第8話 博多港から山奥へ ――移送される囚人たち――
連れて行かれる時、
人はまだ
「帰れる」と
思っている。
本当に恐ろしいのは、
帰れないと
悟る瞬間だ。
◆ 1940年5月初旬
李成鎮一家は、他の囚人20名と共に、突然、列車へ乗せられた。
行き先は告げられない。
ただ、
黙って座れ。
窓を見るな。
そう命じられただけだった。
◆ 海を越え、列車を乗り継ぐ
満洲・大連港。
そこから船で九州・博多へ。
さらに列車で、久留米へ。
ここまでは、一見するとただの
**「移送」**に過ぎなかった。
誰も殴られない。
怒号もない。
だが——
久留米駅から先が、違っていた。
◆ 覆いのかかったトラック
囚人たちは、陸軍トラックの荷台へ押し込まれた。
荷台には、外が見えぬよう厚い布の覆い。
同行する兵士は2名。
そして——
久留米駅を出ると、1台のジープが前を走り始めた。
助手席に座る男。
斉藤和男中尉。
彼は振り返らない。
ただ黙って、山道へ進んでいく。
◆ 山へ
舗装路が終わると、車体は激しく揺れ始めた。
布の隙間から、断片的に見えた景色。
・満洲とはまるで違う、濃い緑
・谷底を流れる、澄んだ川
・竹笠をかぶり、稲を植える村人たち
あまりにも普通の、日本の風景だった。
博多の蒸し暑さが嘘のように、山間部の空気は冷えていた。
海抜、約600メートル。
◆ 迫る夕闇
太陽が、驚くほど早く山の向こうへ沈んでいく。
トラックの荷台で、誰かが小さく息を呑んだ。
ここは、どこなのか。
なぜ、こんな場所へ。
誰も答えを知らない。
ただ一つ、全員が同時に感じていた。
——戻るための道が、
確実に、後ろで閉じられていくという感覚を。
次回予告
「坑道の入口」
ここが、
**“戻れない場所”**だと
誰もが悟る瞬間。
闇は、地上ではなく、
地下に口を開けていた。




