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人狼の花嫁〜薄幸の犬好き令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第15話 素振りと確信

 翌朝。

 エーリッヒは日が昇るとまずは馬に乗って馬場と庭を駆け、一度部屋に戻り、剣道着と袴に着替えにかかる。


 袴の紐を結びながら頭に浮かんだのは、昨夜、エリックになって会いに行った時の綾子とのこと。昨晩はあまりにも動揺した。なんということだ。


 まさか、あの姿でキスされるなんて想定外。しかもあれはプロポーズハイラーツアントラークではないか。

 呪いにかかっているなら、キスで姿が人に戻ったのならば、一緒になろうと言っていたではないか。


 エリックに。

 エーリッヒではない。エリックに。


(なんて人だ……気づいているのか?)


 いやいやそんなわけはない。エーリッヒはかぶりを振った。


 通常の竹刀だけではなく、専用の木刀を手に取った。

 これはエーリッヒが伸晃と共に子供の頃から世話になっている道場で使用されているのと同じ木刀だ。


 竹刀の倍以上の重さのとんでもない代物である。

 伸晃とエーリッヒが通っていた道場は、今のご時世においてなんの意味もない「実践に特化した」剣術を学べる道場だ。エーリッヒは師範代として認められるくらいの実力の持ち主であった。


(綾子は悪くない……)


 確信した。

 いや、信じたくなった。

 あの娘は、何も悪くない。


 だが、どういうことだ。婚儀前、聞いた話はなんだったのか。葛木夫妻の言っていた娘とは次女。つまり綾子の妹のことなのだろうか。

 次女とはきっと今夜の大山家の夜会で遭遇することになるに違いない。


 彼は和館に向かい、日本庭園に出ると木刀を正眼に握り、寒空の下素振りを始めた。


 一心不乱に、千本。

 終えて、縁側に木刀を置いた。

 太陽の位置を確認する。一時間は経っていないだろう。


 もう一本素振りするか。だが流石にきついので竹刀に変えよう。


 いやしかし、暑い。とにかく暑い。

 馬に乗ったのち、身体の火照りを解消せずに素振りを始めたのが悪かったようだ。

 彼は再度立ち上がると、あらかじめ用意してあったバケツの水を頭から豪快にかぶった。


「み、水ですか!?」


 綾子の声が聞こえて、エーリッヒははっと顔を上げた。

 建物の影から綾子が姿を現す。


「……いつから見ていた?」


 全く気づかなかった。いつからいたのだろう。

 エーリッヒはあっけにとられたまま、濡れて垂れてきた前髪を掻き上げた。


 化粧っけのほとんどない顔は少しあどけなく見えた。髪はきちんと結ってまとめていて、大人っぽい髪型との落差になんだか心が騒いだ。


 覗いていたことを申し訳なく思っているのか、綾子はまつ毛を伏せるように目を逸らした。


「左右面打ち、九十回目くらいからです……その後の早素振りは百本見てました。その木刀、素振り用のものとしてもあまりにも重いものを使ってらっしゃるなと思って……」


 言われてすぐにピンときた。


(剣道、わかるのか……)


 濡れ縁に置いてあったタオルで乱雑に顔を拭くと、竹刀を手に取る。

 念の為に持ってきていたものだ。


「こちらへ。経験者だな? 珍しい……」


 綾子はおずおずと近づいてきたので、エーリッヒは竹刀を綾子に手渡した。

 綾子は不思議そうに竹刀を受け取ってエーリッヒを見やった。

 一方の彼自身は先ほど使っていた木刀を手に取る。


「防具もないし試合をする気はないが、君の構えが見たい。蹲踞そんきょはできないだろうから省略だ。宣告は俺がしよう」


 エーリッヒが言えば、綾子は「心得ました」と小さく頷いた。


(本当に剣道が()()()人だな……)


 エーリッヒは左手に木刀を持ち、一度背を向けて綾子から離れた。

 改めて向き直り、小さく目礼。


 竹刀を持った左手を腰に当てる。帯刀だ。エーリッヒが足を進めれば、綾子も同じく三歩前へ。


 ここで示し合わせたように右手をつかにかけ、綾子は竹刀を、エーリッヒは木刀を抜いた。

 

 本来ならばここで蹲踞そんきょという基本姿勢を取る。つま先立ちになり、膝を開いて深く腰を落とし踵に尻を乗せるのだが、袴姿でない和装の綾子にそれは無理というものだ。

 なので先ほどは省略と伝えたのだ。

 

 主審はいない、エーリッヒが宣告する。


「はじめ!」


 エーリッヒは迷いなく木刀を振り上げた。上段の構えである。

 綾子の竹刀は、迷うことなくエーリッヒの左拳にピタリと向いていた。平青眼ひらせいがんの構えである。全くブレはない。


 実のところ、エーリッヒが構え始める直前に綾子は動いていた。

 エーリッヒがどんな構えをするか先に見越していたようだ。


 彼は小さく笑みを浮かべて木刀を下ろした。綾子も同じく構えを解く。

 ゾクゾクした。こんなに興奮したのは久しぶりだった。

 思っていた通り、彼女は初心者ではない。


 平青眼の構えは、中断の構えの応用。上段の構えの相手との試合でしか使わない構えだ。

 

「なぜ俺が上段に構えるのを確認する前に平青眼に構えようと思った?」

「わたしが伯爵さまの体格でしたら、迷うことなく上段の構えにすると思いまして」


 伯爵さまと呼ばれて、エーリッヒは胸を錐で突かれたような痛みを覚えた。だが、「旦那さまと呼ぶな」と言ったのは自分自身である。


「あと……実は左利きでは? わたし、二段突きが得意ですわ」


 にこりと綾子は微笑んだ。

 箸は右で使うようにしていた。書き物をする時も右手を使っていた。


(どこで気づいた?)


 上段の構えは上から打ち下ろすため、背が高く、それから左が相当強くないと使いこなせない。


 上段の構えの攻略は、胴ががら空きになるため懐に飛び込んでの突き。それから、左小手。


(俺の負けだ……)


 エーリッヒは殴られたようなショックを受けた。

 日本の引っ込み思案な華族の娘。そう思って、あまりにも彼女を下に見ていたことに気づいたからだ。


 この人は、できる。

 

「剣道は誰から?」

「亡き祖父でございます。ありがとうございました。とても楽しかったです。あの……先ほどかぶられたのは水でございましょう。誰かにお風呂の支度をするように伝えて参りますわ」

 

 竹刀を縁側に置いて、洋館に向かおうとする綾子に駆け寄った。


「綾子、待ってくれ」


 左手で、彼女の右手を取った。

 茶色い愛らしい目がめいいっぱい見開かれて、エーリッヒを見上げていた。


「すまない、俺は君を誤解していたようだ」

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