第6話 李成鎮一家の悲劇 ――戦争が、家庭に踏み込んだ夜――
731部隊の施設から、そう遠くない場所に、朝鮮人の李成鎮一家は暮らしていた。
質素だが、静かな生活。
豚を育て、肉を売り、ようやく養豚業が軌道に乗り始めた頃だった。
——その夜までは。
◆ 1939年3月22日 深夜
豚小屋のほうから、異様な悲鳴が響いた。
「……オオカミかもしれない」
李成鎮は猟銃を手に取り、月明かりを頼りに外へ飛び出した。
だが、そこにいたのは獣ではなかった。
日本陸軍の兵士、二人。
豚を屠殺し、すでに担ぎ上げていた。
「徴用だ」
「何をしている!」
怒鳴り声とともに、李成鎮は銃を構える。
その瞬間、兵士の一人が淡々と、短く言った。
「徴用だ」
理由の説明はない。
書類もない。
命令書すらない。
それが、その場のすべてだった。
◆ 銃声
騒ぎを聞きつけ、家の中から長男が飛び出してきた。
包丁を手に。
「戻れ!」
父の叫びは、闇に吸い込まれた。
影に向かって走った、その一瞬——
乾いた銃声が、夜を裂いた。
長男は仰向けに倒れ、二度と動かなかった。
心臓を、正確に撃ち抜かれていた。
◆ 残されたもの
兵士たちは、何事もなかったかのように闇の中へ消えていった。
豚も。
息子も。
理由も。
すべてを奪ったまま。
その場に残されたのは、月明かりと、泣き声だけだった。
この夜、李成鎮一家は理解した。
この土地には、抗議していい「正義」が存在しないことを。
だが——
それでも彼は、声を上げようとする。
それが、さらに深い地獄への入口だとも知らずに。
次回予告
「訴えと転落」
正義を求めた男は、何を失い、どこへ落とされていったのか。
戦争は、こうして人を
**「囚人」**へ変えていく。




