、ローズマリーの死を擬装して逃したのだ。
——ローズマリー。お前が幸せでいれば、私たちは幸せだ。例え二度と会えなくても、名前が変わっても、親子でなくなっても。
——心から愛しているよ。お前が娘として産まれてきて良かった。ありがとう。
心から好きだった。幼い頃から彼だけを見てきた。
同じ季節を重ね、いつか共に生きるのだと疑わなかった。
——なのに、私が何をしたというのか。
「ロゼ?」
呼ばれて、ロゼはゆっくりと顔を上げた。
「もしかして、知ってる人だった?」
男は心配気にロゼを覗き込み、そっと肩を優しく抱く。
あの頃、欲しかったものはたった一つだった。
ロゼは目を伏せたが、もう、涙は出なかった。悲しいのか、嬉しいのか、それすらもう分からない。彼らの破滅になど揺れ動かされることはない。
ただ、胸の奥に長いあいだ刺さっていた棘が、いつの間にか朽ちていた。
抜こうと力を込める必要もなく、血を流すこともなく、古い傷の底から静かにホロホロと崩れ落ちていく。
また風が吹き、男の持つ新聞の端が大きくめくれて知らない国の出来事を載せた紙面が裏返る。
白い裏面が、陽の光を受けてまぶしく揺れた。
先ほど摘んだ一輪をじっと見つめる。
手に持ち続けて少し傷んでしまったこの花の名は、何だっただろうか。
「さあ?」
手の中の花の茎を、ポキリと折って捨てた。風が薄青の花弁をさらい、土の上へ静かに運んでいく。
そして、男へとゆっくり微笑んだ。
「知らない人だわ」




