第14話 あるいは呪いにかかった王子さま
「様子を見に行く」
エーリッヒはアンネに盛大に頬を打たれた後にそう言って、羽織を脱ぎ捨てると帯に手をかけた。
彼はそれを解こうと思ったが、ひととき動作を止め、アンネを振り向いた。
「アンネ、何か……握り飯とたくあんとか梅干しとか、すぐ準備できそうなものを頼む。俺もすぐ厨房に行く。茶漬けでもいい」
「仕方ないですわね……準備しますわ」
アンネはくるりと背を向けて部屋を後にした。
「心配なのか?」
「……ノーコメント」
「あの人にとっくに惚れてんだろ?」
「こんなつもりじゃあなかった……俺たちみたいな家柄の人間って恋愛なんてできないと思ってた」
「幸運なこった羨ましいぜ。じゃあ、めいいっぱい優しくしてやれよ。嫌われるぞ」
着物を肩から落とし、襦袢に下履きも脱ぎ捨て、狼の姿に変身した。
「安心しろ、もうとっくに嫌われてる」
エーリッヒがその場で項垂れていると、後ろから足音が聞こえた。
振り向くと、伸晃がゆっくり膝をついたところだった。
「明日、夜会でしっかりエスコートしてやれ。お前、見た目だけは抜群にいいんだから。綾子さんからしても、自分よりでかい男ってのはポイント高いと思うぜ。あの高身長、今までちくちく言われてそうだ」
背中をわさわさ撫でられた。
確かに、基本的に日本人男性は綾子より背が低い。
女は貞淑で慎ましく。そう考える日本男児ならば彼女をうとましく思ってもおかしくない。
「見た目だけってのは余計だ」
「まあとりあえず、エリックになってご機嫌取りしてこい。綾子さん、エリックのことは大好きだぞ。本当に大好きだ」
「騙してるようなもんだ」
「仕方ねぇよ普通の人間じゃないんだ。でもな……あの人になら、お前を預けられる。そんな気がするんだ」
「お前もとうとうお役御免か。そうなればいいな」
「そしたら俺もいい加減嫁さん探すよ。行ってこい」
エーリッヒは腰を上げた。伸晃がドアを開けてくれたので、犬の仲間ゆえに猫と違い引っ込めることのできない爪をチャカチャカ言わせながら廊下を進んで厨房に向かった。
***
「明日、夜会ね……」
綾子は寝台の上で膝を抱えていた。
明日、どんな顔でエーリッヒに会えばいいのだろう。
あの人が全くわからない。
今まではなんとか耐えてこられた。
エーリッヒは、綾子を助けてくれた恩人だ。何か勘違いしている。きっと疑いがとければ、婚約中のように優しい彼に戻ってくれるはずだ。
「戻りたい……」
あの頃に戻りたい。彼は葛木家の庭で、そっと手を握ってくれた。一緒に秋のバラが咲く庭を歩いた。
エスと一緒にボール遊びをした。遊んでもらえてよほど嬉しかったのか、興奮して跳ね回るエスに飛びかかられてひっくり返って立派な仕立ての洋服が汚れても、彼は「元気だなぁ」と笑っていた。
二十五歳の綾子を「お嬢さん」と呼んでくれた。あんなに嬉しかったことはない。
涙がとめどなく溢れた。
その時だ、扉を叩く音が聞こえた。綾子は律儀な性格だった。そして、自分が女中をしていたから彼女たちの仕事がどれほど大変なのかよくよくわかっていた。涙を拭って、返事をして廊下に面した扉に向かう。
「奥さま、アンネです。すみません。エリックは奥さまに会いたいです」
「まあ、エリックが!」
綾子は迷わず扉を開けた。
夜、彼はエーリッヒの部屋で休んでいると聞いていた。
「エリック、来てくれたの? すごく会いたかったの。嬉しいわ」
「奥さま、泣いていますか?」
アンネが慣れない日本語で心配そうに聞いてきた。
「大丈夫。目にゴミが入ったの。あら……それは」
そばのワゴンには盆に載った湯気を立てるお椀といくつか小鉢。
「鯛のスープご飯です。少しでもいいです。食べてください」
「いただくわ。少し、お腹が空いていたの。ありがとう。どうぞ入って」
テーブルに食事を置いてもらう。食べ終わったら廊下のワゴンに置いておくように言われたので「ありがとう、ゆっくり休んでねアンネ」と伝えて下がらせた。
「エリック、ちょっと食べてしまうから待っていてね」
エリックは綾子を見上げてクーンと鼻を鳴らした。
絨毯の上とはいえ、床にお座りさせておくのもかわいそうだ。
化粧台の椅子を持ってきて、エリックに上に乗るように言うとすぐに飛び乗った。
「あなた本当にお利口さんねぇ」
頭をぐりぐり撫でてやり、綾子は改めて膳の前に腰を下ろした。
いただきます、と小さく手を合わせて、木製の匙を手に取る。
ほかほかと湯気を立てるお椀には洋風の雑炊のような、茶漬けのようなものが盛られていた。ほぐされた鯛からバターが香り、コンソメスープがじんわりと染み入る。味のアクセントとなるのは振りかけてある削ったチーズだ。
大丈夫だ、この屋敷には、綾子によくしてくれる人がたくさんいる。
アンネもそうだ。女中頭の恵子も、それから執事の四郎。伸晃もそうだ。
はじめこそ伸晃は綾子を警戒していた様子だったが、いつの頃か「困ったことがあったらなんでも言ってくれ」と味方になってくれた。
綾子は思っていた。兄がいたら、きっと伸晃のように親身に相談に乗ってくれるのだろう、と。
「美味しいわ。いつも美味しいものを食べさせてもらって、旦那さま……あ、旦那さまって言うなって言われたんだわ。伯爵さまには感謝しているの。何かお役に立たないと……」
隣にいたエリックが、クンクン鼻を鳴らした。
ご飯をねだっているのではないことだけはわかった。
「どうしたの? 食べてしまうからちょっと待ってね」
いつもの彼と違う。いつもはもっと静かで、感情があまり見えなくて、スマートでクール。
実家にいた犬たちとは比べ物にならないくらい冷静沈着。それが綾子の知るエリックだ。
「ごちそうさまでした」
綾子は食事を終えると、廊下のワゴンに膳を出した。
この部屋には、サンルームのようなソファはない。どこでエリックと戯れればいいのだろう……綾子は悩んだ挙句寝室に彼を呼んで、寝台に上がった。
「おいで、かわいい子」
呼べば、エリックも飛び乗ってきた。
広い寝台の上、彼はぴったりと身を寄せてきた。極め付けに、耳を後ろに倒して不安げに綾子を見上げてきた。
(どうしたのかしら……かわいいけど)
もしかしたら……と綾子は推測した。
エーリッヒのところで何かおいたでもして、叱られたのかもしれない。
綾子はエーリッヒのことで悩んでいたことなど、もはやどうでもよくなってしまった。
明日の夜会は人の目もある。なんと言ったって、大山家の夜会。
なるようになるだろう、きっと。
今はエリックの方が心配だ。
(大人しくて犬らしくない子だと思っていたけど……)
「本を読んであげるわ。ドイツ語だけどいいかしら」
飽きたらどこかに行くだろう。枕元に置いていたおとぎ話を手に取った。開いたページは、いばら姫。
それほど長い話ではない。
エリックはベッドの上にぺたりと伏せて耳をくるくると動かして聞いてくれた。
王子のキスで呪いが解けて姫は目を覚ました。城の皆も目を覚まし、そしてふたりは結婚し幸せに暮らした。
「長いのに付き合ってくれてありがとう。寝ていてもよかったのよ? 真面目な子ね」
綾子は膝の上の本をぱたりと閉じて、枕元に戻した。
綺麗な青い目が、綾子を見つめていた。
「わたし、なんなのかしらね」
綾子は、エリックの鼻筋から額を撫でた。
「わたしはお父さまにあやかしが憑いてるんじゃないかって言われたわ。胸に変な形のあざがあるし。婚約者はふたりとも亡くなって……お母さまも、妹も亡くなったわ」
綾子が愚痴を吐ける相手はエリックしかいなかった。わかるはずもないだろうが、彼はいつも綾子の声に耳を傾けてくれた。寄り添ってくれた。
「わたし、伯爵さまを騙してるのよ。本当に何かとり憑いてたらどうしたらいいの? 婚約して、式の日程も決まって……でも、だんだん心配になってきたの、伯爵さまにも何かあったらどうしようって。もし、もし、本当だったら……。あの家から出たかったから伯爵さまを利用したのよ。こんな、最低な……」
最後はうまく言葉にならなかった。
目の奥がつきりと傷んで、涙がこぼれそうになったので堪える。
エリックは小さく鼻を鳴らして、前脚で綾子の膝をつついた。
「ありがとうエリック。元気づけてくれて嬉しいわ。わたし、安心したのよ。無事に婚儀の日になって、あの人は惚れ惚れするような礼服姿で現れたの。わたしはこれから幸せになれるのねって。でも……それからはあなたも知っての通りよ」
両手で頬をそっと包んだ。
「あなたが呪いにかかった王子さまならいいのに。わたしはずっと女中をしてたわ。ご飯も作れるし、掃除も洗濯も得意。馬にも乗れるし、珍しい野菜やハーブも畑で育ててたのよ? ねえ、一緒に田舎で暮らさない?」
綾子は、エリックの鼻にそっとくちづけた。
おとぎ話ならこれで呪いが解けて人の姿になるはずだが、もちろん姿は変わらない。
綾子は自嘲するような笑みを浮かべた。
「やっぱりだめね。ふふ、知ってたわ……あら? どうしたの?」
凍りついたように目をまんまるに見開いたエリックは、自分の鼻をぺろりと舐め、はっと我に返った様子でものすごい勢いで立ち上がると寝台を飛び降りた。
スプリングの効いた柔らかな寝台が大きく揺れた。
「エリック!」
彼は前足で器用に扉を開けた。綾子はエリックを追いかけた。
「嫌だったわね、ごめんねエリック!」
廊下に飛び出した彼を追って顔を出したが、その姿はすでに見えなくなっていた。




