第10話 エリックのお世話
はやひと月が経過した。エーリッヒは綾子の知る限り、仕事でいつも忙しそうにしていた。
彼の朝は毎日運動から始まる。綾子が朝起きてカーテンを開けて外に目を向けると、いつものように馬を駆っていた。
門までの道を駆けていき、それから門に至ると戻ってくるのだ。
彼の愛馬は、よく手入れをされてつややかな漆黒をした青毛の馬。エーリッヒの馬術は、少しだけ馬に乗れる綾子から見ても目を見張るものだ。
彼を眺めて、身支度を済ませた綾子は食堂に向かう。
もちろん、昼夜問わず食事はいつも別。
彼はあれきり寝室に来ることもない。
廊下ですれ違ったり、出掛けるために車に乗り込むエーリッヒを自室から見送ったりするだけの日々が続いた。
一方で、綾子も忙しく過ごしていた。
ある日は、夜会や大使館の舞踏会用のドレスのために身体中採寸されたり、またある日は気が早いが大山財閥の花見の為と呉服屋がやってきたり。
この日の午前中は、百貨店の外商がドレスに合わせる様々な宝飾品を持ってきた。
外出時に毎回同じものを身につけていると、エーリッヒが影で何を言われるかわからない。彼の品位にも関わるのでひとつふたつ見繕う。
(本当は、これで十分なのだけれど……)
結婚式で薬指にはめてくれた金色の指輪ひとつあればいい。
結婚指輪をする者はここのところ増えたが、シルバーが多い。ゴールドのものはあまり目にすることはなかった。
このちょっと変わった結婚指輪を彼女はことのほか気に入っていた。
午後は少しのんびりしよう。依然家政を任されていない綾子の余暇はもっぱら庭の散策と、こっそり馬の世話をすること、書庫でいろいろな本を読むことだった。
そして何よりの楽しみは、エリックとの触れ合いだ。
昼食後、少し散歩をした後の昼過ぎ。
サンルームで紅茶と果物をいただいていると、今日もひょっこりとエリックが現れた。
「あらエリック!」
綾子が声をかけると、彼は警戒するような様子であたりを伺いつつも足取り軽くやってきた。
ガラス戸から差し込む光が艶々の黒い毛に当たって美しく輝き、薄いブルーの目は宝石のようにきらめいている。
なんて美しい生き物なのだろう。
「おやつが欲しいの? りんご食べる?」
最後の一切れを差し出す。
一瞬困ったように見上げてきたエリックであったが、綾子が「遠慮しないでいいのよ」と言うとそれをぺろりと食べた。
「お口に合った?」
彼は口の周りをぺろりと舐めた。
満足そうである。綾子は微笑んで、「今日も綺麗ね、エリック」と言って額から頭にかけて撫でてやった。
「ねえ、少しここで待っててもらえるかしら? ブラシを持ってくるわ」
綾子は急いで部屋に戻ってエリックのために用意したブラシを持ってきつつ、女中に湯を張ったたらいと手ぬぐいを用意してもらった。
それから、普段手につけている軟膏も。
急いでサンルームに戻ると、まだエリックはいた。
綾子はソファの端に腰掛けて、「おいで」と言って誘うように隣の座面を叩いた。
彼は意図を察して、黒いしなやかな四肢を躍動させて飛び乗った。
「今日もお利口さんねエリック。今日はブラシで梳かしてあげる。いいかしら?」
ブラシを見せていると、彼は不思議そうに綾子を見た。様子を見て、背中にゆっくりとブラシを当てる。
(大丈夫そうね……)
彼は気持ちよさそうに目を閉じた。
全身ブラッシングししばらくすると、ひとりの女性がたらいとお湯と湯冷しの水、そのほか綾子がお願いしたハサミなどをワゴンに載せてサンルームにやってきた。
彼女はここに嫁いですぐに打ち解けた、仲のいい女中だった。
年齢は親子ほど離れているドイツ人だ。
名前はアンネ。
彼女はレェス編みや刺繍が得意で、綾子は彼女に教わって一緒にレェスを編んで過ごす時もあった。
「アンネさん、ありがとうございます!」
「アンネと呼んでください。何に使いますか? はさみ?」
彼女は日本語があまりうまくない。片言の日本語と、それから綾子の片言のドイツ語、身振り手振りと紙に図を書き付け、なんとかやりとりをしていた。
「足の裏の毛、切ってあげようと思って。この前、エリック廊下で滑ってたの」
アンネはほとんど理解できていなさそうだった。
「彼、滑ってたの……床で」
綾子がエリックの足の裏の毛を指差すと、「ああ! わかりました!」とアンネは言った。なんとか通じたようである。
「ご一緒してもいいですか?」
「もちろんです! エリック、動いちゃダメよ、怪我するから」
わかってるのかわかっていないのか、ソファに横たわって眠りかけている彼の前脚を掴んで伸びた足の裏の毛を短く切った。
前脚と後ろ脚全て処理する。毛の生えていない肉球は、少し乾燥気味だったので蜜蝋でできた軟膏を塗ってやる。
「いい子ね!」
大人しくしていたその頭をわしゃわしゃなでる。
続いて、綾子はぬるま湯を作って手ぬぐいを濡らした。
長椅子の座面に腰掛けると、エリックは「今度はなんだ?」とでも言いたげな顔で綾子を覗き込んできた。
「エリック、伏せ!」
これは伸晃から教わった。
彼は言われた通り、長椅子の上で腹ばいになった。
狭いからか、綾子の膝の上に顎を乗せて見上げてきた。なんてかわいいのだ。
耳を寝かせてねだってきたので額を撫でてやると、彼は尻尾をゆるゆると振った。
「お利口さん、耳掃除してあげるから、大人しくしていてね」
エリックは立ち耳だ。垂れ耳のエスほど手入れはいらないだろうが、どうも世話を焼きたくなってしまう。
「こんなにエリックのお世話をしたら、伯爵さまに注意されてしまうかしら?」
「いいえ、そんなことはありません」
「そうかしら?」
アンネは笑顔で頷いた。
濡らした手ぬぐいて耳を掃除してやると、気持ちがよかったのかエリックは段々と目を閉じて、眠ってしまった。
暖かなサンルームで、ふたりと一頭はしばしやすらぎのひと時を過ごしたが、さすがにいつまでもアンネはその場にいられはしない。
彼女は仕事に戻ると言って去っていった。
「ねえ、エリック。あなたがいてくれてよかったわ」
綾子はエリックの背を撫でながら言った。
未だ彼は膝に顎を預けて、気持ちよさそうに眠っている。
「毎日すごく楽しいの。あなたがいるのなら、エスも連れてくればよかった……」
実家で飼われているポインター、エスは元気だろうか。エリックはきっといい遊び相手になってくれたはずだ。
綾子は、寝ているエリックに独り言のように問いかけた。
言葉が通じないのはわかっているし、そもそも彼は熟睡している。
「伯爵さまと、どうやったら仲良くなれるのかしら……」
婚約中の彼はとても優しかった。「嫁ぎ先が俺のような異国人だと戸惑うだろう、何か気になることがあれば、すぐに聞いてほしい」とはじめに言ってくれたし、いつも綾子のことを「綾子さん」と丁寧に呼んでくれた。
驚くほど気遣いのできる優しい男であった。
(きっと、誤解を解いたらもう少し……歩み寄ってくださるわ)
綾子は今でも彼に感謝していた。
毎日、美味しい食事も出てきて、きちんと整えられた寝台で眠れる。着物だって清潔。美しい庭を散歩だってできる。
あかあかと燃える暖炉。それから、暖房の補助として地下のボイラーで温められた湯を使用したスチームストーブ。
こんな贅沢な毎日を過ごし、優しい女中や家令、下男に囲まれ、その上エリックもいる。
(伯爵さまに、せめてお礼が言いたいわ……)
しまい忘れた舌をちょろりと出し、膝に頭を預けて無防備に眠るエリックを見下ろして、綾子は困ったように微笑んだ。




