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人狼の花嫁〜薄幸の犬好き令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第5話 花嫁、稀代の悪女につき

「伯爵、死にませんでしたわね。まったく、あの子ったら」


 時は遡り、婚儀の直前。

 親族の控室の前にて、エーリッヒははた、と足を止めた。

 確かこの声は葛木久美子。

 綾子の父親である葛木家当主の後妻だ。綾子との血のつながりはないと聞いている。


「ああ、今までの婚約者のように簡単に死ぬと思ったが……まあいい」


 低い男性の声。これは綾子の父親、清の声だ。

 なにやら夫婦で話をしているらしい。エーリッヒは耳をそばだてた。


「どうなさるのですか?」

「うちの娘なら、うまくやるはずだ。本人もあのドイツ人には絶対に死んでもらうと言っていたしな。糧にして我が家の繁栄の礎になってもらおう」


 ふ、と笑いが漏れた。

 あのドイツ人。つまり、エーリッヒのことである。


「残念だったな、俺は耳がいいんだ」


 エーリッヒは何食わぬ顔で扉を叩いて部屋へ入り、新郎としてにこやかに挨拶を交わした。


***


 エーリッヒは寝台でへたり込む綾子を捨て置き彼女の部屋を出た後、無言で廊下を進んだ。

 らしくもなく、動揺してしまった。


 あんなふうに痛ましげに顔を歪めて涙をこぼすとは思ってもいなかった。


「くそ……あの女は……」


(俺を、殺そうとしたんだぞ)


 だが、残念だがエーリッヒはそう簡単に死ねない身体だ。

 あれは六歳か七歳くらいの頃だっただろうか。

 実の母親に疎まれつづけ、ついには化け物と罵られ、将来を悲観したエーリッヒは屋敷にあった小刀で首を自ら切り付けた。


 血が噴き出た。痛みに絶叫した。

 しかし、傷はたちどころに塞がった。


 そう、死ねないのである。

 傷はたちどころに塞がるし、致死性の病もたちどころに治ると伝え聞く。


 血の海の中、傷ひとつなくぽつりとへたり込んだエーリッヒを見て、フランス貴族で蝶よ花よと育てられた母親は叫び声を上げ、ついに倒れた。


 それから母は心身の調子を崩した。


 全部、自分のせいだ。

 この呪いはオイレンブルクの嫡男に受け継がれるものだ。黙っていて申し訳なかったとは思っているが、自分を殺そうと思っていたのならばおあいこどころか釣りをもらわねばならないとすら思う。


 歩みをゆるめたエーリッヒは、撞球ビリヤード室に足をすすめ、無言で扉を開ける。


「おかえり、花婿殿。花嫁ほっぽらかして、俺と初夜を過ごすつもり?」

「……そんなわけあるか馬鹿野郎が」


 そこには、仕事の片腕であり親友の大山伸晃(のぶてる)がいた。

 エーリッヒはちらりと壁にかけられた時計を確認した。まだ、零時まで一時間ほど猶予がある。

 伸晃がエーリッヒに問いかけた。


「ナインボールでいい?」

「ああ、ブレイクは譲る」


 エーリッヒは伸晃に先攻を譲ると申し出てサイドテーブルに腰掛けると、江戸切子のグラスに洋酒ウイスキーを注いで、一口含む。

 サイドテーブルには、ボトルとグラスの他には例の葛木家の家宝があった。

 古めかしい桐の箱である。


 これは毒になるのか薬になるのか……もう一口、グラスを口へ運ぶ。酒は英国エゲレスからの直輸入品。スモーキーな樽の素晴らしい香りが広がる。


(今夜は飲み過ぎだな……)


 だが、飲まないとやっていられない日もある。


「で、花嫁さんはなんだって? 尻尾出したか?」

「いや……、全くだ」


 エーリッヒは先ほどの寝室でのことを一部濁して伸晃に話して伝えた。 


「そっか、でもなぁやっぱり俺の目にはそんなに悪い子に見えないんだけど……お前を否定したかねぇが、何かの間違いじゃねぇか? あの屋敷はおかしな雰囲気だったけど、あの子自身からはどちらかというと清涼な気配がするんだよな」

「そうか……」

「あ、でもなんか……今は変な感じするかも? ん? 気のせいか?」


 伸晃はカーテンを開けて外をチラリと覗き、それからまた戻ってきた。


 公にしてはいないが、大山家は陰陽師の末裔である。

 伸晃自身には悪いものを祓う力はないが、生まれつきのカンの鋭さはあるし、あやかしなどの気配を感じ取ることもできる。

 

 伸晃は三男だが、ふたりいる兄とは母親が違う。

 大山家現当主がフランス人の後妻との間にもうけた息子、それが伸晃である。


 エーリッヒの母親もフランス人。巴里パリの出身で、エーリッヒの母の話し相手になってほしいと伸晃の母親が屋敷に呼ばれ、息子同士はそこで仲良くなった。

 

 無二の親友であり、現在はビジネスパートナー。

 公私ともになくてはならない存在で、伸晃は仕事の関係で一年のほとんどをエーリッヒの屋敷に滞在しており、今日もこの通りで我が物顔で撞球ビリヤードに興じている。


 と、言うよりも。

 今日くらいは邪魔だろうと実家に帰ろうとした彼を無理やり引き留め、ことの次第を話したのはエーリッヒだ。

 伸晃は「ええ? じゃあわざと女中の格好してエーリッヒをはめたってこと?」と帰りの自動車で驚愕していた。


 エーリッヒとて未だににわかには信じ難いのだ。

 でも、あの一家がエーリッヒから金だけむしりとり、家宝も無事に家に戻ってくるという驚きの構想を描いていたことは間違いないのである。


 伸晃がラックを組み終えた。菱形に、一番から九番までの球を並べたのだ。

 続いて、黄色い一番の的球に照準を合わせ、手球をキューで狙う。


 この後、ブレイクで的球はバラバラになる。そのうち、一番小さい数字の的球を手球で狙って突いていく。一番小さい数字に、最初に手球が当たらなければファウル。

 最初に小さい数字の的球に当たりさえすれば、どの的球がポケットされてもプレーは続く。


 伸晃のブレイクが見事に決まった。カンカンっと小気味よい音と共に的球が散り、九番の球がポケットに吸い込まれる。


「おい!」

「一ポイント先取! あはは! ごめんな!」


 ナインボールは、九番の球がポケットに落ちれば一点だ。

 見事なブレイクイン。


 エーリッヒは再度洋酒(ウイスキー)を口に含んで腰を上げた。彼は立てかけてあったキューを手に取る。


「綾子さんのこと、実際はどうなのか探ってみた方がいいんじゃないか?」

「……どうだかな」


 あの涙は本物なのだろうか。

 もしも本物だったら、己は最低の夫になる。

 いいや、あれは俺を殺そうとした。そうだ、殺そうとしたんだ。


 そう思い込もうとしたが、胸が何だかつきりと痛んだ。


 凛とした、可憐な花のような愛らしい娘だ。

 清楚で初々しい新妻そのもので、しおらしく頭を下げるその姿にらしくもなく胸が高鳴ってしまった。


 籠絡されるわけにはいかないと己を叱咤し部屋を出てきたが……。


(何度見ても夢に出てきたあの令嬢、そのものだな……)


 日本人としては背が高く、あの身長だと日本で嫁ぎ先を探すのは苦労したに違いない。日本では規格外に長身なエーリッヒとちょうど釣り合うくらい。

 飛び抜けた美女ではないが、かわいらしくも賢そうな容貌。


(いいや、あれは悪女だ……)


 そうだ、そうに違いない。

 左手にブリッジを組んで、キューを構えた。ブレイクショット。

 しかし、ブレイクインは決まらなかった。

 伸晃が立ち上がる。


「え、ここから一番狙うのきっついんだけど……」

「頑張れ」


 エーリッヒはグラスを口に運んだ。

 酒精が喉を焼く。


 ゲームは続き、同点で決着のつかないまま時間は零時五分前。


「どう?」


 キューを立てかけた伸晃が、気遣うようにエーリッヒを見つめてきた。

 

「だめかもしれない」

「やっぱりこれあってもだめ?」


 伸晃は桐の箱に入った例の家宝を見遣った。


「だめな気がする」


 カチカチと秒針の動く音がやけに大きく響いた。気づけばもう、零時一分前。

 エーリッヒは懐の革の小袋に入ったお守りをサイドテーブルに置いて、帯に手をかけ、それを慣れた手つきで解いて、迷いなく着物を脱いでゆく。


 やがて、彼は一糸纏わぬ姿でそこに立っていた。

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