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人狼の花嫁〜薄幸の犬好き令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第4話 初夜とも呼べぬ夜

 婚儀は終わってしまった。


 自動車の窓から外を見れば、いつの間にか凍てつく空から白いものがはらはらと舞い落ちていた。

 ガス燈の灯りに照らされたそれは息を呑むほど幻想的な光景だ。


 思い起こせば、エーリッヒと出会ったのは秋口であった。もう真冬になってしまったか。


 そう、初めの出会いは応接室だった。それから、犬舎の前に彼は現れた。


 婚礼、そして披露宴の後……エーリッヒの屋敷に向かう自動車に乗り込んだ綾子は出会ったあの日を懐かしんでいた。


 エーリッヒは別の自動車に乗っていた。エーリッヒは親友であり、ビジネスパートナーである男、伸晃と一緒だ。

 

 今、自動車の後部座席は綾子ひとりであった。


 あの日、突然犬舎の前に現れた彼は、威嚇して吠える犬を見事になだめて檻から出して手懐けて見せた。

 そうしてすぐに言い当てたのだ。「君がこの家の長女だろう?」と。


 何度聞いても違和感のない、流暢な日本語だった。たいていの日本人男性よりも背が高い綾子が見上げるほど背が高く、白皙の美貌と言ってもいいほどの容姿と艶のある声に綾子は一瞬聞き惚れそうになり、しかし、同時に警戒心を抱く。


 だが。

 それから彼はとても饒舌だった。「君は女中として扱われているんだろう。婚期を逃したか何かで。これは俺の予想だが。どうだ、違うか?」そう、彼に全てを言い当てられた綾子は言葉を失った。


(なんで全部ご存知なの……?)


 彼は、綾子が今まで知る誰よりも鋭い男だ。


「俺でよければ、手助けをしてやろう。実のところ、君の家の家宝が欲しいんだ。それから、身分の高い日本人の妻が。 もしよければ……、他にあてがないのなら……嫁に来ないか? 」


 そして。

 彼の手を取った。

 それが、この結婚のことの顛末だ。

 互いの利害優先の結婚である。


 自動車に揺られながら、綾子はかたわらの座面にある桐の箱に視線を落とした。古い札が貼られ、毛筆で「大神さま」と書き付けられている。


 父は最後まで、これをエーリッヒに譲ることに難色を示していた。「結納金ももらったし、今までの男と同じく死んでしまえば都合よく帰ってくるんだがなぁ」そう言われ、綾子は珍しく父親に反抗し、怒りを露わにした。


 結果はお粗末なものであった。寒空の元玄関の柱にくくりつけられ、竹刀で何度も背を打たれたのだ。


 未だ背は強く押すと痛むし、鏡で見るといくつもあざが残っている。今夜、夫婦の床でこれを気取られるわけにはいかない。


「お守りください……」


 綾子は桐の箱に手を伸ばした。この中には、先祖が崇めていたという狼の骨があるらしい。

 父は事業がうまくいかず、先代当主の祖父が亡くなってからは怪しげな「お狐さま」に傾倒し、今や先祖の墓参りや神社への参拝すらもしない。

 もちろん、神棚なんて榊が枯れたまま捨て置かれていた。


 きっとこの方がいい。

 表向きに家宝とは言いつつも、この桐箱は祖父が亡くなって以来、ずっと埃をかぶっていたらしい。神棚に綾子が安置する前には、なんと蔵にあった。


 奥に押し込められていたのを綾子が見つけ出したのだ。

 父は一眼見て「時代遅れの神だ、捨て置け」と言った。絶対に開けてはならないらしく、綾子は中を見たことがない。

 父の言いなりにするのも気が引けた綾子はこれをこっそりと神棚に移した。


 きっと、本当に欲している彼、エーリッヒの方が大切にしてくれるはずだ。

 婚礼の折の彼の冷たい視線を思い出して胸がつきりと痛んだが、きっとわかってくれるはず。


 一縷の望みを抱いて、綾子は揺れる自動車の中ではらはらと舞い落ちる雪を窓から見つめた。


***


「お支度は以上です。ご主人さまのおなりをお待ちくださいませ。奥さま」


(奥さま……か)


 この家の女中である恵子に言われて、綾子は声も出せぬままゆっくりと頷くと、彼女は頭を下げて退室していった。


 彼女、恵子はオイレンブルク家の女中頭。

 恵子は湯浴みの手伝いをした後に、肌触りのいい洋装の寝巻きを着せてくれた。


 鎖骨の下にある大きな黒いあざを見ても彼女は目の色ひとつ変えなかった。背中の打ち身も気づいているだろう。さすがというべきほどに行き届いた教育である。

 彼女の姿を見送って、綾子は糸が切れたように寝台ベッドに腰を下ろした。


 これから、夫となったエーリッヒがここに来る。今宵は初夜だ。これから何があるかも綾子にはわかりきっている。


(きちんとお仕えしなければ……)


 離縁でもされれば、窓もない納戸での毎日に逆戻りである。

 いや、納戸での暮らしはまあ悪くなかった。問題は家族たちだ。腹違いの妹である正子に倉庫に閉じ込められたり、継母に雨の中庭掃除をさせられ寝込んだり……。


 もう絶対に戻りたくない。 


 あの屋敷での味方は、料理番コックである伊藤と飼い犬たちだけだった。

 伊藤はいつも隠れて綾子に美味しいものを食べさせてくれたり気にかけてくれた。


 犬たちは老犬が多いが、去年やってきたエスは今までのどの犬よりも綾子になついてくれた。


 彼らのことだけが少々心残りである。

 エスは、きちんと可愛がってもらえるだろうか。


 綾子は息を吐いて寝台の上に正座した。

 今日からここが綾子の部屋になるらしい。

 箪笥や机などが備えられた洋室の二間。片方が寝室になっており、女学生の頃に使っていた部屋よりはるかに大きい。


 オイレンブルク家にはダンスホウルや撞球ビリヤード室、居住空間も備えた厳かな洋館と、渡り廊下でつながった茶室などの和室を備えた和館、使用人の宿舎を備えた別棟、それからさらに別棟である商会で働く面々の宿舎があると聞く。

 迷ってしまいそうなほどの豪邸である。


「入るぞ」

「……っ! はい!」


 綾子は慌てて返事をした。

 その艶のある低音は、夫エーリッヒの声である。


 扉がやや乱雑に開けられる。そこには、和装のエーリッヒがいた。

 驚いた。まさか縞紬の着流し姿で現れるとは思わなかった。


 言葉を失い、綾子は目を丸くした。

 黒髪ゆえだろうか。エーリッヒの和装姿は予想外に似合っていた。

 美しい着こなしだ。

 日本人でなくとも、これほど和装が似合う人がいるのだ。


「旦那さま、不束者でございますが、可愛がってくださいませ……」


 呆けていた綾子であったが、弾かれたように寝台の上でぬかずいて、新妻としての口上を述べた。


 震える声を押さえつけてそう述べた。

 言葉が返ってこない。なんだろう、と頭を上げかけた時だ。


「残念だったな」


 エーリッヒは笑った。


「俺が婚約期間中に死なずに肩を落としているかと思えば、そうでもないようだ」


 綾子は言葉を失った。


「今までの婚約者がふたりとも死んでいるのは知っていたが……母親も妹も立て続けに死んでいるらしいな? どうせ俺も死ぬと思っていたか? 金が目当てか?」


 そこにあったのは不機嫌極まりない白皙の美貌だ。

  

「え?」


 出たのは、馬鹿らしいほど間の抜けた声だった。


「あの時女中の真似事をしていたのもおれの同情を買うためか? さぞかし楽しかっただろうな」


 予想だにしない言葉に、言葉を失う。

 もしかして、彼が急に冷たくなったのもこれが原因か? もしや父が、何かいらぬことを言ったのだろうか。


 エーリッヒが婚約期間中に死ぬのを望んでいたのは、綾子の父親である清である。


「いえ、いえ……旦那さま、何か誤解が……お願いです。弁明の時間を……」

「まさか。そんなもの許可してたまるかよ。おれを籠絡したつもりだったか?」

「そんなことはございません……!」


 籠絡だなんて、思ったことがない。

 こんな、女性に困ったことなどなさそうな人に言われるとは思っていなかった。


 このままだと、まずい。

 互いの利害で成立した婚姻関係とはいえ、今夜は初夜だ。義務を果たさねばならない。


「お願いです、旦那さま。わたしに妻としての務めを果たさせてくださいませ」


 恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

 縁談が破談になった後は、家令や下男など葛木家の使用人以外の男性とはほとんど話したこともない。それなのに、こんなことを言うことになるなんて。

 ちら、と彼の様子を伺えば、エーリッヒは綾子を鼻で笑って見下ろした。


 心の中で絶望が広がった。父は、彼に何を言ったのだろう。なんてことをしてくれたんだ。綾子は再び頭を垂れた。


「不本意だが、婚儀を挙げた手前、対外的には妻として扱ってやってやろう」


 彼はゆっくりと綾子の方に歩み寄ってきたようだった。

 肩を掴まれて、続いて顎を掴まれて上を向かされる。

 じわりと涙が溢れた。エーリッヒの美しいかんばせが歪んで見える。


「何か言ったらどうだ? 人形みたいな女だな?」

「旦那さま……お願いです、戻りたくないんです。ここに置いてください」


 冷たく青い瞳が綾子を見下ろしていた。

 ここに置いてほしい。もうあそこには戻りたくない。できることならなんでもする。


 この西洋紳士は、綾子を竹刀でぶったり水をかけて嘲笑したり、雨の中外に放り出したり、そんなことはしないはず。

 なぜか、綾子はそれを確信していた。

 初めて見た時から、なぜか心惹かれていた。

 共通点など何もないのに、何か親近感を抱いたのだ。


 きっと、うまくやっていけると思っていたのに。


 かつての婚約者が立て続けに亡くなったのも、母と妹が亡くなったのも本当だ。確かに騙していたようなものかもしれないが、でも、彼に死んでほしいなどと思ったことは一度もない。弁明しようとしたが、唇がわななく。うまく言葉が紡げなかった。 


 ぽろりと涙がこぼれ落ちた。その涙を見たエーリッヒは目に見えてうろたえた。


「旦那さまなんて二度と呼ぶな。虫唾が走る。置いてやるのはいいが、絶対に抱いてたまるもんか。子は望んでいないしな!」


 それだけ吐き捨てるように言うと、彼は踵を返して扉から出ていった。

 涙が目尻からとめどなくこぼれ落ちる。シーツを濡らすそれは、窓の外で降りしきる雪のようであった。


 綾子は無言のまま、彼の出ていった扉を泣きながら眺め続けていた。

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