Episode2 先触れ
「――エリサお嬢様、エリサお嬢様!」
自室の扉がやや強めにドンドンと叩かれる。
侍女のオリヴィアがエリサを呼ぶ声と共にエリサは寝ぼけまなこを擦りながらベッドから身を起こした。
いったい何事だと、エリサは状況を確認すべく椅子の背もたれに引っ掛けてあったガウンをサッと羽織ると、部屋の窓に目線を逸らして時間を確認する。
窓の外は暗く、日はまだ昇っていない。
ますます不信感を抱いたエリサはひとまずオリヴィアから事情を聞こうと部屋の扉を開けて応対した。
「オリヴィア? 一体何事?」
「エリサお嬢様! 緊急事態です! ザッフェラーノ伯爵夫人が――マリア様が、数時間後に来訪されます!」
「なんですって……っ!?」
驚き、息が詰まるエリサを前にオリヴィアは支度をしなくては、とエリサをせっつかせた。
実に、エリサが父からの手紙を受け取ってから一週間後の出来事であった。
――――・――――・――――・――――・――――
夜明け前のスペリメンターレ王国の王都は美しく、朝焼けに照らされた淡いクリーム色の煉瓦と朱色の屋根から突き出た煙突から上りあがってくる煙が家々の使用人がかまどに火を入れたことを現し、まるで街の目覚めを象徴しているかのようだった。
エリサの母、マリアの来訪の通達を受けたザッフェラーノ邸もまた、数少ない使用人たち総出で朝の支度を進めていた。
ただひとつ他の貴族たちの邸宅と違うのは、令嬢であるエリサもまた他の使用人たちと同じように朝の支度を手伝っているという点だ。
「――ミア、リアはもてなすための食事の準備を、シアはオリヴィアと一緒に屋敷の清掃を」
「かしこまりました、エリサお嬢様。――しかし、お嬢様の身支度はいかがなさいます? マリア様はエリサお嬢様の身なりに厳しいお方でしょう?」
「大丈夫よ、シア。それくらいひとりでできるから」
不安げに尋ねたシアにエリサはそう返した。
もとより他人に体を触られたりすることが苦手なエリサだ。それにここにある衣服はどれもひとりで着られる仕様のものばかりだった。
「皆、マリア様が来られる前に完璧に支度をすませてください。でなければエリサお嬢様が叱られてしまいます」
「「はい、承知しました」」
オリヴィアの言葉に皆が頷く。
ここにいるのは信頼できる仲間だ。だからエリサは安心して自分のことに専念することができる。
「それじゃあみんな、おねがいね」
エリサは長年連れ添った三人の使用人と侍女であるオリヴィアにそうお願いし、自身の身支度を終わらせるため自室へと向かう。
足早に駆けこんだ自室からまっすぐクローゼットへ向かい、手近にあったドレスを掴んで着替える。
エリサが手にしたドレスは深い緑色の落ち着いたものであり、前で締めるタイプのコルセットと同化したものだ。
「……う~ん、これが一番着やすいし……、これでいっか」
母マリアが見たら小言を言うかもしれないが、エリサにとってはこういった前で締めるタイプのドレスが一番着やすい。
エリサはドレスに袖を通すと、部屋の片隅にある白いドレッサーへと向かう。
ドレッサーに備え付けてある鏡を覗き、自分の姿を確認するとそこには寝癖が付いた栗色の髪の女性の姿が映った。
ひとまずこの酷い髪をなんとかしなくては、とエリサはドレッサーの引き出しから櫛と香油をを取り出して撫でつけるように梳いていく。
だが梳けども梳けどもエリサの髪は言うことを聞いてはくれず、思わず投げ出しそうになったその時、エリサの部屋の扉を誰かが叩いた。
「エリサお嬢様、エリサお嬢様。入ってもよろしいでしょうか?」
「オリヴィア? いいわよ、入って」
エリサは扉を叩いたオリヴィアにそう言い、オリヴィアを中に入れさせた。
「どうしたの?」
「いえ、エリサお嬢様のお召し替えのお手伝いをと。エリサお嬢様の髪は強情でしょう? それに、今日に関してはマリア様が来訪されますし、普段通りというわけにはいきませんから」
「それは、そうね……。ありがとう、オリヴィア」
「いえ。お嬢様の侍女として当然の事ですから」
エリサは大人しくオリヴィアの言う通りにした。
オリヴィアの言う通りエリサの髪は一見するとサラサラ真っ直ぐなストレートに見えて、その実癖っ毛なのである。
一度寝癖がつけばちょっとやそっとじゃ直らないし、朝綺麗にセットしても午後には癖が顔を出して髪型が崩れてくる。
だからエリサは普段、髪は軽く梳くだけで放ったらかしにしているのだが、母であるマリアが来訪するとなると話が変わる。
「マリア様は私がお仕えしていた当時からお厳しいお方でしたから。エリサお嬢様に淑女らしく振舞っていただきたいのだと思いますよ」
「そう、淑女ね……」
淑女。エリサにとっては憂鬱になる言葉だ。
お人形のようにおとなしくしていなさい。夫のよき妻になるように。
エリサはこれらの言葉が大嫌いだった。
だって、まるで自分の人生を歩んでいないような感覚に陥るから。
「……さ、これで完璧です」
オリヴィアの言葉にエリサはハッとして視線を上げた。
鏡に映るのは先ほどとは打って変わって寝癖ひとつない真っ直ぐに下ろした綺麗な艶のある茶髪。
髪の一部だけ結い上げられたこの髪型はエリサが未婚であることの証明だ。
「ありがとう、オリヴィア。さて、お母様が来る前に準備を終わらせなければ」
「そうですね、エリサお嬢様。急ぎましょう」
エリサとオリヴィアは互いに顔を見合わせて頷く。
かくして、エリサとオリヴィアは母であるマリアを迎えるための準備を進めるためにエリサの自室から出たのであった。
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「「お帰りなさいませ、マリア様」」
玄関ホールにザッフェラーノ伯爵邸で働いている使用人が一堂に会し、ザッフェラーノ伯爵夫人でありエリサの母であるマリアを出迎えた。
上品な薔薇の香りを纏ったマリアは落ち着いた薄紅色のドレスを着こなし、蜂蜜色の髪を高く結い上げた貴婦人であった。
母とは対照的な格好のエリサもまた母を出迎えに玄関ホールへと赴き、母の来訪を表面上は歓迎した。
「お母様、ようこそいらっしゃいました」
エリサは母を前に膝を折り、淑女の礼をした。
「……ひさしぶりね、エリサ。元気にしていたようで」
「ええ。お母様もお変わりないようで安心しました」
エリサは顔を上げてマリアに微笑んだ。
相変わらず淑女の模範例のような母の姿に、エリサは内心辟易した。
対してマリアはエリサの格好を一瞥するなり、眉を顰めた。
「……ところでエリサ。あなた、普段はこういった格好で過ごしているのかしら? 髪型は悪くはないと思うけれど、服のセンスは相変わらずね」
「……申し訳ありません、お母様。なにせ急な来訪でしたので、準備をする間も惜しかったのです」
「そう……、使用人を労わる姿勢は嫌いではないけれど、あなたももう成人したのですからしっかり淑女としての礼節をわきまえなさいな」
マリアはふう、と息を吐くと今度はオリヴィアに声を掛ける。
「さて、オリヴィア。荷物を運び入れたいから手伝ってちょうだい」
「かしこまりました。マリア様」
マリアから指示を受けたオリヴィアは一礼をした後、恐らく屋敷の外に乗り付けているであろう馬車に積み込まれている荷物を取りに向かう。
エリサは母を邸宅の部屋へと案内するため、マリアをゆっくりと見上げたのだった。
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