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人狼の花嫁〜薄幸の犬好き令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第8話 青い目の飼い犬、エリック

 エーリッヒは書斎に家令を呼び出していた。

 この家の家令は山川四郎という男だ。妻は女中頭の恵子である。


「……あの女は、散歩中か?」

「ええ、我が妻の案内で屋敷を見て回った後、最初は厩舎を見ておられました。どうも馬がお好きなようです。その後は庭を散策なさっております」

「恵子はなんと?」

「なかなかああ見えて聡い女性と評価しております。恐れながら申し上げますが、もう少し気にかけて差し上げてはいかがかと申しておりました」

「……わかった、考えておこう。下がれ。何かあったらすぐ知らせろ」


 エーリッヒは和装の襟元を直して腕を組んだ。


 四郎は、「失礼いたします」と退室した。


 彼は二階の窓から新妻である綾子を吟味するように庭を見下ろしていた。

 まだ真冬だ。寒いだろう。

 和服に、外出用の道行を羽織っている。別に敷地内だ。綿入れを羽織って庭に出ても何も言うつもりもないし、咎める者もいないだろう。


(真面目な女なのか……何かの演技か……)


「四郎と恵子さんがあそこまで言うってなかなかじゃねぇか?」


 伸晃のぶてるが諭すように言った。ふたりは朝一番の仕事を片付けたばかりだった。


「そうだな……。偵察に行くか……」


 エーリッヒは帯に手をかけると着物も襦袢も脱ぎ捨て、最後に下履きも脱ぎ捨てて全裸になった。


「連日友達の裸見てる俺って何?」

「うるさいな、後からついて来い」


 呆れ返った声の伸晃にやや乱暴に言い付けたエーリッヒは、すでに四つ足の狼の姿だった。

 彼は一目散に扉に向かうと前脚で器用にそれを開け、廊下を進んで階段を駆け降りた。


***


「あら……あなた、どうしたの?」


 綾子が日のあたって気持ちのいい和室の縁側に腰掛けて美しい日本庭園を眺めていると、一頭の犬がひょっこり姿を表した。


(野良犬? にしては毛艶がいいし、立派ね……)


 精悍な顔つきをしていた。眼光鋭く、漆黒の毛は長毛ではないがふさふさで、陽光を浴びて艶々にきらめいている。


 愛玩犬のように短い鼻ではない。口元はきりりと引き締まり、耳も三角に尖っている。

 尻尾は和犬のように巻いておらず垂れ尾。

 体格も立派だ。なんて大きい犬なのだろう。

 

 その姿は、まるで話に聞く狼そのままである。


 頭を低くして、警戒心丸出しで綾子の様子を伺いながらそろそろと近づいてくる。

 その犬は目が合うと、足をはた、と止めた。


「ここで飼われているの? それにしては警戒してるわね……おいで、大丈夫よ」


 呼びかけても、犬はそれ以上近づいてくるそぶりを見せない。

 綾子は腰を上げた。膝が痛むのも気にせず、玉砂利の上に膝をつく。


「大丈夫よ……! おいで(コム・ヘア)、かわいい子」


 ドイツ語で「おいで」と声をかければ、小走りで走ってきた。

 近くに寄ってきたその犬は、綺麗な青い目をしていた。


「わかったわ、あなた伯爵さまの飼い犬なのね?」


 警戒心が強そうだ。しかし、とても賢そう。

 あまり見たことのない姿の犬である。

 綾子が手を差し伸べると、すんすんと匂いを嗅いだ。それから、縁側に飛び乗って、足を投げ出して横になった。


「あら、お気に入りの場所だったのかしら? お隣、失礼するわね」


 その犬は全く吠えなかった。


「かわいいわね。それに姿が美しいわ、なんて格好いいの」


 そっと手を差し伸べた。首を撫でるが、嫌がるそぶりは見せない。

 背中を撫でても、耳を触っても鼻筋から額の短い毛を撫でても嫌がるそぶりはなく、気持ちよさそうに目を閉じた。

 もう警戒はしていないようだ。


「前脚失礼するわ……あら、嫌がらないのね。後ろ脚も……平気なのね。お利口さんね」

「そいつは、ここの番犬だよ。エーリッヒの愛犬」

「あら、ごきげんよう、伸晃のぶてるさん」

「おはよう……って言っても、もう昼前か」


 現れたのは洋装姿の伸晃だった。


「この子、美しい子ですね……ラムネの瓶みたいな綺麗な青い目……賢くて……伯爵さまの躾が行き届いているんでしょうね」


 爪も短く切られている。後ろ脚を掴んでむんずと上げてみた。それでも嫌がらない。


「あなた、男の子なのね? 名前が知りたいわ」


 綾子は伸晃を見上げた。


「ええっと、名前は……」

「名前は?」

「……エリック」


 エリックは牙を見せて伸晃を見上げ、ううっと小さく唸った。


(伸晃さんはあまり好かれてないようね)


 綾子はエリックの気を引こうと、顔を両手で包んでわしゃわしゃと撫でた。 


「あら、あなたエリックっていうの? 歳もまだ若そうね。こんなに真っ黒で白い毛がないわね。まつ毛もびっしり。三歳くらいかしら?」

「うん、そう……確かそのくらいだったかな?」

「身体も本当に立派ね……」


 綾子は、嫌がるそぶりのないエリックの身体を隅々まで調べた。


「鼻も濡れているし、耳の中も歯も綺麗ね。爪は短いし、肉球もちょっと荒れてるけど綺麗ね。肋骨も腰の骨も……出ていないわね。あら、あなた筋肉質で立派ねぇ。尻尾もふさふさ。ああ、ここは?」


 そこを触った時、少しびくっと身体が跳ねた。尾の付け根の雄の象徴。毛皮に包まれた球体は、左右同じ大きさだ。違和感はない。


「大丈夫そうね、あらごめんなさいびっくりした? 昔飼ってた猟犬、片方だけ腫れて死んでしまったことがあったのよね……さすが伯爵さまの愛犬ね、あなた素晴らしいわエリック。あら、伸晃さん、どうかしました?」

「……いや、すんげぇとこ触ってんなって」

「動物は痛いとか辛いとか言わないから、人が気づいてあげないといけないんです。毎日こうして触れ合わないと」


 身体中、どこでも触らせてくれるとてもいい子だ。

 彼はのそりと起き上がって、縁側の上におすわりをした。


「賢くていい子ね。なんてかわいいの」


 綾子は抱きついて頬擦りをした。少しびっくりしたようにエリックが綾子を覗き込んできたので、耳の後ろをかいてやった。気持ちよさそうに目を閉じて、口を開け口角を上げる。


 ここにきて、初めて尾が揺れた。


 しばらく伸晃と雑談しながらエリックと触れ合っていると、女中が昼食の時間だと呼びにきた。

 綾子が立ち上がると、エリックは小走りで庭園を抜け、厩舎の方へと走って行ってしまった。


「残念ね。ご褒美におやつか何かあげようと思ったのに」


 綾子はエリックを名残惜しげに見送った。

 洋館に戻ったら、何かおやつをあげようと思っていたのに、飛んでいってしまった。 


「ひとまず、ランチでもどう? そのうち屋敷に戻ってくるかもしれない。ご一緒しても?」

「ええ、もちろん。伯爵さまのお仕事、お聞かせくださいな」


 綾子は伸晃の半歩後ろをゆっくりとついていった。

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