異世界召喚の言語学者は、宮廷通訳の誤訳を全部正します
隷属、じゃない。それ、使役の再帰形だ。
目の前で読み上げられた一文に対して、私の頭が最初に返した感想がそれだった。自分がどこに立っているのかより先に、動詞の語尾が気になった。職業病というより、たぶん性分だ。
「以後、汝はこの国に永久に隷属するものとする」
嗄れた声がもう一度、同じ訳を繰り返す。石造りの広間。高い天井。私の靴の下には金糸の絨毯があり、その先の段の上に、初老の男が座っている。王冠を被っているので王なのだろう。その傍らに立つ黒いローブの老人が、黄ばんだ羊皮紙を私に向けて広げていた。
大学の資料室で、古期印欧語の格変化表と睨み合っていたはずだった。瞬きをひとつしたら、ここにいた。
「賢者召喚の儀であったが、喚ばれたのはどこにでもいそうな小娘か」老人は嘆息し、それでも礼儀正しく羽根ペンを差し出した。「まあよい。契約は魔力で結ばれている。署名を。宮廷主席通訳グレアスが、神聖古語より正しく訳して差し上げた」
私は羊皮紙を見た。見てしまった、と言うべきか。
知らない文字だった。それでも三行読めば分かる。屈折語だ。動詞は文末、語幹に語尾を足して人称と態を作る。末尾の動詞は「セルヴ」という語幹に「ール」が付いている。仕える、という意味に取れる。
ただし、その「ール」の前に、小さな重ね書きの印が一つ入っていた。
「お待ちください」
声が出た。玉座の間が静かになる。
「今、隷属、と訳されましたね」
「読めるとでも言うのか、娘」
「読めません。でも、見えます。その訳、違います」
私は文末の一語を指差した。
「この動詞、語幹と語尾の間に子音の重複符がありますよね。『セルヴール』ではなく『セルヴッスル』。この符号が何を意味するかは知りません。でも、他の行を見てください。三行目の『与える』にも、五行目の『捧げる』――『フェルッスル』にも同じ符号が入って、そのたびに主語が二つ並んでいる。二者が互いに、という形です。相互形。使役の再帰形と言ってもいい」
グレアスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「つまり『仕える』ではなく『仕え合う』。以後、汝はこの国と対等に契約する。そう読むのが文法的に正しい」
私は老人の手から羽根ペンを取った。
「私はこの訳に基づいてのみ、署名します」
書いた。自分の名前を、知らない国の、知らない契約書に。インクが青く光り、羊皮紙に吸い込まれた。後で考えれば無茶な話だ。でもその時の私は、間違った訳の下に名前を書くほうが、よほど怖かった。
沈黙を破ったのは、グレアスだった。
「……なるほど。重複符」
老人は羊皮紙を覗き込み、しばらく黙って、それから穏やかに笑った。
「老いた目が滑ったようです、陛下。娘の言うとおり、この形は相互形にございます。契約は、対等の形で成立いたしました」
潔い、と思った。思ってしまった。
王が肘掛けから顎を上げた。
「面白い。四十年、誰にも訳を覆されなかった男が譲ったぞ。娘、名は」
「岬です」
「ミサキ。しばらく王宮の古文書を見てもらおう。言語監査官、という肩書きでよいな、グレアス」
「結構でございます」
老人は深く頭を下げた。その白い後頭部を見ながら、私はなぜか、初めて背中が冷えるのを感じた。
◇◇◇
王宮の監査官などと言っても、要するに埃を吸う仕事だ。
執務室として与えられた部屋には、グレアスが「難解ゆえ後回し」と札を貼った羊皮紙が三百年分ほど積まれていた。私は一日目に文字の一覧を作り、二日目に格変化表を作り、三日目には辞書の代わりに壁一面を使っていた。
最初の「事件」は、七日目に来た。
「監査官殿。ご確認をいただきたい」
グレアスは自分で来た。兵に引き立てられた恰幅のよい商人と、一冊の帳簿を連れて。
「この者は王室の貢納品を預かる立場にありながら、倉庫を空にしております。帳簿には王室への『贈与』とある。贈ったものが無いのだから、横領だ。処刑の前に、念のため」
商人は青い顔で首を振っていた。私は帳簿を開いた。問題の語はすぐに見つかった。「レンダ」。前後を読めば、確かに「与える」の系列だ。
ただし語尾が「ア」ではない。「エ」だった。「レンデ」。
「グレアス殿。この語尾、母音が違います」
「ほう」
「この帳簿では、語尾がアのとき主語が渡す側、エのとき受け取る側です。ここに三例、ここに二例。商人が王室に品を『贈った』のではなく、王室から資金を『借り受けた』記録です。返還期限は――」私は次の行を追った。「来月の満月。横領はまだ、起きていません」
グレアスは帳簿を覗き、それからまた、あの穏やかな笑みを浮かべた。
「なるほど。ア、と、エ。老いた耳には同じに聞こえるものです。監査官殿の言うとおりにいたしましょう。この者を放せ」
商人は泣きながら私に頭を下げ、逃げるように出て行った。
グレアスも一礼して去った。負けたのに、機嫌がよさそうに見えた。
その夜、私は自分の帳面に書いた。――グレアス、二戦二敗。いずれも即座に譲る。誤りは初歩的。四十年主席を務めた人間の誤りとして、初歩的すぎる。
書いてから、線を引いて消した。専門家をそこまで疑うのは失礼だ。
二度目は、御前会議だった。
北の隣国から親書が届き、王宮は戦支度の音でざわめいていた。円卓の上に、崩し字の羊皮紙。将軍たちは既に立っている。
「無条件降伏を要求しております」グレアスの声は低く、迷いがなかった。「『ダル』――降れ、と。侮辱でございます。陛下、御決断を」
「陛下、お待ちください」
私は羊皮紙を読んだ。読めた。ただ、その一語だけが分からなかった。「ダル」とも「タル」とも読める。崩し字の癖で、有声と無声の区別が消えている。
「この文字、私には判断できません。書いた人間にしか」
「書いた者はここにはおらぬ」将軍の一人が言った。
「使者は?」
使者は控えの間にいた。若い男で、私と同じくらいの年に見えた。北方の顔立ちで、こちらの言葉はほとんど話せず、王宮の誰も彼の言葉は話せない。だからこそ、親書は文字で来たのだ。私は彼の前に羊皮紙を置き、問題の一語を指し、自分の口で言ってみた。
「ダル」
彼は首を振った。そして、はっきりと言った。
「タル」
息の音だけが違う。声帯が震えない。
「無声音です、陛下」私は円卓に戻って言った。「北方の言葉では、有声の『ダル』が降れ、無声の『タル』が止まれ。停戦の呼びかけです。国境の小競り合いを、止めたいと言っている」
将軍たちが顔を見合わせた。グレアスは、しばらく羊皮紙を見つめていた。
「……なるほど。書いた者の声を聞くとは、思いつきませんでした」老人はゆっくり頭を下げた。「老いた耳が、誤ったようです」
王は剣を収めさせ、使者を客として迎えるよう命じた。
使者はラーシュと名乗った。私は彼に、自分の名前を三度発音してもらった。北方の音では、私の名の「サ」がわずかに歯の裏で擦れる。古い発音だ。中央では消えて、辺境に残る音。教科書で読んだ通りのことが、目の前で起きていた。
「あなたの言葉は、古いですね」私は身振りと、彼の言葉の断片で伝えた。「ここの人たちより、ずっと古い形を残している」
彼は少し考えて、笑った。それはたぶん、褒め言葉として届いた。
◇◇◇
王が私を私室に呼んだのは、収穫祭の三日前だった。
「神託の件だ」王は前置きなしに言った。「疫病が出た。神官どもは古い神託を持ち出して、乙女を炎に捧げよと言う。グレアスの訳だ。四十年、その訳で通ってきた」
「私に読めと」
「いや」王は私を見た。「読まずに済ませてほしい。神託が『捧げよ』でなければ、神官どもは私に牙を向く。疫病の最中に、それは困る。娘一人で国が静まるなら――ミサキ、少し、違えてくれ」
少し、違えてくれ。
私は自分の靴の先を見た。この人は暴君ではない。そのことが、かえって怖かった。
「陛下。通訳が訳を選び始めたら、陛下は何を読んで国を治めるのですか」
「……」
「私が違えれば、次からあなたは、私の訳を信じられなくなる。それは私を殺すより、この国に高くつきます」
王は長いこと黙り、それから手を振った。
「読め。好きにせよ」
私は退出した。廊下を歩きながら、初めて気づいた。四十年前、この部屋で、同じ言葉を聞いた人間がいたのではないか。少し、違えてくれ、と。そして、はい、と答えた人間が。
収穫祭の広場。祭壇の炎。白い服を着せられた少女が、神官たちに腕を掴まれている。グレアスが木簡を掲げ、神託を読み上げた。
「大いなる災厄を退けるため、清らかなる乙女を捧げよ」
「その訳、違います」
人波の中から言った。前と同じ言葉を、前とは違う声で。
「監査官殿」グレアスは、笑わなかった。「これは神託です。文法の遊びではない」
「文法です。木簡を貸してください」
彼は渡さなかった。神官長が渡した。私は動詞を指した。
「『捧げよ』と訳されたこの語、命令形の使役ではありません。受身です。主語は乙女ではなく、その前の行の『大地の底に封じられたもの』。災厄を退けるために、封じられたものが『解かれる』。守護獣を解き放て、と読むのが正しい。乙女は、どこにも出てきません」
「解釈の相違だ」
初めて、グレアスがそう言った。譲らなかった。声が硬かった。
「相違ではありません。同じ活用形が、この木簡の中に他に四つあります。全部、受身で訳されている。あなた自身の訳でです。この一語だけが使役になっている」
神官長が木簡と私の顔を見比べ、王を見た。王は、私を見ていた。
「縄を解け」
少女の家族の泣き声が上がった。私は木簡を神官長に返した。グレアスは何も言わなかった。ただ、私を見ていた。帳簿のときとも、親書のときとも違う目で。
その目で、ようやく分かった。この人は、無能ではない。無能なら、あの二回、あんなに早く正解に頷けるはずがない。この人は、譲っても痛くないところで譲り、痛いところで――今、初めて――抵抗した。
では、一番痛いところは、どこだ。
◇◇◇
建国条約の写しは、公文書館の一番良い棚にあった。原典は、地下の禁書庫にあった。鍵は監査官の権限で借りられた。借りられたこと自体が、後で考えれば、誰も私がそこまで行くと思っていなかったという意味だ。
私は写しと原典を並べた。
写しは美しい字だった。若い手の、力のある筆跡。末尾の写字生の署名は、読めた。グレアス。四十年前。
一条ずつ照らした。一条、二条、三条。完全に一致した。四条、五条、六条。一致。
七条。
原典。「両国は、危難に際してフェルッスル」。捧げ合う。相互扶助。
写し。「両国は、危難に際してフェルール」。捧げる。主語は、この国だけ。
小さな重複符が、一つ、無い。
私は原典全体の重複符を数えた。三十一。写しでは、二十八。欠けている三つは、全て七条の中にあった。他の二十八は、一つも落ちていない。
うっかり落とした人間は、一箇所に三つ落とさない。落ちる場所は散る。散っていないということは、落としたのではなく、選んだのだ。
貢納。四十年。国庫から北へ流れ続けた金貨。「誠意ある贈り物」。
背後で、鉄の扉が開いた。
「監査官殿。禁書庫は、許可のない者の立ち入りを禁じております」
グレアスの声だった。兵が二人、後ろにいた。
「私は監査官です」
「その権限は今朝、評議会が見直しました。ご存じなかったのは、お忙しかったのでしょう」
原典は、私の手から丁寧に取り上げられ、鉄格子の箱に戻された。鍵は彼の袖に消えた。私は自分の帳面だけを抱えて、地上に戻された。
手元にあるのは、私の字で書き写した七条の一行と、三十一と二十八という数字。
私の言葉と、彼の言葉。四十年の主席通訳と、七日前まで資料室にいた小娘。どちらを信じるかは、文法では決まらない。
その夜、私は初めて、自分がこの国の言葉を話せないことを悔しいと思った。証拠がある。示せない。
――示せる人間が、一人だけいる。
◇◇◇
条約更新の式典は、正殿で行われた。
王。左右に高官。北方の使節団、その末席にラーシュ。台座の上に、金箔の更新文書。その横に、グレアス。
「両国の末永き平和のため、我が国は今後も、誠意ある贈り物を欠かさぬことを誓約いたします」
王が席を立った。
「お待ちください」
私は扉を開けなかった。もう、中にいたからだ。監査官の席は取り上げられていたが、契約者としての席は、誰にも取り上げられない。あの日、自分で署名した契約が、私をここに立たせていた。
「七条に、誤訳があります」
正殿がざわめいた。グレアスは、静かだった。
「監査官――いや、ミサキ殿。原典は禁書庫に。ここには写ししかございません」
「知っています。あなたが鍵を持っている」
「では、何をもって誤訳と」
「あなたの写しの中の、重複符の数です」私は帳面を開いた。「原典に三十一。写しに二十八。欠けた三つは、全て七条。四十年前の若い写字生は、他の二十八を一つも落としていない。落ちたのではなく、選ばれたのです」
「数字は、あなたの帳面の中にしかない」グレアスは穏やかに言った。「原典を見た者は、あなた一人だ。写し間違いだったとしても、意図だったとしても、証明する手段はこの場にない。式典を、進めましょう」
彼は正しかった。文書では、私は負ける。
「文書では、そうです」
私は使節団の末席を見た。
「ラーシュ殿。あなたの国の言葉で、七条を読んでいただけますか。あなたの国の写しから」
ラーシュは立った。彼の国の写しは、彼の国の言葉で書かれている。四十年前、同じ原典から、向こう側で写されたものだ。彼は該当の行を指でたどり、読んだ。ゆっくりと、はっきりと。
「――フェルッスル」
正殿の空気が、変わった。
ここにいる人間の半分は、あの日の玉座の間にいた。私の契約書の、あの一語を聞いた人間たちだ。重複符。二者が互いに。私が指差して、グレアス自身が「相互形にございます」と頷いた、あの形。
「私の契約書の五行目と、同じ語です」私は言った。「捧げ合う。あの日、皆さんの前で読んだ語です。同じ小さな符号が、私を奴隷にせず、この国を貢納国にしなかったはずの、同じ一文字です」
王が、ゆっくりと口の中で繰り返した。「フェルッスル」。
グレアスが、初めて、目を閉じた。
「……向こうの写しには、残っていたか」
長い息。それから老人は、王ではなく私を見て、言った。
「四十年前、七条を正しく訳せば、北の戦に兵を出す義務が生じた。当時の我が国に、その兵はなかった。貢納のほうが、安かったのです。血より、金のほうが」
「それは、訳ではなく政策です」
「そうだ」
「政策は、王が決める。訳を変える権利は、通訳にはありません。選ぶのは、両方の言葉を聞いた人間です」
私は一歩進んだ。
「そして、あなたはその金を、全部北へ送ったわけでもない」
使節団の長が、ここで初めて口を開いた。ラーシュが訳した。彼らの帳簿にある受領額は、この国の帳簿にある送付額の、半分だった。
差額の行き先を、正殿の誰もが、一人の老人の顔に読んだ。
「誤訳を全部正します」私は言った。「一語ずつ。七条から」
王が兵に手を上げた。グレアスは抗わなかった。連れ出されるとき、彼は私の横で足を止め、小さく言った。
「重複符を、数えたのか」
「数えました」
「……四十年、誰も数えなかった」
それが、老人の最後の言葉だった。
◇◇◇
条約は、その場で結び直された。
通訳は立てられなかった。王と使節団の長は、ラーシュと私の間で、一語ずつ確かめながら、互いの言葉を聞いた。時間はかかった。半日かかった。でも、その半日の間に、四十年で初めて、二人の君主は同じ文を同じ意味で読んだ。
私は正式に、王室付き言語監査官に任命された。禁書庫の鍵も、ついてきた。差額の金貨は老人の屋敷から見つかり、北へではなく、四十年分の税を払った村々へ戻されることになった。
王は任命の席で、一つだけ私に訊いた。「訳を、選ばぬと誓えるか」。私は誓わなかった。「選びそうになったら、陛下に言います」と答えた。王は笑った。
執務室に戻ると、机の上には相変わらず三百年分の埃が積まれていて、私は袖をまくった。
ラーシュが、扉のところに立っていた。彼は少しこちらの言葉を覚え、私は少し彼の言葉を覚えていた。彼は自分の国の言葉で、短い文を言った。ゆっくり。私に分かるように。
動詞の語幹は、分かった。「学ぶ」だ。
語尾の前に、小さな重複符が、一つ入っていた。
学び合う。互いに。
私は少し考えて――正確には、考えるふりをして――答えた。
「その訳は、合っています」




