第16話 伯爵の謝罪とびしょ濡れの黒犬
エーリッヒの手が、綾子の手を掴んだ。
手のひらが硬くて、そういえば剣道好きな亡き祖父の手にそっくりだ。
名を呼ばれたのはいつぶりだろうか。綾子は見事にうろたえた。
「僭越ながら伯爵さま。今夜は夜会でございますし、お風邪を召すわけにはまいりません……先に、お湯を……」
言葉は尻すぼみになった。夫にこんなことを進言するなど、本当はあってはならない。そう綾子は思っていた。
「心配してくれてありがとう。だが先に君に謝罪させてほしい、すまなかった」
彼はその場に膝をついて頭を下げた。
「頭をお上げくださいっ!」
「君を蔑ろにし続けた。許してほしい」
綾子は唖然とした。
彼女は典型的な家長制度の元で育ったので、男が女に頭を下げるなどあるはずのないことだと刷り込まれていた。
しかも、夫が妻に頭を下げるなんて、何かの間違いに違いない。
「昨日もそうだ、書庫であんなことを……申し訳なかった。しかも今夜は夜会だというのに……その準備もせずノブに全部押し付けて」
綾子は完璧に混乱した。
(今夜の夜会のことを心配していらっしゃるの?)
そして、完璧に誤解した。
「お気になさらないでください。夜会では完璧な妻を演じてみせます。頭をお上げください」
「夜会?」
エーリッヒは怪訝な声を出し頭を上げた。
「来賓の方をあらかじめ伸晃さんに教わったので、予習もしておりますわ。伯爵さまが恥をかくことなどないように……今夜は旦那さまとお呼びすることをお許しください」
「元より今夜のことは心配していない。今夜に限らず、好きに呼んでくれ。いや、それにしても君、何か勘違いを……」
「早くお立ちになってください、大丈夫です、今のは……見なかったことにいたしますわ。日本では女に頭なんて下げてはだめです! 失礼いたします!」
綾子は走った。
洋館に向かって走って、そして速度を緩めた。
心臓が飛び出しそうだった。「心配してくれてありがとう」とエーリッヒは言った。彼は夫だ。綾子の所有者だ。
礼なんて、言う必要なんてないのに。
なんと真面目で義理堅い人なのだろうか。
綾子はあんな殿方なんて知らなかった。
伸晃もそうだ。彼も礼儀正しく、綾子を女ではなく人として対等に扱ってくれる。
彼女はとぼとぼ歩き始めた。
(エリックを探しに来たはずだったのに……)
昨晩のことが気になって、早くに目覚めてしまった綾子はエリックが庭にいないかと見に行ったのだ。
出会った日のように。
まさか、エーリッヒがいるとは思わなかった。
息を整えながら玄関に戻れば、女中頭の恵子がいた。
「おはようございます奥さま、こんなに朝早くにお散歩でございますか?」
「おはようございます。え、ええ……あの、伯爵さまが、水をかぶってずぶ濡れに……お風呂の準備をしていただけますか?」
「あら、またですか……あの方、悩み事があると極限まで運動して最後頭から水かぶるのです、真冬でも。大丈夫ですよ、頑丈なので風邪なんてひきませんから。まあ、でも一応用意はいたしますかねぇ……」
「悩み事……」
「仕事がうまくいかなかった時や伸晃さまと喧嘩した時……あら?」
恵子が綾子の背後を見ていたので、綾子は後ろを振り向いた。
「エリック!」
そこには綾子に向かって一目散に走ってくるエリックがいた。綾子は輝くほどの笑顔を浮かべて、膝をついて彼を迎えた。
いつものように手を伸ばす。黒い被毛が濡れて、ツンツンに逆立っていた。
頭が一番濡れている。背や下半身はそうでもない。なんとも不思議な濡れ方だった。
「あら? あなたびしょびしょね? 水遊びでもしたの? 池に落ちた……感じでもないわね。鯉と遊んだの? それとも飼い主に似て水浴びが好きなの?」
後ろの恵子が咳払いをした。
「恵子さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ。失礼いたしましたわ」
綾子が恵子を心配して背後を振り向いた時。
エリックがブシュンっと盛大にくしゃみをした。そのまま彼はぶるぶると身体を震わせて水をはね飛ばした。
「あらあらエリック、おいでなさい。拭いてあげるわ。一緒に暖炉の前で暖まりましょう」
「奥さま、温かいお飲み物をお持ちいたしますね。ああ、井上さん、ちょっと桶にお湯を汲んできてくださる? エリックの足を洗うので。タオルもよろしくお願いしますね」
恵子はすぐそばを通りがかった下男の井上を呼び止めた。
「ありがとう、恵子さん、井上さん」
綾子はエリックの足の裏を確認した。特段汚れてはないようだが、井上が持ってきてくれたぬるま湯で洗って拭いてやる。
エリックは始終大人しく綾子についてきた。
綾子は、エリックを暖炉の前に誘った。
「エーリッヒさま、剣道がお好きなようね……あなたが礼儀正しいのも理解できるわ。武道を嗜んでいる方なら、きっと躾には厳しいはずだもの」
エリックのびしょ濡れの頭をタオルで包んでごしごし拭いた。
「あなた本当に毛深いわね……ドイツって寒いのかしら?」
それからも、綾子はひたすらエリックに話しかけた。「昨日はびっくりさせたわね。ごめんね」とか、「さっきは伯爵さまに変なことを言ってしまったわ……」とかである。
「いきなりあんな、頭を下げるだなんて。びっくりしたの……あんなの、どうしていいかわからなくなってしまって。だって……わたしはあの家から出たいから伯爵さまの手を取ったみたいなものよ。正直……格好いい人だと思ったけど、大切にしてもらう義理なんてないの。遠くから見てるだけで満足なの、だってあんなに見目麗しい方なんだもの……」
綾子がなんの気なしに右の手のひらを差し出すと、エリックは前脚を乗せてきた。その前脚をキュッと握って、左手を重ねた。
「なんだか申し訳ないわ。わたし、ここにいていいのかしら……? お掃除とか何かした方がいいのかしら?」
エリックを見ると、ソーダのような薄青の瞳がじっと綾子を見ていた。
ここにいていいんだと言われているような気がした。
綾子はぎゅっとエリックの首に抱きついた。視界の端で尻尾が揺れていた。
目を閉じる。乾いたエリックはお日さまのような匂いがするが、濡れていると清涼な森のような匂いがした。
「不思議ね、濡れた犬って放置した雑巾みたいな匂いがするのに……犬臭くないわ」
その後、綾子はエリックの身体中を嗅いでみた。足の裏はエスと同じ香ばしくて癖になる匂いだったが、エリックはなんだか居心地悪そうに左前脚を上げて、最終的にそろそろと逃げた。困ったように目を逸らして白目を見せて、鼻をピーピー鳴らし、耳は後ろに倒している。
「ごめんね、嫌だったかしら……それにしてもいい匂いね、石鹸みたいな匂いもするわ」
綾子が首を傾げていると、扉が叩かれた。
「奥さま、アンネです。ホットミルクをお持ちしました」
「あら、ありがとう。入って!」
綾子にはマグカップ。そしてエリックには浅めのスープ皿。
暖炉の前で、お盆を絨毯の上に置いて行儀が悪いのは承知で向かい合って飲んだ。
綾子は帰ろうとするアンネを引き止めた。仕事も忙しくないらしい。彼女は「喜んで」と言った。
「温まるわねエリック」
ぺちゃぺちゃ舐めながら、エリックはどこか嫌そうにチラチラとアンネを見ていた。
早くどこかに行け、とでも言っているようだ。
それにしても、エリックは随分とお上品にホットミルクを飲んでいる。普通、犬はそこら辺に跳ね飛ばしてびしゃびしゃにするというのに……。
「奥さま、エリック、好きですか?」
「大好きよ。あなたもわたしのこと好きよね? エリック」
エリックは鼻についたホットミルクを舐めながら視線も合わせず尻尾をゆるゆると振った。
「あら、お返事してくれたの? かわいい子」
綾子の食事の時間まで、エリックは部屋の暖炉の前でうとうとしていた。
今夜、エーリッヒにどんな顔をして会えばいいかわからなかったが、なんとかなりそうな気がする綾子であった。
エリックがあまりにかわいいので、綾子はとにかく幸せだった。
その後、食堂の準備ができたというので、綾子はエリックを残して後ろ髪引かれながら朝食に向かった。




