第11話 いばら姫の王子さま
また、ひと月が経過した。
綾子は三週間前からこっそり伸晃に頼み込んでドイツ語と英語を教えてもらっていた。
彼のドイツ語の教育は手慣れたものだった。
なぜかというと、彼らオイレンブルク商会は、ドイツ製の機械を日本に売るだけでない。日本人をドイツの機械製造元に送り込むのだ。
なので、ドイツ語の基礎教育に関しては玄人集団であった。
武者修行としてドイツでメンテナンスや操作の方法を学んだ日本人技師を日本の各工場に派遣し、納入した機械の試運転のみならず、操作の指導や修理も行う。
列強各国と比べて工業の遅れた日本国において、これは画期的なことであった。
日本人にとって慣れない最先端の海外の機械を、売りつけて売りっぱなしにしないのである。
エーリッヒが外国人でありながら日本の要人や工場の作業員まで味方につける理由はそこにあった。
伸晃は言った。「エーリッヒは、付加価値をつけないと二台目三台目のリピート受注は望めないって口酸っぱく言ってる。売ったからには、サポートも抜かりなく責任を持つ。それが俺たちの信条だ」と。
伸晃のドイツ語の指導は厳しかったが、安寧なだけの生活にハリが出た。エーリッヒとのこともあったが、何より、いつも気を遣ってくれるアンネとの会話が円滑になるならと綾子は机に向かう時間を増やした。
英語も、アメリカに留学していた伸晃のそれは一流だった。
綾子は伸晃に師事することを決めていた。
彼は間違いなく、オイレンブルク商会の頭脳であった。
代表であるエーリッヒの女房役、それは間違いなく伸晃。
妻として認めてもらえないならば、綾子が目指すべくは伸晃だ。
仕事で、何か彼の補佐ができたらいい。
頑張らなくては、役に立たなくてはいけないのだ。
実のところ、綾子は未だ葛木綾子のままであった。
婚約中エーリッヒから聞いた話だが、婚礼の前にエーリッヒはドイツ大使館に行ったが、結婚を認めてもらえなかったらしい。
エーリッヒは「相手は華族だ。ドイツで言うところの貴族だ。貴賎結婚ではない!」と散々主張したらしい。最終的には駐日ドイツ大使まで出てきたようだが許可は降りず。
どうも、欧州が戦時前のような独特な空気であることもよろしくないようだった。
綾子も綾子で、婚儀の前に日本国に彼との婚姻を認めてもらおうと奔走していた。
しかし、華族を管轄する宮内省の面々は綾子の話を聞いて泡を食ったように驚き、続いて難色を示し、「華族の令嬢と異国人の結婚など聞いたことがない」と取り合ってくれなかった。
エーリッヒは言った。「今は難しそうだが、きっといつか認めてもらえる」と。その言葉に、綾子が問いかけた。「予定通り、先に婚儀をいたします?」彼が答えた。「ああ、君さえ良ければ。結婚なんて国が認めるかどうかじゃないだろう。俺たちが互いを夫婦と考えれば、それだけでいいはずだ」エーリッヒは苦笑していた。
綾子はしばし逡巡し、明るく口を開いた。「子ができれば、変わるかもしれません」一拍間が開く。「そうだな、そうかもしれない。後から決まりも追いついてくるだろう」エーリッヒは微笑んだ。
そうして彼は、綾子の手を取り、うやうやしくくちづけてくすぐったそうに笑った。
綾子は、婚儀前の会話を思い出して小さく微笑んだ。
いつかあの頃のふたりに戻りたい。
思えば、自分は対等に話をしてくれる礼儀正しい異国の紳士に恋をしてしまったのだろう。
しかし、今はただの同居人、いや、居候だ。
正式な婚姻関係でない以上、家長である父親に葛木家に連れ戻されたら何も文句が言えない立場。
彼にこの家から追い出されても、綾子はどうすることもできない。
日本政府からしたら、綾子とエーリッヒは他人だ。
証は、あの婚儀の儀式だけ。
妻でなくてもいい。なんとかしてここに置いてもらわねば、窓のない部屋で残り物を食べ、朝から晩まで家の仕事をこなし、父にぶたれ、妹と弟に罵倒され、外出も許されず、本も読めず古着を着て過ごす日々が戻ってくる。
いいや、そんなことはどうでもよかった。
麗しい彼を間近で見ることができれば、それで満足だ。はなから綾子には過ぎた男だろう。見ているくらいでちょうどいい。綾子はそう自分自身に言い聞かせていた。
学生時代の成績は悪くなかった。女中の仕事もできる。外国語ももう少し使えるようになれば、少しは役に立つだろう。
「エリック、伸晃さんって本当に知識が豊富なのよ。ドイツ語と英語だけじゃなくてフランス語も話せるみたいで……すごいわよね。財閥の方なのに、下男にも女中にも優しいし……」
綾子は今日もエリックとサンルームで戯れていた。
この日、午前中は一時間ほど講義を受けて、その後はアンネとリンゴケーキを焼き、共に昼食をいただきながら焼けるのを待った。
昼食後はそのケーキの味見をした。アンネはエーリッヒと伸晃の夕飯のデザートにすると笑顔だった。しばらく置いたほうが、しっとりして美味しいらしい。
午後は伸晃に少しだけダンスの手ほどきを受け、その後はドイツや欧州各地の情勢について自習に励んだ。
その後、日が沈み始めた空の見えるサンルームで茶を飲んで焼き菓子を食べていると、エリックが現れたのだ。
いつものように綾子が一方的に話しかけていた。
エリックはたまに耳をくるくる動かして尻尾を振り、今や綾子の膝に頭を預け寝そべっていた。背をゆっくり撫でてやる。
「明日夜会があるから伸晃さんに少しだけダンスに付き合ってもらったの。昔習ったきりだったから心配していたけど、なんとかなりそう。男の人と踊るの、初めてだから緊張したわ」
(ダンスで失敗して、エーリッヒさまに恥をかかせるわけにはいかないものね……本当はエーリッヒさまと練習したかったけれど)
しかし、エリックは話の途中でつまらなそうな顔をして起き上がると、ふい、と顔を背けてどこかに行ってしまった。
「ふられちゃったかしらね……」
綾子は苦笑して立ち上がった。癒しの休憩時間は終わってしまった。
勉強でもすることとしよう。
(会話だけじゃなくて、本も読まないと……)
女学院時代に家庭教師もつけてもらい、英語とドイツ語はかなり頑張ったが、もうすっかり忘れてしまっている。
遅れを取り戻さないと、と綾子はその後、書庫に忍び込んだ。
辞書はある。文法書もある。
肩の力を抜いて楽しく読める、最適な本はないだろうか。
書庫で本棚を眺めていると、なんと、子供用のグリム童話の本があった。
よし、これにしようと思ったが届かない。
本棚の一番上の棚なのだ。背伸びをしたがどうも無理。その時、ひょいと後ろから手が伸び、目当ての本を楽々取り出した。
「無理せずさっさと諦めて人を呼べ」
呆れ返ったエーリッヒだった。
細かな亀甲絣の美しい、濃い紺色の着流し姿。
見事に着こなしている。同じ人間なのだろうかと思ってしまうほどに見惚れるほどの美しい男だ。
彼は無言で本を綾子に向けた。一瞬息を呑んで、綾子はそれを受け取り礼の言葉を絞り出した。
「あ、ありがとうございます……」
驚いた。元からこの書庫にいたのだろうか。
心臓が口から飛び出さんばかりに脈打っていた。
「……俺は赤ずきんや狼と七匹のこやぎがあまり好きでなくてな……懐かしいな、おとぎ話か。日本語で読んだことがあるのか?」
「はい……」
「好きな話は?」
綾子は率直に驚いた。婚儀以来、こんなに会話が続くなんて、今まであっただろうか。
綾子は彼の西洋人らしい青い瞳をまっすぐに見つめた。
なぜ、彼はこんなことを聞くのだろうか。一瞬思案し、すぐに口を開く。
「いばら姫……が好きです」
「いばら姫か……百年の呪いにかかった姫が王子のキス……接吻で目覚め、城の家臣たちの呪いも解け、目覚める話だな? 意外とロマンチックな話が好みか?」
彼は挑発的とも取れる笑みを浮かべた。
綾子はごくりと唾を飲み込んだ。何か、嫌な予感がする。
「へぇ、華族のお嬢様が一丁前に恋愛に憧れたのか? 平民でもないのに?」
華族の義務はどうした? 彼の目はそう語っていて、綾子は目を伏せた。
恋愛結婚なんて、それこそおとぎ話だ。
だが、だからこそ憧れたのだ。
婚約者を立て続けに亡くし、ついには窓もない狭い部屋で女中同然の暮らしを強いられた。いばら姫や白雪姫など王子様が迎えにきてくれるおとぎ話は、彼女の心の支えであった。
そして、実際彼が現れた。
あの屋敷から連れ出してくれた洋装の異国人はさながら王子のように思えた。
心から感謝しているのに、それを否定されたような気分であった。
「憧れては、いけませんか?」
「いけなくはないが……結局、姫は自分で王子を選んだわけではない。それでいいのかと思ってな」
彼の手が、肩を掴んだ。柱に背がふれた。
息がかかるほど近くに、彼の顔があって、綾子は目を見開いた。
「おとぎ話だって、女は男を選べない。選ばれるだけだ。そんなの俺はどうかと思う。それでいいのか?」
諭すように言う彼の声は最後掠れていた。
「よいわけではないですが……その、親の決めた相手以外でしたら……っ!」
言葉は途中で途切れた。
エーリッヒの唇が綾子のそれを塞いでいたからである。




