後ろ手のピース
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高架線の下を歩くとき、決まって空気が変わる。
地面が微かに振動して、次に匂いが来る。埃と鉄と、どこか湿ったもの。それから轟音が——。
僕は立ち止まった。
電車が頭上を通り過ぎていく。風が来た。コートの裾が揺れた。三月の始めの空は、まだ白みがかっていて、光があるのに温かくない。一年前も、こんな空だった気がする。
轟音が遠ざかる。
静寂が戻ってくる。
いつもそこで、あの日に引き戻される。
柱に落書きがある。数字とイニシャル。「K+M 2017」。誰かと誰かが、ここに何かを残していった。風雨に削られて、でも消えずにある。残そうとしたものは、しぶとく残る。
残そうとしなかったものは、どこへ行くのだろう。
一年が経った。季節は一周した。僕の周りの何もかもが、流れるように時間を重ねていった。バイト先のスーパーの棚には春物の惣菜が並び、同級生の誰かが結婚したという話を風の噂で聞いた。世界は何事もなく進んでいる。
僕だけが、あの二月の終わりに置いてきぼりになっている気がした。
あの日——奈々未が、東京へ行った日のことを、また思い出している。
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奈々未が「東京、行くことにした」と言ったのは、卒業式の二週間前だった。
学校帰りに寄ったコンビニの駐車場で、缶コーヒーを飲みながら、さらっと言った。さらっと、というのが奈々未らしかった。大事なことをいつも、世間話みたいな顔で話す。
「テレビ局の制作会社、受かったんだ」
「そっか」と僕は言った。
それしか出てこなかった。引き止めたかったのか、よかったと思ったのか、今でもよく分からない。たぶん両方だった。でも「おめでとう」も「行くな」も、どちらも言えなかった。缶コーヒーを一口飲んで、駐車場のアスファルトを見た。
「瞬は?」と奈々未が聞いた。「卒業したら、どうするの」
「どうするって」
「何かしたいこと、あるの?」
なかった。正確に言えば、考えていなかった。どこかに就職するか、地元でバイトするか、ぼんやりと思っていただけで、何かに向かっていく気力が、そもそも湧いてこなかった。それを言葉にするのが恥ずかしくて、「まあ、いろいろ」と答えた。
奈々未は笑った。責めるような笑い方ではなかった。ただ、少しだけ遠いところを見ていた。
「そっか」と彼女は言った。
僕の「そっか」と、奈々未の「そっか」は、たぶん全然違う意味だった。
二週間後、奈々未は卒業した。その月の終わりに、東京へ旅立った。
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見送りに行ったのは、誰に頼まれたわけでもなかった。
ローカル線の駅は小さくて、ホームに屋根はあるが壁はなく、二月の終わりの風が横から吹き抜けてくる。奈々未は大きなキャリーケースを一つと、背中にリュックを背負っていた。それだけだった。十八年分の何かを、それだけに収めてきたのだと思うと、なぜか胸が痛かった。
「来てくれたんだ」と奈々未は言った。
「暇だったから」と僕は答えた。
またそれしか言えなかった。
電車が来るまで、たいした話はしなかった。天気のこと、東京の家賃が高いこと、向こうで食べたいものがあるとか、そういうことを話した。奈々未はよく笑っていた。緊張しているのか、はしゃいでいるのか、それとも泣きそうなのを隠しているのか、僕には分からなかった。
言おうとしていたことが、あった。
ずっと前から決めていたわけじゃない。その朝、駅に向かいながら、言えるかもしれないと思っただけだ。好きだ、とか、行くな、とか、そういう言葉じゃなくて——もっと別の、うまく形にならない何かを。ただ、言葉が出る前に、いつも何かが邪魔をした。奈々未の笑顔だったり、ホームに吹く冷たい風だったり。
電車が近づいてきた。
空気が変わった。地面が振動して、鉄の匂いが濃くなって、それから——轟音が来た。
その瞬間、奈々未の唇が動いた。
何かを言っていた。確かに言っていた。でも何も聴こえなかった。轟音が全部持っていった。僕は奈々未の顔を見ていた。彼女の口が動いて、目が細くなって、何かを言い終わった。
電車が通り過ぎた。
静寂が戻ってきた。
奈々未は僕を見ていた。答えを待っていた。
聴こえていなかった、と言えばよかった。もう一度言って、と頼めばよかった。でも僕は——奈々未の目を見て、微笑んで、頷いた。
聴こえたふりをした。
あるいは、聴こえなかったとしても、分かる気がした。どちらかは、今でも分からない。
奈々未は一瞬、何かをこらえるような顔をした。それからすぐに笑った。「じゃあね」とは言わなかった。改札に向かって歩き出して、途中で一度だけ振り返らずに——後ろ手でピースをした。
それが、奈々未らしかった。
電車のドアが閉まった。ホームに僕だけが残った。
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また、電車が来る気配がした。
高架線の下に戻ってきていた。いつの間にか、回想が終わっていた。空は相変わらず白くて、三月の風はまだ冷たい。一年前と同じ空だ。同じ風だ。僕だけが一年分、歳を取った。それだけのことのはずなのに、どこかが追いついていない。
地面が振動する。轟音が来る。
風が体を押す。
電車が通り過ぎると、また静寂が戻ってくる。
人は必要な時に、必要な人と会う——という言葉を、どこかで聞いたことがある。誰が言ったのかは忘れた。でもたまに思い出す。特に、こういう場所に立っているとき。
信じたい気もする。あの日々に意味があったと思いたい。でも信じると、別のことも認めなくてはならない。必要な時が終わったから、奈々未は行った。そういうことになってしまう。
それに——もし奈々未が轟音の中で言ったことが、僕にとって必要な言葉だったとしたら。聴こえなかったその言葉が。
僕は何を失ったのだろう。
柱の落書きを見た。「K+M 2017」。変わらずそこにある。KとMが何者で、今どこにいるのか、知る術はない。それでもここに残っている。残そうとしたものが、残っている。
奈々未は何も残さなかった。後ろ手でピースをして、振り返らずに行った。
それが奈々未らしかったと、僕は今も思う。思いながら、それでいいのかどうか、分からないままでいる。
サヨナラを振り向くな、と誰かが言う。
分かっている。分かっているのに、高架線の下を歩くたびに、電車が通るたびに、引き戻される。一年経っても、季節が一周しても、僕はまだここに立っている。流されるように時間だけが過ぎて、心だけがあの二月の終わりに置いてきぼりのまま。
それが弱さなのか、それとも——そういうものなのか。
また電車が来る気配がした。
空気が震える。匂いが来る。
僕は立ったまま、それを待った。
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本作は、乃木坂46の楽曲『サヨナラの意味』(作詞:秋元康)からインスピレーションを受けて執筆したオマージュ小説です。
歌詞の直接的な引用はありませんが、その世界観を大切に物語を構築しました。




