第9話 初夜キャンセルした嫁にアソコを手玉に取られた伯爵
エーリッヒはこっそりと自室に戻ってひとりで食事をとり、伸晃は敵を探るためあえて綾子と一緒に食事をとった。
その後、ふたりは仕事部屋であるエーリッヒの書斎で落ち合い、コーヒー片手に情報交換の時間を取っていた。
「よりによってエリック……もっと何かあっただろ!」
エリックという名前は、伸晃との幼い頃からの友情の証であった。
今では体裁もあるからエーリッヒと呼ばれているが、孤独だったエーリッヒの宝物というべき呼び名なのだ。
あんな後からぽっと出てきた女が呼んでいい名前ではないのである。
「中途半端な名前呼ばれても反応できないだろ。俺も思い付かなかったしさぁ……」
そう言って、伸晃はエーリッヒを見た。彼は親友の顔を見てその怒りを察した。
「ご、ごめんそんな嫌がるとは……」
「仕方ない。他でもないノブだしまあ……俺も大きい声出して悪かった」
「ごめんな」
「もういい。俺もすまなかった」
ふたりはまれに喧嘩もするが、一度謝れば後腐れなくすっぱりさっぱり切り替えられる性格だった。
「いや……それにしてもさ」
伸晃は笑いを堪えながら言った。
「ん?」
「初夜キャンセルした嫁さんに、片足上げさせられてアソコ確認された後、金玉手玉に取られるってどんな気持ち?」
「言うな俺も気にしてるんだ! 思い出させるな!」
「ヤベェんだけど思い出すだけで腹いてぇわ」
伸晃は布張りの豪奢なソファの上で腹を抱えてのたうち回った。
エーリッヒは必死で笑いを堪えた。口元が痙攣しかけ、慌てて捲し立てる。
「何が手玉だ! うまいこと言ったつもりか、このど阿呆が!」
「ひー腹いてぇ! エーリッヒも笑ってるじゃねぇかよ!」
「そんな下品なこと言われて笑う俺だと思うなよ!」
「めっちゃくちゃタマタマにぎにぎされてたじゃん」
「黙れ!」
あれは驚いた。
とにかく驚いたが、でも悪い人ではないと思った。
動物思いの人である。
確かにそうだ、飼い犬は痛いとか辛いとか言わない……いや、言えないのだ。
エーリッヒは馬を大切にしているが、いつも歩様や食欲、目や耳の様子などとにかく気にしていた。だからわかる、彼女が言っていることは正しい。
「嫁さんに撞球してもらおう。あの人が球持ってるの見たら俺笑いすぎて倒れるわ。あ、お手玉とか持ってもらっても思い出し笑いで死ぬ」
「あの女は撞球室入室禁止だ!」
結局、エーリッヒも笑いが止まらなくなった。
こんな下品なことで笑ったのは初めてかもしれない。
やがて、笑いの地獄から戻ってきた伸晃が目尻の涙を拭いながら言った。
「でもさ、あれだよな。全然怖がらなかったな」
「ああ」
エーリッヒは西洋人だ。その身長、容貌ともにこの国ではあまりに目立ちすぎる。
よって、伸晃と一緒に狼の姿で、飼い犬のふりをして外を歩くことも多い。
大抵の人間は、首輪をして縄に繋がれ、大人しく歩くエーリッヒを見て怖がった。
精悍で大柄なその姿は、歩いているだけで「怖い」とか「噛まれそう」とか言われてしまうのである。
それでも西洋人を見る好奇心丸出しな視線よりは遥かに不快指数は低かったし、財閥令息の護衛としてはうってつけだったので、怯えられながらも狼姿でよく散歩をしていた。
「かわいいとか綺麗とか、初めて言われたな……」
「でも目ん玉ビー玉みたいって言われてたな」
「ビー玉じゃない! ラムネの瓶だ!」
「ほとんど一緒だろが!」
また、ふたりして笑いが止まらなくなった。
彼女は完璧だった。
身体を低くしておいでと呼んでくれた。
体高が低いので、二足歩行で歩いている人に上から見下ろされると結構怖いものがある。それを彼女はわかってくれた。
いきなり触らずに、手をそっと差し伸べてくれた。犬だったら匂いを嗅いで様子を伺うだろう。この人は味方なのだろうか、と。
そして、いきなり頭を触るのではなく、下から手を伸ばして首筋を撫でてくれた。
母も怖がって一度も触れてくれなかったのに。
あんなふうに抱きしめられたのも、頬擦りをされたのも初めてだ。
夜間、正気を取り戻してからも、いつも、母からは無視されたり、棒で打たれたり……そんなことばかりだったのに。
撫でる手つきも優しかった。とても気持ちがよかった。
絆されてしまいそうになった。
でも、昨夜寝室であんな酷いことを言ってしまったエーリッヒは引っ込みがつかなくなっていた。
彼女には、悪い女でいてもらわないと困ってしまう。
どうしていいのか、わからなくなってしまう。
葛木夫妻が言っていた娘。もしや次女の方だったのだろうか。しかし、彼女とは接点がない。殺しに来られるわけもない。
「で、夕飯こそ一緒に食べるんか?」
「嫌だ。あれは俺を殺そうとしてるんだぞ」
エーリッヒは自分に言い聞かせるように言った。
「実際、エーリッヒは死なないからそんな心配なこともないし、あの子がそんな人にはどう頑張っても見えないんだけど……俺、見る目ないんか?」
「動物にやさしい殺人鬼だっているだろう。猫かぶってるだけかもしれない。昨日の今日だぞ?」
一瞬、沈黙が走った。
エーリッヒは話題を変えることにした。
「ところで、昼、一緒だったんだろ? どうだった?」
「すごく好奇心旺盛で思慮深い子だなとは思ったよ。仕事のこと知りたがってた」
「たとえば?」
「そうだな『伯爵さまや伸晃さんの卸してる機械って、どんな機械なんですか?』って結構細かいところまで聞いてきたな」
エーリッヒがドイツから仕入れている機械は、多岐にわたる。
たとえば、歯車を作る機械や、パイプとパイプの繋ぎ目を作る機械。部品を作るための金型を作る機械や、砲弾を作ることができて、武器製造に欠かせないものもあれば、それこそ機械の構成部品を作る「機械を作るための機械」もある。
いわゆる、工作機械と呼ばれるものが大半を占める。
「そうか」
「得意先はありますか? 有名なところは? とか」
「なんて答えた?」
「その辺の工場もあれば、官営の製鉄所もあるって答えた。軍の基地にも入れてるしって」
「……そうか」
「あんまり話さない方が良かった?」
「いいや、問題ない」
もうしばらく様子を見なければ。
エーリッヒは、手元のコーヒーを口に運んだ。
冷め切ったそれは、突き刺すような嫌な酸味を感じるひどく不味いものに感じられた。




