第12話 無理やりのキスは罪の味
え、と綾子は混乱しきりで目を見開く。本を持ったままの左手は宙を彷徨っていた。
婚儀の際、彼は綾子の頬に掠めるくらいのくちづけを落とした。しかし、あくまで頬である。
唇は初めてだった。
「っ!」
彼を押しのけようとした右手に彼の左手が絡んで壁に縫いとめられる。
何が起こっているのだ。
綾子は目をぎゅっと閉じた。
首を振って逃れようとしたが、顎を掴まれていた。綾子にできることは何もなかった。
未だ唇は触れ合ったまま。啄まれ、下唇をたっぷりと吸われる。
綾子は凍りついたように無意識に息を止めていた。
だが、もう限界だった。唐突に息苦しさを思い出す。
一瞬唇が離れたその時に引き結んでいたそれを解いて空気を求める。
だが、その一瞬を見逃す男ではなかった。
「ん、ぅ……」
次の瞬間、エーリッヒの舌が綾子の口腔に侵入してきた。
綾子の思考は、雪原のように真っ白に染め上げられた。驚きに身体を硬直させる。
どうすればいいのかわからなくて縮こまった舌を探り当てられ、絡め取られる。
冷ややかな言葉や態度とは対照的な熱い舌は、綾子を翻弄し尽くした。腰に手を回されて抱き寄せられていることにも彼女は気づいていなかった。
びく、と背が震えた。膝から崩れ落ちそうだ。
手に持っていた本が落ち、硬い音を立てる。
それで我に返ったのか、くちゅ、と湿った音を立てて彼の唇がようやく離れた。
つ、と唾液が細い橋をかけて、ふつりと途切れる。
「は……」
エーリッヒのなまめかしい吐息と同じくして綾子が目を開けると、まず唾液に濡れてつややかな薄い唇が目に入った。
細められた目、息をのむほど美しい男がそこにいた。
少しだけ潤んだ薄いブルーの瞳が静かに綾子を見下ろしている。
(エリックとそっくり……)
鼻先が触れんばかりの位置に再度顔が近づいて綾子が思わず顔を背けると、エーリッヒは彼女の耳に唇を寄せた。
濡れた唇から、掠れた声が紡がれる。
「ノブを……伸晃をたぶらかそうとしてもそうはいかないからな。覚えておけ」
彼はくるりと背を向けると、そのまま靴音を響かせて去っていった。
綾子はその場に腰を抜かしたように膝をついた。
呆けたように宙を見つめ、それからはっと思い出して落ちた本に手を伸ばし、それを胸元に抱きしめた。
(一体、何を考えていらっしゃるの?)
エーリッヒの胸中がまったく読めない綾子がいた。
***
エーリッヒは廊下を進んで書斎に戻った。
仕事場としている部屋である。
書斎はつややかな飴色の机が二つ並んでいた。
その片方に、伸晃が座っている。
「ん〜? どうした、そんな怖い顔して」
「ノブ、お前あの女に近づきすぎだ。俺と違ってお前は死ぬんだから気をつけろ」
「誰から聞いた?」
「あの女だ」
「エリックに喋ったってことか」
伸晃は頬杖をついて実に面白そうに口の端を上げた。
「綾子さん、なかなかダンス上手だよ。エーリッヒと俺、身長あんまり変わらないから練習にちょうどいいって目ぇつけられたみたい」
「笑い事じゃない! 何かあったらどうするんだ!」
彼は伸晃の机に詰め寄った。
「あ、あとそれから。あの人かなり勉強できる。ドイツ語も英語もなかなかだね。数学も歴史も知識は十分。最近の国際情勢はあんまりわかってないみたいだから、ものすごい質問の嵐。でも質のいい問いだ。いい女を捕まえたな」
伸晃には何を言っても無駄だ。
エーリッヒは嘆息して己の机に向かうと、椅子を引いて腰掛け、腕を組んだ。
「そろそろ、ちゃんと聞いたほうがいいんじゃねぇか? なんで女中の格好してたのか」
「俺を油断させるためだ」
「わかってんだろ、婚約者が二度も死んで、婚期を逃したからだ。あそこの親父、結構信心深いらしいじゃないか。きっと、謹慎させてたんだ」
「その婚約者をなんらかの手段を使って殺したのはあの女だ」
「いい加減、もう信じてねぇんだろ? いっつもエリックになって遊び行って、ヘハヘハ言いながら撫でられたり膝枕耳掃除とかされてるってアンネが言ってたぞ」
(アンネめ……余計なことを!)
エーリッヒは煩わしそうに足を組んだ。
彼はアンネに婚礼の日の葛木夫妻のことは話していなかった。余計な心配をかけたくなかったからだ。
しかし、必要以上に綾子に近づくなと散々言っていた。
だが、彼女はまったく聞いてくれなかった。
むしろ、諫言の言葉を頂戴してしまった。彼女は「奥さまは悪い方ではございません、少しは顧みてください!」と言って、一歩も引かなかった。
「サンルームはあの姿の俺にとって暑いんだ! ハアハア言わない犬がいたらおかしいだろ!」
「わーったよ。で。なんでそんな虫の居所が悪いんだ? 珍しいな。どんなクソみたいな客にふざけたこと言われても無茶言われても異人変人扱いされても飄々としてるお前がそんなに不機嫌撒き散らしてさぁ」
そう言った伸晃はわかりきったような笑みを浮かべていた。
エーリッヒは思わず目を逸らした。
目の前には、鉛筆が転がっていた。普段書き物をするときは万年筆を使うが、図面にメモ書きをする場合はこの鉛筆を使うことも多い。なんとなく、それを手に取る。芯が折れていたのか、先端がぽろりと落ちた。
「俺に嫉妬してるんか?」
伸晃が勝ち誇ったように言った。エーリッヒは言葉に詰まった。
「……そんなわけあるか」
「明日の夜会、ちゃんと踊ってやれよ? あんたに恥かかせないために綾子さんは俺と練習したいって言ったんだ。男と踊ったことがないって言ってた」
「それがどうした」
「お前が意地張ってるからあの人のファーストダンスはこの俺だぞ? いいんか?」
(全然よくない……)
明日は伸晃の実家、大山家の主催する夜会があるのだ。
もちろん、エーリッヒと綾子にも招待が来ていた。
大山家、現当主である伸晃の兄秀治とはもちろん面識もある。面識どころか、兄のような存在だ。奥方と一緒に、と言われてしまっていて断る術はなかった。
しかも、秀治は大手銀行の頭取。事業でも散々世話になっている。
綾子とどんな顔をして過ごせばいいのだろう。
「俺はお前を心配してるんだ。何かあったらどうする?」
言い訳するように早口で告げたエーリッヒに、伸晃が答える。
「まあ、最近この屋敷でも何度か変な悪寒感じることあるけど……」
「ほらみろ、変な感じしてるんだろ?」
「でも、綾子さんから発せられてる感じじゃあない。屋敷の外から見られてる感じだ。これだけは言える!」
エーリッヒは黙り込んだ。
彼は抽斗から小刀を取り出して、無心で折れた鉛筆を削り始めた。
何か手を動かしていないとどうにかなりそうだった。
彼は伸晃の第六感をことのほか信用していた。
先ほど、泣きそうな顔でエーリッヒを見上げた綾子の顔が脳裏によぎる。
なぜ、無理矢理あんなキスをしてしまったのだろうか。
いや、わかっていた。
伸晃の言った通りだ。
嫉妬したのだ。彼女が伸晃の話ばかりするから。
今まで彼女と一緒に暮らしていて危ない目に遭うこともなかった。彼女はおそらく悪い女ではない。
とっくに気づいていた。それでいて、その結論に蓋をし続けていた。
(ひどいことばかり言って、放置して、今日はあんな無理矢理……)
さぞかし、嫌われているに違いない。
「なあ、その、明日の夜会の件なんだけどさ。さっき聞いたんだけど、兄貴がさ……葛木家も誘っちまったらしい」
その瞬間、時が止まった。
エーリッヒははっと伸晃を見た。




